瘡痕







 不信な瞳を向けながら、彼女は静かに彼宛の文を差し出した。
 この所、彼宛の文は多い。一介の、名もなき若武者に宛てられた数々の文。いや、彼女にとって見れば武者とも言いがたいひよっこに、一箇所からではなく、多方面から文が届いているのだ。
 敵ではない所から。だが、味方でもない。戦国なのだからそれは当たり前ではあるが。
「あぁ、義姉上、ありがとうございます。」
 彼はそうニコリと微笑み、差し出された文を受け取ろうとしたが、手渡る寸前のところで彼女は取り上げた。
「?」
 その行動の理由がわからない彼は、不思議そうに彼女を見つめる。
「小十郎、お前、もしやよからぬ事を考えてはなかろうな?」
「よからぬ事?」
 聞き返し、“あぁ”と彼は相槌を打つ。義姉弟の家は、仕える伊達家に多大の恩がある。しかも義姉・喜多は弟・小十郎より長く仕え、次期当主と謳われた梵天丸の乳母として仕えているため、思い入れは一入である。
「内通ですか? 馬鹿な事を考えないで下さい。俺にも輝宗様には恩義があります。また、梵天丸様のもたれる大きな器は、当主の域のみに納まらないものと見受けていますが」
 真っ直ぐ瞳を見返しそう言い切る義弟の言葉に嘘は見受けられず、渋々喜多は一度取り上げた文を差し出し直した。
「ありがとうございます」ともう一度言い、軽く会釈をしながら受け取ると、そそくさと小十郎はその場を立ち去った。
 そう、輝宗公には恩義がある。在籍する伊達軍にも不満はない。彼の主となった梵天丸に対しても、端が思うような不満はない。‥‥しかしそれが彼の不安だった。
 大きすぎる──小十郎はまだそう時の経ってない中で、梵天丸に対してそう感じていた。
 相手はまだ十にもいっていない子供。しかし知る事への貪欲さは目を見張るものがある。いや、もしそれが子供特有のものだとしても、彼が置かれた環境故か、洞察力と読みは並々ならぬものがある。そして時折見せる態度に、威厳を感じる自分。
 まだ己が未熟なせいか、それとも仕えている人物を美化してしまう人間のクセかは解らないが、とにかく彼がただの城主の嫡男という枠の人物でない事を感じていた。感じるからこそ──小十郎は離れたかった。
 未熟な己が、彼の才を潰してしまいそうな気がして。
 それだけは避けたかった。自分が初めて見いだし、絶対と言える才だからこそそれは避けたかった。そして同時に小十郎には時間がなかった。
 避けきれぬ現実、“歳”だ。
 まだ小十郎は若い。もし梵天丸を育て、家督を継ぐ頃に一の重臣として残っていたとすればそれは一大躍進である。だが、梵天丸は普通の嫡男ではない。普通の嫡男とて家督を継ぐ際に数々の問題が出るが、政宗の場合、数々の問題というよりは、大きな壁のような、どうしようのない問題が行く手を阻んでいた。
 陰陽を思い起こさせるような不気味な瞳と、子供らしくキラキラと輝かせる瞳。目に見える、不幸な事故でできただけの隻眼を、“欠けた”として古い者は忌み嫌う。そして御大将になれば戦場に出て戦うのであるから、それは確かにハンディになる。だが、欠けたるモノへの偏見も、それ故のハンディも小十郎に取っては馬鹿らしいものだった。あの才覚を見抜けていないからそう言えるのだと、梵天丸を安く見積もる者を相手にする気にもならなかった。
 それでも。それほど主である梵天丸をかっていても、梵天丸が家督を継ぎ、頭角を現すのは賭けである。いや、むしろ賭けたい。あの才は賭ける価値がある。命を賭ける価値がある。そういう魂だと己の中の何かも騒ぐ。
 だからこそ怖いのだ。未熟な自分が、その才を壊してしまう事になれば。それでいて、今の自分はあぶれ者であった頃と違い、片倉家を継ぐ唯一の立場となっている。
 梵天丸という逸材の未来を担う事と、片倉家の未来を担う事。二つの重圧が、若い青年の肩に乗っていたのだ。
 もし己の傅役としての力が及ばず、家督を継げなかった場合、片倉家は窮地に立たされる。家督相続の頃ともなれば、小十郎は働き時のいい年である。その働き時になってしまえば、主を変える事などまず無理だ。元々二君に仕える事すらはばかられる事柄だというのに、さらに悪い。
