露華

 不楽是加何 01








   神様、神さま、かみさま‥‥‥‥


 何十回、何百回、そう呟いただろう。
 神様などというものはいないと知っていて。
 誰も助けても、救ってもくれないと分かっていて。
 それでも、

「‥‥かみ‥‥さま‥‥」


 後何十回、俺達は呟き続けるのだろう?










 妙な噂と、素破から寄せられた気がかりな話が届いたのは、ほぼ同時期だった。

「侍による農民の虐殺?」
 政務の合間に届いた情報に、城主である伊達政宗は書状から顔を上げず、難しい顔をさらに難しくした。
 人が朝早くから真面目に書類等に面と向かったというのに、なんて厄日だ──顔にはそんなことが書かれている。
 それにしても、自分達のやっている事は確かに殺し合い。だが、それには一定のルールがある。荒くれ者の集団と称される伊達軍ではあるが、そういった無意味な行為を一番良しとしないのは、この若き筆頭だった。
「そりゃ何処のイカレタ集団だ。」
“ウチの者なら叩っ切る”という意味を含ませ、書状から顔を上げると、情報を持ってきた若衆に睨みを利かせた。
 右目の眼帯は伸ばしっぱなしの前髪に隠れ、機能している左目がその前髪の隙間からギラリと光る。
 伝達をまかされた若衆にとっては迷惑な話。
「そ、それがその、何処の集団かまだ‥‥もちろん俺等の縄張りでもありやせんし、かなり北で起こった事でして、その、今も調査中との」
「han!」
 政務の書状を床板に叩き付けるように置いて、政宗は口に手をやる。
 北の話──そんな事は言い訳にならない。自分の気に食わないことが起こっているかも知れないというのに、指をくわえて見てろと? 話がここまで届いたからには、何とかするってのが筋ってものだ。なのに断片な情報では何も出来ない。
 そしてそんな事態が起こったのならば、それを起こした人物がいる。起こしたのがその現場近くの者か、はたまた離れた者か。もし、ここ奥州より南の者であるのなら大問題である。何か他に手がかりになるような情報を自分は聞き落としたか? 情報があまりに少ない。
 政宗は口に手を添えたまま、上目遣いにちらりと部屋を見渡す。
 足りない情報や知恵を、いつも絶妙なタイミングで補ってくれる人物が見当たらない。
 遅刻も寝坊も無断欠勤も、あの男には無い言葉だ。
「小十郎は? 小十郎はどうした」
 こんな重要な情報が、自分の‥‥“龍の右目”と称される重臣・片倉小十郎の耳に届かない訳がない。そして知恵と共に新たな情報を持参するのも彼の務めであるはず。
 その彼が見当たらない。
 違和感を覚え、政宗がしっかりと顔を上げたと同時に、廊下からバタバタと複数人の騒がしい足音が響いた。
 足音で、小十郎ではないことを覚った政宗は、厄介ごとが増えたなと溜息を吐く。
 廊下でなにやら話し声がしたかと思えば、「失礼しま〜す」と部屋にワントーン軽い声が響いた。
「さ、さす‥‥」
「どもー」
 一瞬、開いた口の閉じ方を忘れた政宗だったが、何とか閉じる事に成功する。
 堂々と姿を現したのは猿飛佐助。政宗のライバル、真田幸村の素破だ。
「テメェ‥‥忍ぶのが商売だろう?」
「うん、商売なんだけどねぇ。今日はあんたの右目からの依頼なんで、堂々と」
「小十郎の?」
 声のトーンを低くする。
「お前、いつ煩い坊っちゃんから小十郎に鞍替えした。」
「まさかぁ」
 二人は表面上だけの笑みを作る。政宗も本気でそんな事を思って聞いているわけでもなく、対峙する佐助も本気で汲み取ってはない。
 ただ、事態が少々ややこしい事だけはよくわかった。
 姿勢を正し、懐から扇を取り出すと、すぐ前の下座を指す。
「ここへ着て報告しろ。──猿飛佐助」
 その表情は、戦場のそれとは違う城主・伊達政宗であり、その命に従う佐助もまた、忍ではなく使者として、指定された位置に坐した。
「北の妙な動きは、こっちにもつい先日届いてね。ふって湧いた話過ぎて奇妙だったんだ。調べるにしてもあんたんトコかえさなくちゃならないし、ちょっと手間取るなと思ってたら、あんたの領地に、問題の土地の農民何人かが逃げてきたって話を聞いて。右目の旦那はそのお迎えさ」
「ほぅ‥‥素破ごときがオレの右目を使うとは、大層なご身分じゃねーか。」
「そうでもないよー? こうやって食われる覚悟であんたと向き合わなくちゃなんないんだから」
「ha! 食える代物でもねぇ癖に、何ほざいてやがる」
 使えるものは敵でも使う、胆の据わった佐助を前にしながら、同時に、武田軍…真田軍の内情が忙しい事を政宗は悟る。
 こんな態度は、余計なリスクと時間を惜しんでの行動だ。なるほど佐助もそれなりの手の内を見せて小十郎を使っているようだ。
「で、それだけじゃねぇだろう? 北の出来事が気にかかった理由。そっちに厄介事が行く前に、不本意ながら奥州が防波堤になるからな」
「あー、こわいこわい」と聞こえるように佐助は呟くと、得意気な表情を浮かべ、言葉を続けた。
「船さ」
「船?」
「魔王さんがでかい船を作っただとか何とかって情報が以前入っててね。で、今度は明智軍主力の現在地不明ときた」
「まさか」
「そう、そのまさか。俺達の領地かっ飛ばして、北にちょっかいかけてる可能性があるねぇ」
 キリッっと政宗は奥歯を噛む。
 情報が少ない。真意も測れない。真偽も判断できない。
 次の一手がこのままだと指せない。
「右目の旦那には、近くに迷い込んだとされる農民からの情報‥‥その辺りを頼んだんだよ。俺がこのまま北探るの手間なように、あんたらには明智探るのが手間でしょ?」
 なるほど。そういう腹かと政宗は扇を手の内で軽く鳴らし、了承する。
 真相を確かめに小十郎が走ったのであれば、小十郎が帰ってくるまではこの問題は棚上げだ。
 いつまで待たせるつもりで単独行動かと、口をへの字に結んでみるが、政宗の了解もないまま小十郎がそう遠くに行くはずもない事、政宗自身が一番承知している。
 しかたなさげに頭を掻く。
 それにしても‥‥
「おい、忍」
「ん? なに?」
「頭(こうべ)は‥‥下げんな」
「──何当たり前な事言ってんの?」
 同時に二人はニタリと笑った。




