有耶無耶 

 不楽是加何 小夜嵐之篇04












『もう貴方に厄災がかかる事はありませんよ、梵天丸様。
 この小十郎がそばにいる限りその全てを祓い、引き受けます』











■有耶無耶■








 その意味を理解したのはいつだっただろう。
 その本当の意味と重さを知ったのは。そしてしないと思っていた後悔したのは。
 後悔という言葉は合わないかも知れない。なにせそれは自分の思惑とはまったく関係ないところで決まっていた話なのだから。
 決められ、勝手に選択され、それでも‥‥それでもその選択を飲み込んだのは己だ。誰でもなく、自分が決めた。
 誰でもなく。
「‥‥‥‥」
 眠っている小十郎を眺めながら後ろ手に障子戸を閉め、政宗はゆっくりと溜息を吐いた。
 少し距離を置いて見ていると、動きがなく、生きているのかと不安になるほどの深い眠りだ。
 近づき、顔を覗き込む。
 鼻先に手をかざし、息をしているか確認してから、思わず眉間に出来ている皺を指先で伸ばしてみる。
──まったく‥‥
 寝ている時にまで眉間に深い溝を作る重臣に笑う。寝ている時ぐらい気を抜けないかと。そう笑って、政宗は「さて」と気合いを入れたかと思うと、己の寝間着の袖を捲り上げ、勢いよく小十郎にかけられていた上布団をはぎ取った。
 横たわる小十郎の怪我は、そこ箇所に包帯はされているものの、たいしたものではないと聞き及んでいた。
「叩き起こしますか‥‥」
 そう言って、軽く首を動かし準備運動をしてから、もう一度気合いを入れ直す。
 これが初めての事ではない。それに、身体を重ねるという事だけをとれば何度もあるしイヤでもない。が、それとこれとは話が別だ。
 発情期の野良猫であるまいし、正気の状態から一気に情事に持ち込むとなると流石に気が滅入る。身体を重ねる行為など、どう足掻いてみても正気から外れた境界線で行う行為なのだから。しかも相手は、正気ではない小十郎で。
「‥‥‥‥」
 緊張で詰まる胸を軽く叩く。まぁ始めてしまえば、この戸惑いなどあったのかというくらいなし崩しになるのは重々承知の上なのだが。
 小十郎の腰‥‥いや、腹のあたりに跨り、政宗は馬乗りになって小十郎の顔を覗き込む。眉間の皺さえ除けば穏やかな寝顔に、思わず笑う。笑って、寝ている小十郎の耳元で囁く。それは、甘い囁きではなく──
「小十郎、起きろ。餌からやって来てやったぞ」
 その囁きに合わせ、起きないと思われた小十郎の瞼がうっすらと開きだす。
 瞳は、目の前に居るはずの声の主を探し始める。ぼんやりと、焦点の合わない瞳。
「ここだ。」
 ペロリと小十郎の唇を舐めてやる。と、焦点を合わせ始めるが、いつもの表情ではなく、眉間を更に寄せ、目を細める。そう、誰なのかを必死に思い出すように。
 仕方が無いので、唇を押し当てるだけの口付けをゆっくりと施す。と、ゾワリと肌が粟立った。
──きたか。
 確認するように小十郎の瞳を覗くと、思った通り瞳の表情が変わっていた。まるで真剣勝負の時のような、全身で相手を知ろうとする目。そこに、制御仕切れなかった想いの呪が絡まっているので性質が悪く。
「クソッ」
 視姦などという言葉があるが、あれはこういったことをいうのだろうか。男は、政宗の身体の何処も触れていない。が、政宗は確かに、身体に絡んでくる意識を感じてしまう。触れられてもいないのに既に神経が侵され始め、チリチリと敏感になりはじめる。
 睨むように見据え、追い立てられる意識を抑えようとするが、それをまるで見越しているかのごとく手を伸ばし、男は、その手を政宗の首筋に絡ませた。
「──ッ!」
 途端、呪によってあらわとなった小十郎の想いと欲の意識が全身に流れ込む。
 触れられているのは首元。それだけだというのに、意識が身体を撫でて愛撫する。どれほど愛おしいかと訴えながら、土足で感覚を侵食し煽情していってるようなものだ。
「願望の欲で犯すな。このムッツリスケベが」
 犯してゆく意識を塞ぐかのように、政宗は深く口付けた。



