赤縄








「小十郎、いるか?」
 独特の柔らかく高い声と共に、勢いよく部屋の障子が開かれる。そして現れた彼はニコリと、それはそれは子供らしい、日だまりのような笑顔を向けてきた。
 それだけで小十郎の胸は感激で一杯になる。多分、この部屋に誰か他の者がいたのなら、強面の小十郎が見せる締まりのない顔に、ギョッと目をむくことだろう。
 最初、この幼い主の傅役を命ぜられた頃はいったいどうなることかと思っていた。
 達観した目、老成な物言い。諦めを口で唱えながら、そこにのせているのは希望ではなく野望。子供という器には収まらない覇気。そして、人を信じ切れず強く拒絶する心とその温もりを乞う心。
 本当に彼の傅役が務まるかどうかと不安だったが、自らの全てを擲ち仕えることで、彼は心を開いてくれた。そして彼は自由を奪い繋ぎ止めていた右目を小十郎に切り取らせ、代わりに右目となれといい、小十郎は誓った。生涯、彼の右目であり続けることを。
 後悔などはない。むしろ光栄で今は幸せすぎると思うほどで。
 幼い彼に心酔している自分は異常とも言えるが、かといってその事実を何ら隠す気もなく。それほど少々とち狂ったモノが組み込まれた主従の絆が出来てしまった。
 しかも、今はこれ以上なく信頼を向けてくる彼が、主という対象である事は重々解っていても愛しくて仕方ない。心を開いた主が向けてくる子供特有の素直な信頼が、小十郎に若くして強い保父欲を芽生えさせた。
「小十郎?」
「あ、いえ、梵天丸様。いかがなさいましたか?」
 笑顔に見とれていたなどと言えるはずもなく、文机から向きを正し小十郎は微笑みで返す。
 今はまだ、彼の乳母でもあり小十郎の姉である喜多と二人で相手をすることも多い。もちろん寺で虎哉和尚に学問を学び、時宗丸と子供らしい遊びを学ぶことも彼が活発になった事から更に多くもなったが、屋敷に居る時の相手はもっぱら小十郎だ。しかし小十郎自身まだ若く、梵天丸の好奇心を自身一人で埋めることが出来るほど器用でもなかったので喜多の助けは丁度よかった。
「これ」
 小十郎の部屋にやってきた梵天丸はいそいそと部屋に上がりこむと、障子を閉め、小十郎の元に持っていた盆を置いて、そこから一つの小さな皿を差し出した。
 そこに載っているのは一口サイズの小さなおはぎ。
「これは……?」
「喜多と作った。食べてみてくれ」
「……私で、よろしいのですか?」
「あぁ」
 そう言って又ニコリと微笑まれると、自然と又こちらの顔が緩んでしまう。いかんいかんと気を引き締めて差し出された皿を手に取った。
 見た目からしていい出来に、口の中に自然と唾が溜まる。梵天丸は隻眼になってしまったものの手先が器用だ。料理にも興味を持ち少々心配なこともあるが、何にしろ好奇心が旺盛であることは、この年頃ならば歓迎されるべき事。
 ──まぁ、それが勝ちすぎる所もあるが……
 おはぎを手に取り口を大きく広げる。と、視線を感じ彼を見ると、ジッと食い入るようにしてこちらを見ていた。
「……若?」
「あ、え、」
 訝しく視線をやると慌てて姿勢を整え、何でもない風に取り繕う。
「若。もしかして若もおはぎが食べたいのでは?」
「ち、違う。俺はもう食べた。それにそれは、お前のために作ったんだぞ」
「はぁ……それは光栄に存じますが……」
“はて”と首を捻る。又口を開いて食べようとすれば、身を乗り出してこちらを見、彼に目を向ければ気にしていないと下手な演技でそっぽを向く。
 味が心配なのかと思った。喜多と一緒に作っているのならば変なものが出来る事はないだろうが、やはり作って振る舞うのだからそれはそれで心配だろうと思う。
 可愛らしい心にふっと気付かれぬように笑みを漏らし、小十郎はパクリとおはぎを口いっぱいにほおばった。
 変わらない味だ。甘さが控えめで、微かに塩の風味を効かせた慣れ親しんだ味──
 が、
「──?」
「? どうした小十郎」
「いえ、何も」
 とは言ったものの、明らかに口の中にはおはぎでは感じるハズのない舌触りがあった。ザリッとした、砂のような。だがそれを確認しようとすると舌の上には何も残っておらず。
 ──塩か? 何かの調味料か?