 猿飛佐助が去った後、残ったのはいつ雷を落としてもおかしくない、不機嫌な独眼竜。
 しかもやることが無いので、その不機嫌なまま書状と睨めっこをしたものだから、雷の威力は更に倍だろう。幼馴染で部下でもある伊達成実すら、周りの物に、「六尺は距離を保て」とふれて回る次第だった。
 そろそろ夕餉の時間となり、辺りが暗くなり始めたというのに、まだ小十郎からの連絡もなく、夕餉も取らずに部屋に篭り待っている政宗の苛立ちが、とうの昔に臨界点を超えている事ぐらい、誰しもが想像でき、城内勤務となった者は神頼みではなく小十郎頼みになっていた。


「片倉様が‥‥片倉小十郎様がお戻りになられました!」

 ピンと空気の張り詰めていた城内に、勤めて間もない小姓が使命感をもって朗報を声に出す。
“救われた”と安堵の笑み浮かぶ若衆たちの耳に、“スパーンッ!”と政宗が篭っていた部屋の方から、障子が勢いよく開く音がした。
 皆、近くの者と顔を見合す。
 まだ誰も政宗に報告を入れていないはず‥‥
「おい、小十郎は帰ったのか!?」
「は、はい、そのようで‥‥」
「“そのようで”だぁ?」
 詳細を知らない者にひと睨み利かし、廊下の板が抜けんばかりの勢いで政宗は歩く。‥‥応えた彼は相槌を打っただけで罪はないというのに、竦みあがってその場から動けない。
 落とす雷を練りに練ながら厩に向かう政宗の視線の端に、こちらへと向かって廊下を歩む小十郎の姿が映った。
 しかもゆっくりと。
 拳を作る。が、走っていって横っ面を殴るなどという大人気ないことはしない。ここで、腕を組んで仁王立ち程度で収めてやる。‥‥ただ、腹の底で企んでいるのは、とても大人気ない雷の連発なのだが‥‥。
「おや、政宗様。」
 政宗を見つけた小十郎は何事も無くそう言い、にっこりと微笑む。対して政宗の頭の中には事和げないその言葉が、ドップラー効果のように響いた。
 火に油。いや、逆鱗に触れるというか‥‥剥いだ。
「テメェ〜それが仕える主君を待た‥‥」
 鼻先すれすれまで詰め寄り、雷をまさに落とそうとしたその時、視界に入らない下の方で何かが動いた気配に気付き、政宗はゆっくりと視線を下げる。
 目に飛び込んできたのは、つむじとおさげ頭。
 それは政宗の胸に至るか至らないかの小さな少女。
「おめぇ‥‥確か‥‥」
 探る言葉に少女は顔を上げる。
 と、「あぁ、」と政宗は探り当てた記憶に相槌を打った。
「いつき‥‥? 久しぶりじゃねぇか」
 とたん、いつきと呼ばれた少女は、大きな瞳をウルウルと潤ませる。“ヤバイ”と思った時には後の祭りだった。
「まぁさむねぇぇえええ〜」
『うわ〜〜ん!』とそれはもう、季節はずれとなった蝉の大合唱を思い出される、けたたましい声が城内に響いたかと思えば、今度はその声が否応なしに政宗の腰に埋められる。
 困惑しきりの政宗に、苦笑いの小十郎。