 寝込んだ小十郎を労おうと、倒れた時は近づかないという約束も聞かず、変貌した男の姿を覗き見てしまったのはいつだったか。
 まだ幼くて、伽の事などちゃんと理解していなかった頃。いや、理解していても、そんな事はどうでもよかったのかもしれない。自分の前で、感情を極力抑え、出しても欲を出さない・感じさせない小十郎の全く違う姿に衝撃を受けたあの時。
 魅入られたと同時に、見てはいけないものだと理解した。目に焼きついた常ではない男を忘れようと、夢だと思った。まだ幼い自分が妄想してみてしまった夢だと。なにせ数日後に顔を合わせた男は、いつもどおりの真っ直ぐな男。欲の無い、自分の大切な重臣──
 夢だと理解した。おかしな夢だと。そう理解してしまえば忘れてしまう。その後に変化がなければ更に夢だと納得する。
 あれは傅役で、自分の重臣で、己の呪を慰める雛の人形。
 そして年月を負うごとに国を統べる王として理解する事、担う事、責務──それらを自分の中に取り入れ、全てが平時となる頃。
 忘れかけた頃、それは起こった。
 小十郎自身も慣れ安心し、慢心した頃にきたのだろう。考えた以上に呪を力として使い、容量を超えたらしく、今のようにしっぺ返しを喰らい帰ってきた。
 数日間は安静。そして勿論の事、政宗は遠ざけられた。──が、近づいた。
 今まで忘れていたはずの記憶が甦り、あれは本当だったのかという真偽と好奇心に動かされ。‥‥いやもしかすると、初めて見たあの時にすでに魅入られ、導かれたのかも知れない。
 戸の隙間から対峙した男の欲に。
 想いの呪に。
 そして完全に捕まったのだ。



「くそ‥‥こじゅろうがぁ‥‥あぁっ──くぅ」
 触れられる手。這う唇。直接的な行為。
 もう、恨み言でも口走らない限り、自分の正気まで飛んでいきそうになる愉悦に逃げたしたくなる。
 普通ではないのだ。どういう原理なのかはさっぱり解らないが、犯されてゆくのが身体だけではないところが厄介で。
 初めてこの小十郎に捕まった時、まずその意識に犯された。
 どれほど想っているか、どれほど大切か、どれほど愛おしいか。剥き身といっていい感情が流れて来るのと同時に、小十郎の欲が、政宗の身体を支配した。抗う事も出来ず抗う方法もなくその手に落ちた。
 そう、表向きは。
 その手を伸ばしたのは確かに小十郎かも知れない。だが、掴ませたのは自分自身だと政宗は思う。
 全ては政宗のため。呪いも汚れた部分も、全てを飲み込み側に立つ小十郎は、綺麗な人形であるように自分の側にいた。
 自分は政宗の厄災を担うものだからと。過ぎた想いすら主を汚すと。本来、近づく事すら許されないと。
 近づくなら綺麗なまま、真白い雛の、人形のままではならないと。
 しかしそれは決して政宗の求めたものではない。
 真っ白で綺麗な慰めの人形が欲しいわけではない。
 傅役として決められ、重臣として傍にいる。それだけの片倉小十郎が欲しい訳ではなくなっていた。いつの間にか。
 そして‥‥その己の欲のために掴ませたのだ。
 この身体を。