 そう思ったが舌にはその不可思議な感触の味すら残っておらず、首を捻る。
「小十郎、茶はいるか?」
「これはこれは勿体ない……」
 いそいそと梵天丸は茶を用意して小十郎に差し出すと、又ジッと小十郎の表情を覗う。
 小さな主人のもてなしにまずするべき事があるだろうと小十郎は己を叱咤し、差し出された茶を一口飲んでから、彼に深々と頭を下げた。
「大変美味しゅうございました。この様な品、有り難うございます」
 そう言って微笑んで顔を上げると、眉を寄せ、どこか不機嫌な表情を小十郎に向けてくる。
「……それだけか?」
「は?」
 それだけか──と言われても、いったい何がなにやら。
 味の感想は述べた。礼は言った。他に……それとも細かな感想が欲しいのかと、当惑気味に顎をさすると、梵天丸の瞳は寂しげなものとなる。
 慌てて何かの記念日かと考え倦ねるが、それも思いつかない。
 これは彼を悲しませないためにも、正直に何を期待されていたのか聞いた方がいいと、小十郎は向きを正した。
「若。いただいたおはぎは甘みも塩気も程よく、小十郎には勿体ないほど大変美味しゅうございました」
「……」
「しかし、この様な立派なものを作られたというのに、若は浮かないご様子。いったい……」
 言葉を続けかけた小十郎の膝元へ、梵天丸はずいっと四つん這いになって迫ると、そのまま小十郎の顔を見上げる。
「わ、若っ」
「それだけか?」
 また“それだけか”。いったい何を期待されているのかと問おうとしている間に、ピタリと膝と膝をあわせ見上げながら、小十郎の頬を取る。
「それだけか?」
「それだけかと申されても、小十郎にはなにがなにやら……」
 頬を取る小さな手から逃げるように、座ったまま身を引こうとする。と、突然ぐらりと小十郎に目眩が襲った。
 ──な?
 ふらりとそのまま背中から後ろに倒れ込みかけたが、何とか意地で持ち越す。しかし今度は前屈みに梵天丸を巻き込んで倒れそうになったので、左前に片手を突っ張らせ身体を支えた。
「ツゥッ──」
 床に手を着いたと同時に、その掌から思いがけず走った小さな痺れに声を上げる。
 ──なん!?
 身体が明らかにおかしい。感覚が何とも言えずぶれる。まるで小船に乗っているように、身体と中身がずれている。
「小十郎?」
 心配そうにこちらを覗き込む大きな瞳に、大丈夫ですとたったそれだけの一言を唱えたいというのに、その声を出す行動すらすぐさま出来ない。
「だ、大丈夫……です」
 明らかに辿々しい物言いとなる。体勢を保ちながら正座がしにくくなり始めた。とにかく腹に力が入らない。
 すると、梵天丸は心配そうに小十郎を見ながら、脂汗の浮き始めた男の額を軽く手で触ったかと思えば、静かに見つめ、あろう事か──微笑んだ。
 眉が一気に寄る。
「わ、若?」
 イヤな予感が……
「よし、効いたか!」
「──〜!!」
 声にならない。
 効いたかという事は、つまり、
「若、いったい……」
「小十郎は鬼役も務めて、薬には強いと聞いていたから少し効くかどうか心配していたが、効いてよかった」
「効いてよかったも何も……なにを……」
 ぐらりぐらりと薬だけでない目眩がダブルで襲ってくる。
 つまり、一服盛られたのだ。この幼い主に。
「痺れ薬をおはぎの中に入れた。────────熊用の。」
「クマ!?」
 にっこりと、そりゃもうしてやったりの梵天丸に、悲鳴に近い声が上がる。
 ざりっとしたあの舌触りは決して気のせいではなかったのだ。
 しかし薬を盛られるというのは、一体、何の実験台なのかそれとも不服なのか。いやいやそれより何より自分はいったいどの薬をどれだけ飲まされたのか。
 ──量によっては死ぬぞ。
 小言の雨を降らせたいが、まず彼の真意が知りたいと思った。
