椿








 別に歩小姓のままでもいいんだがとポツリと呟いた瞬間、後頭部を思いっきり義姉にどつかれることとなった。
 本心ぐらい呟いても罪はないと思う。断れない頼みならなおのこと。責任のある仕事なら特に。
「お前はせっかく武人としての誉れの道を!」と義姉は怒鳴りつけ‥‥もとい、諭していたが、若い彼には知った事ではなかった。
 大体、武人じゃなくて本来神道だったはず。道、逆だろう?とも突っ込みたくなったが、これ以上痛い思いも面倒なのでやめた。面倒事はごめんである。
 それにしても守役ですら大変だというのに、武家の、しかも長男の傅人だと宣告された日には何度聞き返したことか。
 当主である輝宗と僧都の連名で寺に呼び出しがかかった時点で彼──片倉小十郎はいやな予感がしていた。

──我が息子にまだ傅役が決まっておらんでな‥‥どうだ?

 どうだと言おうがなんと言おうが、伊達家に元々恩義のある片倉家が“否”といえるはずもなく。第一、その息子が酷い問題児だということは小十郎の耳にも届いていた。
「普通の子よ」などと義姉は言っていても、あの人の基準でいけば、大概の事が普通になってしまうので当てにはできない。
 おとなしい子・気難しい子──ここまではまだいい。薄気味の悪い子、呪われた子、化け物──って、それはなんだ? 噂もここまで来ると拍手がしたくなってくる。
 子供は、どこまで行っても子供だ。つまり、こんな噂が立つというのは、その子供を中心として大人の思惑が渦巻いているという事。
 そんな子供の傅人など厄介この上なく、誰も全うに出来なかったので厄介ごとを回してきたに違いない。だからといってもうちょっと真面目に家督を継ぐ息子の傅役選べよと思う。自分だったら絶対にない選択だ。
 自分で言うのも何だが、こんな中途半な人間に子供を任せていいのか? 真面目腐る生き方も出来なければ、ぐれて道を外すこともできない。人に仕えるほどの情に満ち溢れているわけでもなければ、わが道をゆく気力もない。そんな中途半端な人間に、これからを生きる子供を託すとは、お館様も興が過ぎる──
 しかもこのまま嫡子の館に直行らしい。一旦帰ってそのままごねられたらたまったものではないと考えられたのか。よく読まれている‥‥正解だ。
「しばし」と云われ、通された部屋の中で素直に待っていたが、どれほど経っただろう。
 まだ何か企んでるな、あの狸ら‥‥──そう考えながら少し背中の丸まった姿勢を正し直し、“ふう”と溜息を吐く。
 退屈だ。だがそれでいい。何もない。それでいい。元々、世界には何もない。
「‥‥‥?」
 コトリと部屋を区切る木戸の向こうで物音がした。
 ここはそこそこ大きな寺だ。人がいたところで、物音がしたところで不思議はないが、押し殺したような音がやけに気になり、音の鳴った方を見る。
 視線の先、木戸と木戸の間に一筋の闇。隙間が、そんな風に見えた。
 そして闇から自分を窺い見る視線も。
 そろそろ痺れが切れ始めるころ。丁度云いとばかりに小十郎は立ち上がり、木戸の隙間に作られた闇に指を入れ、ゆっくりと扉を開く。
「──ん?」
 真っ暗な部屋。おかしなものは見当たらないと思ったが、視界におさまらない下方で動くものが。
 ゆっくりと視線だけを下げる。自分を見上げるそれは、十もいってないだろう幼い子供だった。
 子供だが‥‥違和感を感じた。
 暗がりではっきりとは見えないものの、よくよく見れば整った顔立ち。だが、頭を…顔を半分隠すつもりのような包帯。それでいて怯えた風でも驚いた風でもなくこちらをギロリとねめつける瞳。そして、この部屋の闇に溶けるような気配。
──虎哉様が匿われている子供か?
 木戸に手を沿えたまま、スルスルっと小十郎は子供の目線に合うようしゃがむ。怖がらせないための配慮だ。
 子供は、小十郎から視線を逸らすことなく、じっと見続ける。