 また、自分が選ばれた経緯も、梵天丸の母君──お東の方があまりの輝宗公の梵天丸への入れ込みように警戒感を出したからだと小耳に挟んだ。なるほど、自分なら大きな家柄がある訳でもなく、元々神職の出という事実も、信仰心あついお東の方にとって、梵天丸がそういった心を多く学ぶかも知れないという心意にかけたのだろう。
 ならば尚のこと、なおのこと、梵天丸にはそれ相応の傅人が付いてしかるべきだ。自分のようなあぶれ者ではなく。もっとこう‥‥
 義姉から渡された手紙を眺める。他家からの色の良い返事。望んでいた物だ。なのに躊躇いが抜けない。伊達家を離れる事にか、輝宗公の期待に応えられなかったためか、いや、今は何より、あの小さな主の元を離れるという事に一番心が痛む。
──短い間だったというのに‥‥。
 小さな主君に身も心も食われた身には心底辛い。それでも、共倒れの可能性がある選択が取れるほど、小十郎には自信がなかった。
 全てにおいて。
「!」
 眺めていた手紙から顔を上げ、慌てて畳み、手紙を入れている箱の中に紛れ込ませる。子供の、裸足で板の間を走る独特のあの軽い足音が一瞬小十郎の耳に届いたのだ。確かに大きい音ではないが、城内において異質な音のため、すぐ気付く。しかもそろそろ、そう、部屋の近くになると、その音が急に止むのだ。今のように。そして少しすると、
「小十郎! 遊びに来てやったぞ!」
 バンッと、何の呼びかけもなく障子が開けられた。
 最初の頃は少し驚いたものの、度々続けられると日常になってしまう。
「これはこれは、若から御足路とは」
 そう驚きもせず言うと、梵天丸は“ぷぅ”と顔を膨らませた。初めて会った頃に比べれば、随分と自分に対して表情を出してくれるようになったものだと、小十郎は微笑む。
「小十郎は驚かん。俺が来ても喜びもせん」
「そう一喜一憂しては傅役として務まりません。」
 その答えがさらに気にくわず、そっぽを向いたままの小さな主を、“やれやれ”といった風に微笑ましく溜息を吐いて小十郎は提案する。
「では若、どういった態度が好ましいのですか?」
 その言葉に、顔をこちらへと向け、「まず驚いて、それから‥‥」と少し思案すると、パタパタと正座したままの小十郎の元に歩み寄る。そして又もう一度、「ん〜」と思案してから、膝に置かれていた小十郎の右手をとり、肩の高さまで上げ広げ、今度は左手を持ち、右腕のように挙げ広げる。
「これが?」
「そう、これだ!」
 そう言って、満足げににっこりと笑ったかと思えば、両腕を広げさせ、無防備になった小十郎の腹へとタックルまがいにしがみついた。
「若、」
「こうされれば、歓迎されてる事がよくわかる」
“ただしがみつきたいでしょう”とも言えない。この小さな主にしては珍しい素直な甘えに、小十郎は「そうですね」と同意して、優しく背中を撫でる。そうするとまるで、ゴロゴロと喉を鳴らしそうな大きな猫がすり寄っている感覚を覚える。
──主君に対して間違った感情だな。
 梵天丸は母からの愛情を異常な形で絶たれたからこそ、また、その容姿になったことで、手のひらを返すような人の対応を受けたからこそ、甘えを訴える形が他の子‥‥特にこういった家の子供としては違っていた。
 小十郎も解っていた。こういった愛情の注ぎ方は間違いだと。まして自分の血縁でもなく、主に対して、この甘えを覚えさせるべきではないと。それでも己は、求められれば応えてしまうのだと思う。この幼い主君の乾きが癒えるのであるなら。せめて自分の愛情で癒えるのならばと。
 それが正しいのか、そうでないのかは別問題として。
「こじゅーろー。今日は何して遊ぶ?」
「そうですね‥‥今日は天気も良いですから、大根でも掘り起こしましょうか」
「‥‥遊びたい」
「遊び兼夕餉の用意です。夕餉がないのは困るでしょう」
「‥‥困る」
「取りに行けば喜多にも感謝されます。また行く道すがら春も近いことです、なにやらいい物が見つかるやもしれません」