 確かに怪しい薬を飲まされたが、この幼い彼が、考えのない量を盛るとは思えない自信がある。
 子供の突拍子もない発想で向かってくるが、彼は大人よりも慎重で繊細だ。
「なんの……実験でございますか?」
 意地で体勢を立て直す。正座した脚を解きたいのは山々だったが、ここでそれは出来ないと思った。
 どう言った理由であれこの方法は間違っているのだから、決して彼の思惑通りに動いてはいけない。
 すると姿勢を正した小十郎にあわせ、膝頭を付き合わせながら、梵天丸も正座して姿勢を正した。
「実験ではない」
「では、何を」
「小十郎を押し倒すためだ」
「お──」
 ふらりとまた目眩に襲われ、後ろに倒れかけるが、ここで倒れてしまうと起き上がれない。
 ししおどしのようにまたも意地で体勢を立て直し、ちょこんと目の前に座っている小さな主に視線を戻す。
 さて、ここからが問題だ。どこから、何から突っ込めばよいのか。
 この場合の押し倒すというのがどういったものかわかっていっているのか。何をすることか解って……いや、そこじゃない。まず彼は、そういった欲をまだ持ち合わせていない子供である。なら問題は、押し倒すことで何が得られると思ったかだ。
「梵天丸様」
 小舟で流れの速い川面に出たような感覚の中で、ハッキリとそう名を呼び、厳しい顔つきのまま睨むと、正座したまま梵天丸は小十郎から視線を逸らし、肩を落とした。
 どうやら、悪いことをした自覚はあるらしい。
 少しホッとする
「いったい、小十郎を押し倒して何をしようと」
「だって」
「?」
「だって罪悪が絡めば、離れられないだろ?」
「な──!」
 小さな口から出た怖ろしく素直な意見に、薬のせいだけでない汗が額に滲んだ。
「押し倒す・強いる・無理強いる……そういったモノは、自然の流れでないことをするというのは、良心がある限り罪悪が生まれると和尚から教わった。罪悪というのはそれだけで人を縛ると。そこから離れられなくなると。関係が切れないと」
 言葉が出ない。これは、薬のせいだけではない。
「わ……」
「小十郎が、もっともっと俺から離れられなくなるようにしたかった」
 ザワリと小十郎の背中を、素直でいて歪な執着が撫でる。甘いような怖ろしいような、言いしれぬ感覚に又目眩する。
 ゴクリと呑み込んだ唾の音が、頭の中で大きな音となって響く。
「若……お話しはよく解りました。しかしそれは……正しくない行いで作られるモノであるなら」
 トンと膝の上に彼の両手が勢いよく置かれ、薬のせいか、それだけで痺れが走って声が切れる。
 その事に気付かない梵天丸はその手に体重をかけ身を乗り出し、小十郎の顔を見上げた。
「正しい正しくないは必要ないっ。俺は、お前が俺から離れなくしたいだけだ!」
 ぐらりぐらりと目がまう。
 あぁと思う。彼はよく知っている。人は正しさだけでは動いていないことも、ずっと続くものがないこともよく知っている。
 こんな小さな身で、知らなくていいことを知っているのだ。
 そして全身全霊で知ったそれを打ち砕こうとする。
 あぁと思う。
 もう己には、感嘆しか出てこない。
「小十郎?」
 黙って微笑み続ける小十郎に不安を抱いたのか、力なく呟き、少し瞳を伏せる。
 正しいこと、正しくないこともちゃんと知っている。人の痛みも知っている上での行い。
 小十郎は少し不安になる。この愛しい生き物の傍に、自分は何処まで見限られずに真っ直ぐついてゆくことが出来るのだろうかと。
 ゆっくり、鈍くなった腕を彼の背に回し、抱き留める。
「小十郎?」
 腕の中で、柔らかな彼の疑問符が埋まる。
「若は──以前この小十郎がずっとお側にいると誓ったこと、お疑いに?」