「どうした? こんなところで」
「‥‥」
 口を、真一文字に結んだまま、子供はただ小十郎を見る。
「かくれんぼか?」
「‥‥」
「そこは暗い。出てきたら──」
 何気なく差し出した手を、瞬時にして払い飛ばされた。
 その間も、幼子は視線を逸らさない。表情すら出ない。触れれば噛殺すといったその意志だけが伝わった。
 弾かれた手がひりりとする。
──なんと‥‥まぁ。
 子供がしていい目ではない。独りを知っている目。こちらを値踏みしている目。
 独りの世界に加えていい人物か、否かと。
「悪かったな、お節介かけて。」
 場をもたせるために微笑み、小十郎は手を引く。
「ただそこは暗い。それに寒いだろう。取っ食いはしないから、こっちに来て火鉢にでもあたるか?」
 立ち上がり、部屋の隅に置いてあった火鉢と炭の入った木箱を部屋の中央に寄せ、小十郎は火箸で火種を探る。まだ消えてはいないが、火は弱い。
 軽く息を吹きかけ、火を熾す。新しい炭を加え、その炭に火が移った頃、“タン”と木戸の閉まった音と共に、板の間に、ヒタヒタと足音が近づいてくる。
 パチリと炭が火に炙られ、鳴った。
「丁度いい。今火が」
 続ける言葉を呑んだ。小十郎の傍まで歩み寄りながら、決して合い入れようとせず、子供は彼を無言で見下ろし立つ。そして子供が持参した恐ろしいまでの威圧感に、笑い出しそうで言葉も出ない。
──梵天丸‥‥か。
 箸で炭に火をつける作業をしながら、そうだろうと確信を持っていた。かといって、今更態度を改める気もない。元々仕えるかどうかもわからない。傅役など、敬意が生まれなければ務まるものではない。若い自分が、十も離れた彼に心から頭を下げられるかどうか、まったく自信がなかった。
 だからこそ、知らない子供の相手をする‥‥それでいい。
「そんなところで突っ立ってないで、座って身体、温めろ」
 気遣う小十郎の言葉を無視し、梵天丸であろう子供は、自分の頭に巻かれた包帯を無造作に取り始めた。
 するりするりと解けてゆく包帯を、くしゃくしゃに握り持ちながら、全てを取り終えると、改めて子供は小十郎を見直す。
 包帯を巻いている時よりもさらに長い前髪が右目を隠すが、包帯がない分、顔立ちがよりハッキリしたように見える。
 梵天丸は、笑う。しかしそれは威嚇の証。
 希薄な、とても子供らしからぬ笑みを浮かべたかと思うと、前髪をかきあげて、小十郎を睨み付けた。
「───」
 あどけないながら、整った顔。そこに宿る、異質な瞳──
 右の目は、一見して機能していないことがわかる。半ば干からびかけているその眼球を、無理やり正しい位置に押し込めているため、歪さが増していて。しかも、潤いの感じない、機能していないことがわかるそれが、生気を宿したままだという事が恐ろしい。
 閉じることを拒絶されているような目蓋の緩みと張りがさらに歪で。
 化け物‥‥なるほどなぁ。小十郎は思わず感心する。
 無言で小十郎は子供の顔を見入る。確かに恐ろしい。気味が悪い。だが、
「それで? どうした」
 見上げ、そう言うと、初めて子供は口をへの字に結んで感情を出した。
「つまらん。」
 子供の声。なんの変哲もない幼い声。その声が小十郎を安心させる。
「つまらん?」
「驚かないのか?」
「驚いたさ」
 さらに口をへの字に曲げる。どうもこの答えは不満だったようだ。
「怖くないのか?」
「怖い?」
「この目が」
 真剣に、こちらを見る。気に入る答えを言うつもりはない。
「どちらの目が?」
「え?」
「俺はお前の左目の方が怖い」
 ぽかんと、小十郎を見る。子供らしい表情が、こんなに安心するものだとは思ってもみなかった。
「‥‥変わった奴だ」
「そっくり返す。わざわざ人が怖いと思うだろうモノを見せて楽しむなど、悪趣味この上ねぇな」
「別に楽しんではいない」
「そうか? まぁどっちでもいい。座って温まれ」