「いいもの? たとえば?」
「それを言ってしまえば楽しみが無くなります。‥‥さて、そうと決まればその格好では少々薄着ですね。」
 ぽんぽんと背中を軽く叩いてから、梵天丸をゆっくりと引きはがして小十郎は立ち上がる。
「少々お待ち下さい。外着をお持ちします」
 微笑みを残し立ち去る小十郎を、きょとんとした面持ちで梵天丸は見送ると、首の後ろを軽く掻く。掻いて‥‥きょろきょろと辺りを見渡した。
“少々お待ち下さい”の“少々”がどれほど短くとも、“待つ”と言う事実が退屈にさせる。今、小十郎が出ていったというのに、もう退屈で退屈で、辺りを見回した時に目に入った、派手ではないが、書机の足下に置かれてある、品のある蒔絵の箱が自分を手招きしてるように見えた。
 ゆっくりと這うように箱の元に行き、そっと、何かに警戒するようにその箱を開ける。と、そこには何十枚と折り重ねられた手紙が入っていた。
「なんだ」
 確かに、玉手箱にしては地味すぎるものの、もっと何か物珍しい物が入っているかと思ったのにと、勝手な落胆が満ちる。ぺらぺらと軽くめくるも、やはり手紙ばかり。
 多分、今の自分には解らない事を小十郎は書いてやりとりしているのだろうと、梵天丸は思う。そして、そう思ってこれを見ると、別の好奇心が生まれた。今、考えた事はあまり良くない事だとも薄々感じていたが、好奇心に勝てる歳でもない。
 なるべく見つからないように、真ん中よりちょっと奥目の手紙を抜き取り、袖の中へと忍ばせた。




 退屈だ、外は嫌いだなんだと文句をいっても、元々好奇心の大せいな梵天丸は、連れ出せば連れ出した分楽しむ。あれは何だこれは何だ、それはどういった意味がある、ならばこういったのはどうだと、質問から提案から、全てが矢継ぎ早。そう言った意味では、自分が長男ではないというその理由で、色々な所をたらい回しとされたことも良かったように思えた。苦労というのは努力や忍耐も身に付くが、経験や知恵を多く授けてくれる。時折困った質問はされたとしても、大概が切り抜けられた。何が何処で役に立つか解らないと改めて思う。
「ふぅ」と大きく一息つき、小十郎は筆を置いた。夕餉までに今日の日記や、回された小さな仕事を済ましていたため。梵天丸の相手をしつつ領内外の情報を、この小間使いのような書類整理から窺うというのが小十郎の日課だ。
 日記は二つ。情勢と梵天丸の事。そう詳しい事が書いている訳ではないが、したためておくと動向が読みやすい。特に梵天丸の事は自分に直結する仕事なので、少しでも情報があるといい。元々は傅役として早く慣れるためであったが、もう最近はこれに頼らなくとも、大体の事が想像つくようになった。例えば今日は、何かは解らないが良からぬ物を持ち帰ったか、考えたかが窺える。
 土いじりをしている最中はそうでもなかったのだが、帰る間際になって落ちつきなくそわそわとし始め、城に着いた早々荷物を置いて書斎へと一直線。あれは大体、よからぬ悪戯か実験を思いついたか、それとも生き物を持って帰ったかが相場‥‥後で覗きに行かなくては。
 それにしても‥‥と、何気なく日記の過去分を開く。
 この仕事を任された時は、どうなるかと正直に思っていた。彼の、子供心に残る傷は、計る事が出来ないほど深く、自分が外に連れ出すのは一生無理かとも思ったが、今では外にも素直に出てくれる。とはいえこれは自分だけの手柄ではなく、喜多や虎哉和尚、そして歳の近い成実との交流が大きいだろうが。
 そして元々利発で好奇心の強い子供だ。一度楽しさや人との関わりを覚えてしまえば、後は自分で何とかしてしまうだろう。そう、ある意味において、己の役目は終わったのだ。こましゃくれた事を口にしたとしても、梵天丸はまだまだ子供。順応性は自分が考えている以上の物だ。後は‥‥
 そう結論づけ、小十郎は日記を端に寄せ、入れ替わりに手紙を入れていた蒔絵の箱を開けようとした。が、
「?」
 ばたばたばた‥‥と荒々しいが、足を擦るように衣擦れの音と供に、部屋へと近づく足音が聞こえた。女?