 雷は、思わぬ伏兵により落とされることは無かった。







 “暗い夜”になれている少女にとって、囲炉裏の火ではなく、灯明に加えて行燈という部屋の明るさはかなりの驚きだったが、何よりも、目の前に差し出された膳に白米が、見たことのない量盛られている事に心底感嘆していた。
 まぁ本来ならば、一国の主と同じ部屋に同席して膳を囲む事がありえない光景なのだが、それは一国の主である政宗にとって大した問題ではなかったので、彼女はその有り得なさを実感する事は無かった。
 小十郎を待って夕餉を取っていなかった政宗の下にも膳は用意されていたが、政宗は手をつけない。まだ、食べる暇がないと判断していた。
「いつきだったとはなぁ」
 上座に座り、相対する下座のいつきを政宗はしげしげと眺める。すると、先ほどまで目の前に届けられた膳をみて破顔していたかと思えば、今度は複雑な表情をして膳を眺めたまま、いつきは箸を取ろうとしなかった。
「なんだ? ガキが遠慮なんかすんなよ。それとも正座が辛いんなら崩していいぞ」
 声をかけられ、上目遣いにいつきは政宗を見、そのままチラリと自分の前方、右手に座る小十郎にも視線を移し、また膳へと戻した。
「嬉しいんだども‥‥おらだけ、こんな贅沢‥‥」
「ann?」
 遠慮の意味が解らず何か言おうとした政宗の前に、小十郎が静かに口を開いた。
「安心しな。一緒にこっちへ渡って来た仲間には、困らねぇ程度の金子と、顔の利く宿を教えてやっている。今頃は腹いっぱい飯でも食ってるさ」
「ほんとか?」
「あぁ。」
 小十郎の穏やかな応答と笑みに、いつきは笑顔を見せると、たまりかねた様に箸と椀を手に取った。
 それを確認して、政宗は小十郎に視線を移す。
「なんだ、小十郎。大所帯だったのか?」
「えぇ。襲われたのは彼女の村ではなく、近隣の者だったらしく、こちらへ渡る事を提案した彼女が引き連れていました。」
「だったらいつきだけじゃなく、全員連れてくれば」
「ご冗談を。馬を連れてない者、ここまでたどり着かせることにどれほどかかるとお思いで? 彼女を乗せ、我が愛馬で駆け走ってこの時間というのに」
「hamm‥‥」
 身の軽さ、情報の的確さ、そして何より面識があることの信憑性も踏まえ、小十郎は彼女だけをここへと連れてきたのだろう。
 だが、
「で?いつ、この情報を知った?」
 朝、小十郎は見なかった。いや、居たとしても、素破からの伝令が伝えられた時には、既に居なかった事は確かだ。
「まず最初に、主君に知らせるべきじゃねぇか?」
「えぇ。貴方に新しく、そして正しい情報を伝えることがこの小十郎の務め。」
 厭味を綺麗に切り返され、政宗の眉がピクリと上がる。
「なにより、政宗様も正しい情報を欲されたでしょう?」
 切り返すだけでは飽きたらず、にっこりと余裕の笑顔を向けられ、政宗の顔面が引きつる。
 確かにそうだ。その通りだ。が、事実と心情とは反りが合わない。
 小十郎はそんな内心を見透かすかのようにさらに言葉を続ける。
「この場合、一番妥当だったのですよ。佐助は察知していましたからね」
「?」
「いつきと我々に面識があるや、そういったものまでは解ってないようでしたが、我々が以前の一揆騒動で押さえ、和解した農民がまぎれている事を知っていたようです」
「ha! まったく食えない輩だ。そこまで見当が付いてるなら…」
「だからこそ、正しく、より深い情報を知るために、こちらに情報を流したのでしょう」
「それじゃあテメェは知ってて使われたのか!」
「政宗様にも要りようの話です。」
「そうじゃねぇ! 俺は」
 いきり立つ政宗が続けようとする言葉を見透かし、小十郎は言葉を遮る。
「明智です」
「な‥‥ん?」
「北に現れたモノ、どうやら明智の本陣です」
「!」
「もちろん、数はそれほどではございませんが、精鋭かと。‥‥これがどういった意味かお解かりですか?」
 他の領地に覚らせる事なく、一足飛びに渡っていったのだ。それは部隊の数が少ないとはいえ脅威の何ものでもない。しかも本陣を持ってきた?
「ここで見誤るは全ての極を見誤るのと同意。“右目”が見ずにいかがいたしましょうや?」
 政宗は黙る。そんなことは言われずとも解っている。小十郎はすべてにおいて伊達家の‥‥いや、政宗のために動く。そんな事は彼が一番よく知っている。
 それでも、それでも事実と心情はまだ反りを合せてくれない。
「あれが‥‥あれが精鋭とか言うんだべか?」
 夢中で白米を頬張ってたはずのいつきが、かちゃりと椀と箸を置く。
 どこに視線を留めるでもなく、少女は口を開いた。
「あれがお侍さんの中では、“精鋭”なんて言うんだべかよ!? ただの人殺しだべ? 違う。笑いながら殺してた。人殺しなんて言葉じゃ足んね」
 カタカタと、いつきの手が震え、肩も震え始める。
「‥‥」
「おらが追い払おうってする頃には、もう、遅かった。それで、ただ怖かった。だって、田を荒らすとか、畑を荒らすとか、そんなんじゃなかった。ただ人殺してた」
 じわりじわりと溢れる涙は、止める事が出来ない。
 鼻をすすり、拭いながらいつきは言葉を続ける。
「どしてお侍さんは戦う? なしておらたち殺していくの? なして‥‥──なしてかみさまは、おらたち助けてくれないの?」
 ぼろぼろと、いつきは声を上げずに泣きはじめる。
 彼女は一度、死ぬ覚悟で侍に刃向かった。生きるため。誇りを失くさないため。その覚悟で相対したのは、ここにいる政宗であり、その覚悟を汲んだからこそ、政宗はいつき達の一揆を不問に置き、力になることを誓った。
 覚悟とは、張り詰めたなにか。身を晒す決意。
 ただの少女が、早々何度も味わうものではない。そして、声の上がらない涙ほど、不健全なものは無い。
 政宗は顔を思いっきりしかめ、奥歯をかみ締める。
「小十郎!」
「はっ。」
「いつきを喜多に預けて飯を食わせ、湯に突っ込ませろ! お前との話はそれからだ。そんなしけた面があってもらっては、晴れるものも晴れやしねぇ」
「はっ。」
「いつき! 救われたいなら、助かりたいなら祈るな!」
「?」
「結局、助かるのは人間で、救うのも人間だ。神様ってのが関わる余地なんかねぇ。だから‥‥だからお前が俺の元に助けを求めたのは正解だ。」