 むっすりと腕組をし、子供は小十郎を見下ろし続ける。だが先程までの緊張感が解け、そこに立つのは少し不貞腐れた子供。
「俺を誰だと思って」
「誰だ?」
 聞き返すと、ぷいっと視線を逸らす。
 面白い。
 視線を逸らしたかと思えば、仁王立ちのまま、ちらりちらりと小十郎の表情を盗み見る。
「‥‥お前、名は?」
 プライドよりも好奇心を取ったらしい。
「片倉小十郎景綱」
「ふーん。景綱か」
「小十郎でいい」
「ふむ」と納得したように頷くと、じろじろとまた小十郎を見始める。
「とにかく座れ。立っていても仕方がないだろう」
 子供は、不思議そうな、それでいて戸惑った表情を、わざわざ不満気な表情で押し隠す。
 素直じゃないな‥‥そう思いながら、そこにかいま見える子供らしさに笑みが漏れる。
“普通の子よ”──なるほど、そういうことか。
「仕方がない」
「?」
 少し腰を上げ、ひょいと子供の両脇を持ち上げたまま胡坐をかいて小十郎は座り、その膝の上に彼を乗せた。
「何をする!」
「やっぱりな。身体が冷えている。あんなところでいるからだ」
 膝から伝わる、冷たい体温。手を弾かれた時に触れた手が、恐ろしく冷たいことが気になっていた。子供の体温ではない。
「放せ!」
「はいはい」
 両手を肩のところまで上げ、手を放したことを主張する。それを確認して膝の上から離れるかと思えば、始めは戸惑っていたものの、自分の腰の落ち着くところを探し、どっかと小十郎の膝の上でくつろぎだした。どうやら気に入ったらしい。
 その仕草に、なにかこちらが楽しくなってくる。
「小十郎は」
「ん?」
「小十郎は怖いのではなかったのか?」
 膝の上で少し改まって子供は言う。小さな背中は、さらに小さく感じられた。
「そうだな、怖いな。だがお前こそ俺が怖くなかったか?」
 振り返り、こちらを見上げる彼に、「それと一緒だ」と応える。
「ふむ」と素直に相槌を打ち、火鉢へと向きを直す。
「では小十郎、右目より左目を怖いといったのは?」
 質問が矢継ぎ早である。好奇心の強い子供は頭がいいというが、これは手のかかる‥‥
「お前はどちらの目でモノを見てる?」
「‥‥左。」
「そうだな。お前はその目で全てを知ろうとしてる。だから怖い」
「右目よりもか?」
「あぁ。右目はそこにあるだけだ。そこにあるだけのモノは何が怖い? 生きてモノを考え、見ようとする目の方が怖い。」
「ふむ」と、又静かに相槌。
「じゃぁどうして俺を膝の上に乗せようと思った? 少なからず怖いのだろう?」
「そうだなぁ。素直じゃないからだろうな」
 振り返ってギロリと子供は睨み上げてくる。
「気に障ったか?」
「障った。」
「困ったな」
 微笑む。するとさらに不満だったらしく、ぎゅうぎゅうと膝を押して小さな抗議する。
 かといって、それ以上言いようがない。
 子供らしい好奇心と人への温もりの欲求がありながら、この歳で人に会い、まず最初にした事が一切の威嚇と拒絶──それを素直でないという意外なんと言おうか。
 あぁ。
「興味が出たからだ」
「興味?」
「例えば、その目が何を捉え、何を考えているか」
「興味が出ればお前は人を膝の上に乗せるのか?」
「そうきたか」
 苦笑い。
 子供の素直さと、そこに含まれる意地悪さ。
「興味が出て、知ろうと思えば、人は自ら歩み寄らなければ知ることは出来ない。膝は‥‥たまたまだ。」
「ふーん」と気のない相槌が返ってくる。だがこの子供が何も考えていないとは思っていない。物事も、言葉も、的確に捉えようとし、処理しようとする。
 恐ろしい物体を膝の上に乗せてしまったな‥‥そんな気がしてならなかった。
「では、お前は俺に興味を持ったということか」
「そうだ」
 この、十に手も届かない子供と言葉を交わすたび、興味と畏怖の念さえ持つ。
「‥‥知ってなんになる?」
「?」