「小十郎殿っ、いらっしゃいますか!?」
 尋常ではない、慌てを極力抑えようとする声が障子の向こうでした。声からして、義姉に仕える侍女のようだが。
 立ち上がり、廊下へと出る。部屋で聞くほど余裕のある内容ではなさそうだ。
「どうした?」
「それが‥‥」
 立ち上がり、侍女は耳打ちを促すようなポーズを取るので、眉を寄せ、小十郎は耳を侍女の側へと寄せる。
『梵天丸様が、抜刀されて部屋に‥‥』
「!?」
 息を呑んで侍女を見ると、小十郎の言わんとする事に“コクリ”と頷いた。
 走って向かいたい気持ちを抑え、小十郎は足早に梵天丸の部屋へと向かう。慌てて走り大事にしては、揚げ足のいい材料となってしまうからだ。梵天丸の部屋がお東の方の棟より離れた、本邸の端に位置してる事を有り難く思う。
「誰かを斬られたのか?」
「いえ、喜多殿とたまたま部屋に向かった際、抜刀したまま、こう、何処を見でもなく立っておいでになりました」
 一体なんだ? 外に出ていた時、いや、城に帰ってきた時まで機嫌が良かった。とすれば、書斎に籠もった後に何かが?
「義姉上は?」
「喜多殿は、梵天丸様のお心を沈めようと部屋に残っておられます」
 チッと小さく舌打ちする。
 間違いは起こらないとは思うが、走って部屋に向かえない立場が苛立たしい。とりあえず、あの角を曲がれば‥‥
「!」
 冷たい廊下に正座をし、梵天丸の部屋の中を見据え続ける喜多の横顔が目に入った。
 背筋を伸ばし、ただ前を見ている風だというのに、梵天丸の意識と戦っている事が窺えた。
 ここで喜多が手を出せば、傅役としての仕事を取る事にもなる。それを解って、ただ自分が来るまで場を保たせてくれたのだ。
──忝ない。
 一度、足を止め、息を吸い直してから小十郎は一歩を踏み出した。
「片倉小十郎、ただ今まいりました。」
 喜多の横で諸膝を着き、部屋の様子を見ずにまず深々と頭を下げる。
 返事は返ってこない。
 まだ日は落ちていないとはいえ、部屋の中が薄暗い。火の灯っている行灯が少ないせいか。そして人の気配がしない。いや、殺気だけが充満していた。
 許しの声はかかっていないが、小十郎はゆっくりと顔を上げる。
 薄暗い部屋の中で、さらに黒く映る小さな背。そしてその小さな手に握られた抜き身の刀は、辺りの光を吸い込んで妖しく輝いた。
「‥‥」
 父親の輝宗公が祝いに進呈したもの。まだ早いとはいえ、その太刀は梵天丸への愛情と期待が現れている。しかし成人用の、戦用の普通の太刀だ。彼の丈には合わず、刃が床に着いている。それよりも驚いたのは、床に着いているとはいえ、片手でそれを持っている事だ。あの鉄の塊と言える刀を、幼い梵天丸は片手で操ろうとしているのだ。
──恐ろしい子供だ。
 刀は、本来力ので斬る物ではない。意志で操るものである。どれほど力があっても、力だけではモノは切れない。
 小十郎は笑う。
 この緊迫した中ですら小さな主の才を見いだし、心躍る自分に。
 あぁ、本当に喰われてしまっている。全てになってしまっている。
 自嘲気味な笑みを誤魔化すように唇を結び直し、小十郎は「失礼します」と小さく唱えると、中腰のまま敷居を跨ぎ、部屋の中へと入って諸膝を着く。
 するりと小さな影が動く。
 刀に集まっていたはずの光が、小さな子供の左目に集まった。
「こじゅうろぅ?」