『そんなもの伽女に任せりゃいいだろう』

 そうだ。元親の言うとおりだ。だがこの小十郎、完全に意思がないかといえばそうではない。正気が薄らいでいるだけで意思はあるのだ。いわば純粋な、欲の塊のような。
 通常、押し込められている…もしくは人間が微かに持つ、許される欲すら溢れ出る呪の反動。
──ここまでなる前に晒せ、バカ。
 宛てつけられる狂気じみた欲が、更に政宗の身体を変化させ、気が遠くなる。
 過ぎたる快楽は拷問に近い。何度も逃げたくなる。だが、覚えているのだ。この行為の後小十郎は。
 己が主に何をしたか覚えているのだ。
 何を欲し、貪りつき、玩んだか。
 いつも封じ、見せようとしない自分への想いを思い出すのだ。
 だから、
 こちらから、刻み付けてやると呪をかける。
 己が、どれほど欲したかと。どれほど弄り貪り食ったかと。
 そしてそれを望んだのは一人ではない事を。
──汚い想いと呪いをかけたのはお互い様だ。
「伽女なんかにヤらせるか」
 縋り付くように自分の身体を喰らおうとする小十郎に、深く口付ける。と、応えるように行為が激しくなる。
「ヒッ──」
 蹂躙される感覚を覚えながら、政宗は小十郎の行為をまるでガキか獣の食事かと思う。食べるものは目の前に沢山あり、逃げも隠れもしないというのに、両手に掴み、口いっぱいにほおばろうとするのだから。
 欲張りな、形振り構わない、普段の小十郎からはまったく想像も出来ない行為。
 そして訴えるのだ。
 どれほど想っているか。
 どれほど大切か。
 どれほど愛おしいか。
「ぁぅ‥‥こ、じゅぅ──」
 その声は、悲鳴か嬌声か、それとも過ぎる快楽に助けを乞うたのか。
 それでも、からめ握る手は放さない。

 まだ、この男にかけている呪(おもい)は途中なのだから──

 












   ■□■


 いつも思う事なのだが、世の理(ことわり)──自然は不思議でいて無慈悲だ。
 夜が来て、朝が来る。当たり前の事だが、崩れる事無いモノは感情のある自分達にとって、救われると同時に感傷に浸らせる。
 昨晩の事だ。土地が荒らされ、人が殺され、血に塗られ。それでも何の変わりもなく朝が来る。
 小鳥が何事も無かったようにさえずり朝を告げるその姿は、やはり、不思議でいて無慈悲に見えた。
 外廊下から見える見事な中庭に思いを馳せながら、顔半分を隠しそうな眼帯の位置を整え、元親はそんな事を思う。
──この城にいると、澱んじまうな。
 小田原城の守りは強固。安心して住むことの出来る住空間。落ち着いた風景と芸術作品。平和を体現したような空間。
 ここだけが、この城周辺だけが。
 争いが繰り返される世界の中でこの空間は貴重だと思うと同時に、ここに長くいてはいけないと思う。
 ここは箱庭。大きな、現実逃避の空間だ。
「‥‥」
 平穏が悪いとはもちろん思わない。むしろその方が良い。だが、それが一部だけだと知っている自分にとって、決して居心地が良いとは思えなかった。
──貧乏性だな。
 頭を務める者など、所詮そんなものだ。貧乏性で何かをやっていないと落ち着かなくて、自分でやらずには気が済まない。
 この旅を持ちかけ、反対に眼帯をしているよく似た奴も──
 と、ざわざわと人の気配がし始め、ふと廊下の先に目をやる。
 昨日の夜に大事があったと証拠付ける男が、部下達と言葉を交わし、心配されながら歩いてきた。一見では瀕死と思えるほどピクリとも動かない状態で運び込まれたのだ。直属の部下達にしてみれば、何事も無かったように立ち振る舞われてしまうと気が気ではない。
──何事も無かったように、か。
 それが男の自然なのだろう。どんな状況下であれ生きているのならば、課せられたことを当たり前のようにこなす。それが男の理。
──世の理に負けず劣らず堅物だ。
 そんな事を思って笑むと、相手もこちらの存在に気付いたようで、心配する部下達を丁度いいといった具合に下がらせ、ゆっくりと近づいてきた。
「よう、兄さん。おはよう」
「おはようございます元親殿」
 よく知った変わらぬ笑みが向けられる。
 思わず言葉を失くした。本当に変わらないのだ。あの変貌と昏睡状態を見ている彼にしてみれば驚き以外の何ものでもない。
「‥‥兄さん、不死身か?」
「はは、まさか」
 そう言って苦笑いを浮かべる男の首には痛々しい包帯が巻かれているが、さて思い出す限り、男が首に傷を負っていた記憶が無い。
 じっと首の包帯を眺めてから、“ぽんっ”と彼は胸元で手鼓を打つ。
「昨晩は、戦の後のもうひと戦、お疲れ様。」
「クソガキが。」
 一変した男の表情に、チロリと舌を出して元親は詫びとした。