「人は、所詮独りだ。──生まれる時も、死ぬ時も」

 振り返り、小十郎を捕らえる双眸。
 底のない闇と閃光にも似た光を宿す目。
 途端、背中に這うなにか。全身に鳥肌が立つ。
 今改めて、恐ろしいものを膝の上に乗せている実感が、肝を掴む。
「そうだ。独りだ」
「ならば知ってなんになる?」
「何かになるために知るのか?」
「“何か”にもならんならいらん!」
 恐怖にも似た拒絶が痛々しい。
 切望と絶望の混在。だが、
「では、“何か”にするために知れ。独りだからこそ他を知れ。そして貴方は知ろうとするその目がある」
“あぁ”と心の中で溜息を吐く。
 無意識に、自分の中に生まれ出た敬意の念。
 完全にこの子供に喰われた。
 身も、心も。
 子供はじっと小十郎を見つめると、にっこりと笑った。
「お前は、変な男だ。」
 それだけ言って小十郎をその双眸と緊張から解き放った子供は、若い彼の胸を背凭れに、「ふぁ」と一つあくびをして目を閉じた。
 とたん、どっと疲れが覆いかぶさると同時に、小十郎は自分の生涯が決まったことを悟る。

 パチリと、火鉢の中の炭が鳴った。











「あら‥‥これはこれは」
 女は、クスリと笑う。
 小十郎の膝の上で安心して眠っている子供の姿は、それだけでこちらの癒しになる。
「貴方は元々子供には優しいから、うまくいくと思っていたけど‥‥“普通の子供”だったでしょう?」
「“普通”はこの上なく怪しいが‥‥」
 そう言って、小十郎は腕の中の梵天丸を見る。寝顔だけはまだしも、この恐ろしい瞳を兼ね備えた子供を“普通”と言い切るには躊躇いがある。
 完全に、喰われてしまった身としてはなおの事。
「計ったのは貴女だな」
 眉間に皺を寄せ不満を訴える小十郎に、女は笑った。
「別に計ってなどいないわ。梵天丸様にも傅役を選ぶ権利がある‥‥そう思っただけよ」
 微笑み、「そして合格したようね」と続ける。この光景を見れば一目瞭然だ。
「しかし、傅役として梵天丸様と対峙した訳ではない。お役目が下るかどうか」
「傅役の仕事云々は屋敷に戻ってからの話。貴方はたまたま子供の相手をしただけなのでは?」
 そして女は、にこりと笑う。
「それに──貴方は、梵天丸様の傅役以外の道があるとでも言うの?」
 完全に、読まれていた。
「否。」
 今となっては、その道以外があるはずもなく。
 はっきりとした否定に対し、女は満面の笑み。
 狸は二人でなく三人だったようだ。
「さあさあ小十郎、そのまま輿に乗って館に帰ります。起こさないようにお願いしますね」
 立ち上がりながら小十郎に抱えなおされ梵天丸に、小さな上掛けを被せ、女は又笑む。
「慎重にお願いします」
「言われずとも」
「今は腕の収まろうとも、そのうち収まらなくなりますよ」
「既に、収まっている気はしませんが」
 その応えに、女は満足気な笑顔で返す。
「それでこそ傅役──」
 人の策にはまるのはあまり気分のいいものではないが、今、全ての体重を自分に預けるこの存在があるだけで、大概のことが許せそうな気がする己に頭が痛くなってくる。
 ──完全に食われたか‥‥
 心地よい敗北感と共に、頬が緩む。
 何もない不確定な中で、“唯一つ” と言える存在との邂逅を抱き、小十郎は静かに歩き始めた。