 小さな唇が動く。
「は。」
「‥‥何しに‥‥きた?」
「何──とは?」
 聞き返す小十郎を見る目は、光を集めているというのに、どこかぼんやりとして、焦点の合っていないような印象がある。例えて言うなら、死んだ魚の目‥‥
「お前は‥‥俺の傅役ではないだろう?」
「は?」
 眉を顰めた小十郎を確認してから、梵天丸はしゃがんで、薄暗いせいで気付かなかった、刀の切っ先で刺していたモノを掴むと、勢いよく引っ張った。
 ビリビリビリッ
 と、紙の切り裂かれる音。
 それを無造作に掴んで立ち上がると、畳の敷かれている上座から降り、切っ先を床に這わせながら、少しだけ小十郎へと近づく。
 ことん。がりがり‥‥
 握り締めている紙を突きつけたまま。
 がりがりがりがり‥‥
「!?」
 突き出されているそれが、一瞬何か理解できなかった。が、理解した途端、後悔ではなく、諦めのような脱力感が全身を支配した。
 見覚えのある書状。
 他家からの引き抜きの手紙だ。
「俺の傅役ではないだろう?」
「‥‥‥‥」
「何とか言ってみろ小十郎!」
 ガツッッと、力任せに刀を床へと彼は突き刺す。
 何を言えと?
 真実は違うにしろ、事実はそういう事だ。
「小十郎っ!」
「‥‥‥」
「何とか言えっ!!」
 ギラギラと、先刻とは打って変わり、生気に満ちる幼い目。それは殺気と呼ばれるものだが。
「若様っ」
 状況を理解した喜多が声を上げる。
「何かの間違いか、気の迷いにございましょう。どうぞ怒りを静め下さいませ。この喜多──」
 左手を横に大きく挙げ、喜多の台詞を制止する。
 そんな言葉で、彼が到底納得するとは思っていない。むしろ失礼になる。
 少しだけ、後方の義姉に向かい笑みを送り、姿勢を整えてから、小十郎は幼い主を見上げる。
「許されるのであれば、まだ貴方の傅役でございます。」
「──言ったな。」
「えぇ、言いました。」
「ならばこれはなんとする!」
 握られ、破られ、原形がよくわからなくなった書状を、梵天丸は振り捨てる。
 それははらりと無惨な姿を晒しながら、床に落ちた。
「‥‥その通りでございます」
「小十郎っ」
 悲鳴にも似た喜多の咎めの言葉と同時に、幼い主は突き刺した刀を抜くと、刃の向きを確認して握り直した。
 人を斬るための向きに。
「言い逃れせんのか?」
「する必要はございますまい。そこに書かれている事は事実です。俺を必要とした手紙です。」
 片手で、刀を持ち上げようとするが、それは気合いではなんともならず、ゆらりと少し刃を振らしつつ、両手で頭上へと刀を持っていった。
「‥‥言いたい事はそれだけか?」
「はい。」
「小十郎っ!! あぁ、梵天丸様! 後生です! 後生にてございますっ!!」
 義姉の狼狽する声に微笑みを浮かべ、また左手を横に突き出して制止する。
 片倉家は‥‥多分自分がいなくても大丈夫だ。立派な義姉が、無責任だが盛り立ててくれるような気がする。
 最後まで中途半端だった自分がせめて出来る事と言えば‥‥いや。いやそうではない。願望を、己はこの幼い主にさせようとしているのだ。
 愛しい愛しい我が主。
 感情のないような目が、刀を振り上げたまま少しだけ不思議そうに小十郎を見下ろす。
 それはそうだろう。微笑んでいるのだから。
 振り下ろされる刃を畏れることなく。むしろ喜ばしく。