 邸内に作られている見事な中庭が一望できる角縁側で、小十郎は燃えるような、しかし柔らかみのある色の紅葉に目を細める。自然に出来た紅とは又違い、庭園内の紅葉は敷かれた石の深い色、苔の緑に合わせ、色合いのとれた穏やかな暖色が広がり、見ているだけで寒さを忘れる。
 この色と木々に惹かれるように鳥は集まり、さえずる。そしてそのさえずりに合わせ、板廊下がキシキシと鳴く。人が歩くとわざと綺麗な音が鳴るようにと工夫されている。
「おまちどうさん。」
 元親は笑って大きな盆を小十郎の側に置き、胡座をかいて隣に座る。
 盆にはなにやらみそ漬けか粕漬けの魚のぶつ切りとご飯と入った丼二つに急須。
「朝餉にな、鯛茶漬け。ここは魚は元より茶もうまい。朝にサックリ食べれる割には豪華だぜ」
 そう言って笑いながら元親は急須を手に取り、丼に茶を注ぐと、手早く薬味を入れて小十郎の分を用意する。立場的に色々と問題がある行為を止めようとてを伸ばすが、似たような行動をする主を持っているため、止めようと伸ばした手は膝の上に戻した。自分でしたいだけで、彼に他意はないのだ。他意は。
「ほら」と用意できた丼と箸を差し出され、仕方なさげに小十郎は笑い、受け取る。
 互い丼を少し掲げた後、一口、口に含む。
 茶の香りに混じり、柔らかで深みのある酒粕の発酵した味が暖かい茶に混じり、胃に広がった。
 広がる中庭のように、穏やかで、心をゆったりと安心させる味だ。
「──さて、兄さん、現状はどこまで聞いた?」
 ガツガツッと二三口掻き込んだ後、元親は丼から顔を上げて小十郎を窺う。
「いや、先刻起きて身支度を整えたばかりだ。なんとも」
 ズズッっと軽く汁を啜ってから、小十郎も一口二口。
「ふぅん。そか。なら言っておいた方がいいか。当分小田原城(ここ)で様子見だ」
「? ここで? もう用は無いだろう。」
 確かに戦の後処理等があったとしても、本来北条の問題で自分達の問題ではない。滞在したところでせいぜい長くて一週間。だが当分と付くところを見るともっとここにいるということだろう。それでは本格的な冬が来る。
 一体何を考えてと眉を顰める小十郎に、「あ゛ー」と元親は言葉を濁しながら話を続けた。
「まー政宗が‥‥竜がな、北条の爺さんに色々と脅してっつーか言いくるめて、ここの守りに伊達軍と俺達が手を貸すって事で‥‥手っ取り早い話が、友好的侵略? 新手の乗っ取り?」
 げふっと少し汁を喉に詰まらせてから「はぁ?」と小十郎は声を上げる。
「口八丁で軍事を任せろとジイサンから奪いやがった。陸の守りは伊達が、海の守りはこの西海の鬼が仕切るってことでな。」
 やりかねん‥‥と我が主ながら呆れるような感服するような。
 あの見栄とはったりと脅しに勝てる者などそうそう無いだろう。北条のご老体には少し同情する。食事をすませた後、挨拶に伺わねばなるまい。無論、主が進めた話を譲るつもりは無く、主が進める話を円滑にするつもりだが。
「表上はそうではないにしろ、俺にだって読める。労せずして東国を足掛かりの拠点にした。抜け目ないぜ」