「……疑ってはない。だが、もっと、もっと解るものが……欲しい」
 母親という絶対庇護だったものすら突如と失ったのだ。彼の中は、自分が考える以上に複雑すぎる。いや、考えたものでは追いつかない。自分をさらけ出さなければ彼には到底届かない。
「……この傷も……証にはなりませぬか」
「あ、あぁ、それは……謝る」
 腕の中でピクリと震え、もぞもぞと居心地悪そうに彼は動く。
 罪悪で縛っているのはどちらだろうかと小十郎はふと思う。
「若、」
「なんだ?」
「小十郎は今とても心地いいです」
「え?」
 抱き留められたまま顔を上げた彼に、ニコリと微笑み、今度は頭から抱きしめ直す。
「梵天丸様の思いが伝わって、とても幸せで心地いい」
「こ、小十郎は心を読むことが出来るのか!?」
「誰でも、わかりますよ」
「俺は──」
「若も、わかります」
 旋毛に口付けて、もう少し身体が密着するように抱きしめ直す。
 薬のせいで上手く力はまわらない上、神経が過敏に痺れたり鈍ったりとしているが、精一杯彼を抱きしめる。
 すると、おずおずと小さな両手が、己の背中にまわっていった。
 静かな時が流れる。
 静かでありながら、互いの存在を強く確認しあえる時が。
 不思議と、全てが柔らかく甘く。そして時々苦い。
 体温であるとか、呼吸であるとか、匂いであるとか、鼓動であるとか、動きであるとか、気持ちであるとか……
「小十郎」
「はい?」
「きもち……いい。なんだかふわふわする」
 そう言って、彼は一層抱きしめてくる。
「それはよかった」
「これが、小十郎の気持ちか?」
「はい、そうです」
 すると胸に顔を埋めて、額を擦り付けてくる。
「わ、若っ」
「気持ちいい……。もっと欲しい。もっと」
「若っ、おま、お待ち下さい」
 今の身体では、たったそれだけの彼の行動を受け止めるのが必死である。
 止められたことに対し、不満を隠さず睨み上げてくる隻眼に、何とか笑みを取り繕った。
「若、もし……小十郎の気持ちが離れたであるとか、不安になることがございましたら……こうやって、いつでもどうぞ確かめて下さい。ただ、やはりこの方法は、正しい行いで成り立つものです。よろしいですね」
 そう念を押すと「ん……」とどこか寂しげで残念そうな声が返ってくる。
 これで、何とか事は収まった。後は……
「ところで、若」
「なんだ?」
 改めて小十郎を抱きしめ直し、幸せに浸ろうとする彼には少し申し訳ないが、色々と限界がきていた。
「申し訳ないのですが……義姉の、喜多に……若がおはぎに混ぜた薬とその量を……知らせて、下さい……」
「小十郎!?」
 バターンと板の間に大きな音をたて、小十郎は肩から横倒しに倒れ込む。
 感覚としては、小舟が大海に出てしまったように、陸の上にいるにもかかわらず、重心がしっかり定まらない。
「わかった! 呼んでくる!! 喜多と薬師と──」
 そう言って素早く立ち上がり、勢いよく障子を開けて出て行きかけた梵天丸だったが、何を思ったのかくるりと舞い戻ってきた。
「……?」
 ジーッと静かに自分を見下ろす彼を、小十郎は黙って見上げる。
 いったい今度は何をと思った瞬間に、小さな唇が己の唇に押し当てられた。
「──」
 声が出ない。いや、出たところで何を叫べばいいのか。
 ゆっくりと押し当てた唇を離すと、満足そうに彼は微笑む。
「口を何度も押し付けたら、離れにくくなるとも和尚から聞いた。これは、悪い行いではないし、いいだろう?」
 そう、満面の笑みで天真爛漫に宣言した後、彼は部屋を出て行った。
 意識の端で「喜多〜!」と彼が義姉を呼ぶ声がするが、もう何もかもが限界で、小十郎は意識を手放す。

 その、意識の陥る先が果たしてどこなのか、手放した小十郎にはよく解らなかった。