 ──斬ッ──

「若様っっ! 小十郎ぅっ」
 頬が、焼けるように熱い。
 血しぶきが、顔と床に少し飛んだ。
 刀の軌道は、逸れたのか、逸らされたのか解らないが、小十郎の左頬の肉を斬りつけるに留まり、又その刃先は床に落ち着いていた。
 今度は、小十郎が不思議そうに主を見上げる。
 隻眼は、従者を見下ろす。
 双眸も隻眼も、互いに逸れることなく見つめ合う。
「──‥‥義姉上。申し訳ないですが、席を外して頂けませんか?」
「なっ」
「よろしくお願いします。」
 主の瞳を見つめたまま静かに、落ち着いた声で呟かれるその言葉に従うほかなく、喜多はばくばくと鳴る心の臓を落ち着かせるため大きく息を吸ってから頭を下げると、ゆっくりと襖を閉じた。
 閉じられてしまうと、部屋はさらに薄暗く、心許ない光が、幼い主の輪郭を映し出す。
 梵天丸は、刀を握りしめたまま一言も発する事なく、ただじっと小十郎を見つめる。
 小十郎もそれに応えるように見つめ返していたが、もう一度姿勢を正し直し、床に手をつき頭を下げた。
「この小十郎の不詳は、何の弁明もございません。」
「‥‥‥」
「貴方の元を、離れようとしていた事は事実でございます。」
 己の声以外は、蝋の芯が時々焼ける音と、子供の、少し早い息づかいのみ。
「しかし、その刀で果てる事を望んだのも事実。」
「‥‥」
 荒く、途切れ途切れになってゆく呼吸。

「少なからず、今その刀で果てれば、俺は‥‥貴方の傅役のまま死ねるでしょう?」

 顔を上げ、微笑む。
 小十郎の表情とは対照的に、梵天丸は顔を歪ませ、声を殺して泣いている。“ひっくひっく”という嗚咽すら漏らさず、ただ呼吸が不規則に乱れるだけ。
 この年で、彼は声を殺して泣く事を覚えてしまっているのだ。
 そんな彼に、自分は何も出来ない。
 立派でもない自分は、なんの力にもなれない。
 ただ、全てを捧げる事しかできない。
 この身と、この魂を捧げるぐらいしか。
 小十郎はゆっくりと、小さな主に向かい両手を広げる。
 両手を広げて、微笑む。
“ゴトン”という刀の重い音が床に響くと同時に、小十郎の全てが、腕の中へと収まり、胸にしがみついてきた。
「〜っ、ばっ‥‥うっ」
 泣きながら、それでいて顔を胸に押しつけたまま彼は話すので、殆どが日本語になっていない。それでも、
「申し訳、ございません。述べる言葉もありません」
「ぃっ、ぃぃわっ、けぉっ」
「ですから、言い訳のしようもないでしょう。証拠も突きつけられて、何を言い訳するのです。‥‥確かに、手紙を抜き取ったことは感心しかねますが、私は貴方にもっと酷い事をした」
 顔を擦り付けて泣きじゃくる彼の背中を優しく撫でながら、流れ落ちる血を拭う。
 この傷は己が彼に付けた傷よりも小さいと思いながら。
「おまっ‥‥いのっ‥‥っ」
「もちろん命は惜しいですよ。ですがあの時、貴方の傅役で果てられるなら、本当にそれでよかった」
 少し落ち着き、ちゃんと“ひっくひっく”という嗚咽になった事に、小十郎は安心を覚える。喜多がいては、彼は泣きも抱きつきも、まして話す事もせず、今床に転がっている刀を、もう一振りしただろう。
 幼い主の中のに占めている己に賭けたわけではないが、結果的にそうなった。
 彼がどれほど自分を必要としているかと。
──なんて酷い傅役だ。