 確かにここは、位置的にもそして食料等にしろ美味しい条件の整った場所だ。全てにおいてこの上ない。
──腰を据えての情報収集と切り替えたか‥‥
 覚悟はしていたが、正月は奥州へ帰っているかどうかの怪しい旅に、小十郎の口からは長く溜息が出る。
「兄さん、食い物に溜息混ぜたらまずくなるぞ。」
「ん? あぁ、申し訳ない」
 話が一段落し、二人は静かに朝餉を食べ、箸休めに手を伸ばす。
 全く、奇妙でいて穏やかな時間。
「‥‥で、話題の主は寝てる‥‥か」
「政宗様か? あぁ、まぁ‥‥」
「ふぅん」
 その相槌と、何とも言えない視線が、全てを言わないまでも元親の気になる事を物語っている。
「──元親殿」
「あん?」
「くれぐれも、ご内密に‥‥」
「安心しろよ。よそ様の事情に託けるこたぁしねぇ。──けど」
「けど?」
「あの恐ろしい兄さんは、確かに戦力になったとしても、その後ぶっ倒れるなら諸刃過ぎるぜ」
「あぁ‥‥すまない。昨日は少しやりすぎた」
「更に言うと、止め方、誰かに伝えておくとかしないと‥‥兄さん、あんたまた嬉々として竜に食われるぜ」
“げふんっ”と小十郎は派手にむせ、胸を軽く叩きながら元親を見た。
「元親ど──」
「ありゃぁな、ありゃぁ‥‥口では少し厄介ごとのように言ってるが、違うな。そりゃもう大喜びって所だ」
「大喜びって‥‥」
「兄さんは、ヤツのために狂う。ヤツのためだけに変貌する。それが、この上ない悦びなんだよ」
「見せてやりたかったぜ」と元親は呟く。変貌を止めた時のあの口付けは、横暴そのものだ。正気を失っている者に対してそれを許してないのだから。正気を失うこと、己を失うこと、口付けている相手が誰か忘れるという事を。そしてその横暴に男は応え、政宗は満足げに笑むのだ。心ごと魂ごと自分のものだと。
 目に見える態度だけでは飽き足らず、全てすべてと。
 恐ろしく貪欲な竜──
「あ、後な、一応提案したぞ」
「提案?」
「“伽女に任せりゃ?”ってな」
「‥‥」
 小十郎はこれ以上ないほど眉間に皺を寄せる。
「‥‥それは‥‥お気遣い‥‥ありがとう‥‥ございます‥‥。」
「自分が相手した方が起きるのが早いって事で却下されたが‥‥、あれは兄さんを、自分の手に落とせる時を今か今かと舌なめずりしてる。‥‥なぁ兄さん、呪は本当にあんたの中に封じ切れてるのかねぇ」
「ん?」
「いや、封じられてるとして、兄さんと呪ごと食おうとしてるような‥‥。欲張りで大食漢だって事はよぉ〜く解った」
 鬼の予測と洞察力に、小十郎は何も言うまいと心に誓う。
 己は何処までいっても“人”だ。“鬼”と“竜”のおおよそごとに入る隙間は無い。
 二人は鳥のさえずりに促されるように、中庭に視線を移し、おもむろに木々の合間から見える蒼い空を見上げた。
「‥‥まだまだ荒れるな。」
「本当に。」
 日は昇り、日は沈む。晴れの日もあれば雨の日も来るだろう。穏やかな日々が続くとは限りはしないし、限らない事を知っている。