「こじゅぅっ、ろぅっ、わっ」
「はい?」
「おれっがっ、かと く おっ、つげない と、おもったからっじゃっ、ないの か?」
「まさか。若は家督どころか、この奥州、いえ、この国をも治める技量を持っていると思います。」
「ならっ‥‥なぜ‥‥」
 顔を上げ、泣きはらした瞳を向ける梵天丸に小十郎は微笑む。
「若は、俺にとって大きすぎます」
「おお‥‥きい?」
「えぇ。大きくて、己が小さく不釣り合いだからこそ、若に合う、もう少し立派な‥‥」
「莫迦‥‥だなっ、こじゅうろぅ は」
「は?」
「俺が‥‥大きくなければ、こじゅうろぅを、囲えん…し、部下にも、できん」
 泣き腫らした目で、ニコリと主は笑う。
「俺の、器の中で、俺に必要なも のと、俺が、必要とするもの をそろえるの が、お前の仕事 だろう?」
 小十郎は、静かに目を見張る。

「そのためにも まず、俺の器の中に、お前が必要だ」

 あぁ、もう、“完敗”だ。
 本当に、全てを喰われてしまっている。
 この主の一部となってしまった今、一体どうやって離れろと言うのか。
「!? こじゅうろぅっ、くるしぃい」
 抱きつき癖を付けないためにも、そして主従という立場のためにも、極力小十郎から抱きしめることはなかったが、もう、それは無理だった。
 自ら抱きついても、抱きつき返される事のあまりなかった梵天丸は、突然の事に最初はもがいたが、沁み入る鼓動と暖かさに、またしがみつきなおす。
 それは口で多くを語るより、確認するより全てを物語る。
「小十郎は、俺がいないと、ダメだな」
「‥‥はい」
 ゆっくりと放され、梵天丸は小十郎の顔を見上げる。と、ぽとり、彼の顔に血が滴り落ちてしまった。
「!? 申し訳ございません」
「いや、いい」
 顔に付いた血を拭おうとした小十郎の手を止めると、梵天丸は少し腰を上げて、自らがつけた頬の傷へ、無造作に舌を這わせた。
「──ッ」
「‥‥‥‥まずい。」
 そう言って、唇を尖らせる。
 好奇心に任せて舐めたはいいが、思った味ではなかったらしい。
「そりゃそうでしょう。錆びた鉄の味しかしませんよ」
「父上様からの刀が錆びていたのか?」
「いえ、不思議と人間の血の味は、そういった味なのです」
「そうか」
 そう言って、押し黙る。
 押し黙った表情を見ていると、冷静さを取り戻した梵天丸が、小十郎に付けた太刀傷に心を痛めている事がよくわかった。
 その小さな手を出そうとしながら、かといって傷に触れることはできないので、ゆっくりと引っ込められ、手持ちぶたさに自分の足を意味なく叩く。
 小十郎は微笑んだ。
「若、丁度良かった」
「? 何が」
「この太刀傷、心中立てになります」
「心中立て?」
「えぇ、まぁ本来恋人同士等がよくつけるものですが、『私は貴方しか思っていません』と心の中を立てる証拠に、身体の一部に傷をつける儀式のようなものです」
「ほぉ〜」
「まぁ、傷をつけるのは内太ももであったり肩であったり、見えないところですが」
「見えているじゃないか」
「梵天丸様を思う気持ち、隠し立てする必要もないでしょう」
 微笑んでそう言うと、梵天丸は押し黙る。押し黙って静かに首にしがみつく。
 柔らかい吐息と柔らかい温もり。
 離れることのできなかった‥‥いや、離すことのできなかったそれを確認して、小十郎は彼を抱えて立ち上がった。