 ただ今判っていることは、小夜の嵐は過ぎ去り、竜は静かに眠る──












オマケ






「美味いな、これは」
 出された鯛茶漬けを口にした政宗は上機嫌に笑顔を見せ、小十郎はホッと息を吐く。
 結局、竜が起きたのは昼近くになっての事。小十郎にと用意された部屋から動こうとしない政宗に、小十郎は甲斐甲斐しく湯浴みと着替えをさせ、それでも愚図る主をやっと彼専用の客室に押し込めて昼餉にこぎつけた。
 いくらなんでも、家臣の部屋に居座り続けるのはおかしく思われる。
 昼餉は政宗の部屋で元親も加え、今後の展望を図るためにも、地図を囲んでの食事となった。
「この辺りではよ、この時期小ぶりの鯛が取れるらしく、それを巧く漬け込んだ一品だ。また茶がうめぇから、味噌や粕の深みが解っていいだろう?」
 そう上機嫌に説明する元親の椀は、鯛茶漬けではない事に政宗は疑問を持った。
「そう言うお前はどうして茶漬けじゃねーんだ?」
「あぁ、朝食ったからな。」
「あー‥‥確かに起き抜けには丁度いいな」
「おぅ。茶の温かさも五臓六腑に染み渡るし、丁度よかった。なぁ兄さん。」
 他意の無い同意を求める言葉に、“余計なことを”と小十郎は心の中で呟きながら、無難に微笑むだけにとどめるが、そんなごまかしが通用するはずもなく、ゆっくりと向けられる主の視線を感じて面が上げられない。
「ふぅん‥‥朝同じもの食べたってぇのに付き合ってくれるとは、それはそれはご苦労なこった」
「‥‥」
 ここでは下手な事は言わず、やり過ごすのがいい。が、それが責めと気付いた元親は余計な口を挟んだ。
「おいおい竜よ、兄さんを飯に誘ったのは俺だ。」
「それに乗ったのは小十郎だ」
「俺はお前も誘おうと用意してたが、今まで寝てたのはそっちだろう」
「そりゃぁ小十郎が放さねぇから…なぁ。」
 そう姿勢を少し前のめりにして、意地悪に目配せする。と、静かに目を閉じて耐える小十郎の眉間に皺が寄る。
 政宗の、首から鎖骨にかけて見える梅の花を思わせる痕は、それは見事に咲き誇っていた。
 これでは、小十郎が自身にカモフラージュとして首に巻いている包帯は、意味を成しているのか成していないのか。元親は少々同情する。
「今回“も”ちゃんと俺は音を上げたぞ」
「今回“も”?」
「政宗様。」
 きつく目を閉じたまま咎めの言葉を吐く小十郎を、政宗は悪びれもせず見つめた。
 事、これに関しては完全に劣勢のようだ。
「本当のことを言って何が悪い」
「時と場所を考えて下さい。」
「鬼は知ってンだ、別に良いだろう。なぁ?」
“なぁ?”と聞かれ、“いいえ”と答える理由もなく。かといって“はい”でもないのだが。
「限界だって俺が言ってるのにしつこく放さなかったのは小十郎だろうが」
「‥‥ですから何度も申し上げる通り、倒れた場合、この小十郎の側には来ないようにとあれほど──」
「なら、俺が叩き起こす事が一番効果がある現実はどうするんだ」
 小十郎は言葉を呑む。そんな重臣をしげしげと見つめる政宗だが、元親には楽しんでいるとしか見えない。事実、楽しんでいるのだが。
「叩き起こしてやった主が助けを求めてもお構いなしだものなぁ?」
 更に小十郎はぐっと小さくなる。
 本人の意志とは関係なく、どうやら最中の事は覚えてるらしい。
 それにしても何事も“政宗優先”の男が己を失うということは、これ以上ない不覚だろう。しかしそれは責められるモノでもなく。そしてもちろん、政宗は百も承知でやっている。
“根性が悪い”と思いながら元親は食事を再開した。
「ですから、」
「“ですから”?」
「ここに長期滞在が決まったのであれば、この小十郎を無理に起こすことはせず‥‥」
「haam? ここは“味方の城”って訳でもねぇんだ。誰が俺の背中を守る。」
 ピクリと頬を引きつらせ、小十郎は顔を上げた。そろそろ我慢も限界に来ているようだ。だが内容が内容だけに勝てる見込みはない。すべて理屈であり不条理で、誰かさんの思惑の上であったとしても。
 不満げに睨まれたところで、政宗は口端だけを上げて返す。
「──確かに、その通りです。が」
「“が”?」
「守るべき主が数日間、それを理由に『だるい』『疲れた』『動きたくない』を繰り返されるのであれば、そちらの方が問題だと思いますが」
「お前が限度を守ればいいだけの話だろう」
「こちらは正気がないのです。無茶いわないでいただきたい」
「開き直りやがったな! そういいながら事細かに最中のこと覚えてる奴はどいつだ」
「──っ! 記憶と意思は別でしょう」
「ほぉ〜。意思がないというか? 意思が。なら願望か。主を蹂躙して食らう、酷い欲求だ。」
「‥‥百歩譲ってそうするとしましょう。そうするとして、微かな欲すら煽りたてて弱みにするあんたはなんですか!!」
「煽りたててるんじゃねーよ! お前がいつも本音言わずに我慢してるから、聞いてやろうっていう親切心だろうが!!」
「そんな親切心ありますか!」
「第一、ずっとため込んでるから俺が喚こうが叫ぼうが放さないんじゃないのか? aha〜? このムッツリスケベ!!」
「ムッッ!! ──調子に乗って言いたい放題云うもんじゃぁないですよ、政宗様?」
「ham! 俺は事実を言ってるだけだと何度言わせる」
 ‥‥早く食い終わろう──元親は思う。

 犬も食わないなんとやら。鬼とて食らいたくもない。