 一の女房・喜多にいつきを預け、小十郎が政宗の元に戻ると、彼は冷めた膳を平らげながら、なにやら思案していた。
 色々と策を練っているのだろうが、ここで釘を刺しておかなければ後々面倒になると、政宗の前に坐し、一礼すると、きっぱりと言い放った。
「貴方が指せる一手はございませんよ。政宗様」
「‥‥何を根拠に?」
 パリッと、政宗の口の中で、箸休めがいい音をたてる。
 思った以上、冷静に彼は聞き返してきた。それは多分政宗の中で、攻める手を思案しながらも、何かが引っかかっていたのだろう。
「明智は、無意味に手の内を見せています。しかもこの上なく印象的に」
「わざと‥‥か」
 バリバリバリと、小十郎の下まで口の中で砕かれる、箸休めのいい音が届いた。
「はい。そして精鋭で形成された部隊であるなら、村の一つや二つ、跡形なく消せるはずです。」
「生存者は多いのか?」
「いつき達が最後まで見届けてこちらへと向かった訳ではありませんので、確実な話ではありませんが…話を聞く限りでは。惨劇ではありますが、嫌に象徴的かと」
「わざわざ居場所を知らせている?」
「そうですね。戦力・移動力を示しているのかと」
「‥‥‥‥。」
 本来隠すものを示す意図は? と、思考しながら汁物に箸をつけると、政宗の思考に呼応するかのように小十郎は言葉を続けた。
「真に受け、今から指しに向かった所でもぬけの殻‥‥又は、移動力を活かし、指そうとする者の横っ腹を刺してくる揺動そのような‥‥まぁ、そんな簡単な事とも思われませんが、何かを考えている事でしょう。ただ、先程も申しましたよう敵の本分は力の誇示と見るが妥当かと。村への二度の襲撃はありますまい」
「ふん。」
 そして基本的な問題。北の蛇にかまければ、南の虎がどう動くか解らない。今はその虎も、こちらにかまけている場合ではないにしろ、絶妙な拮抗の間を見計らっての趣向だという事は間違いない。
 政宗は荒っぽく箸を置いたかと思えば、これ以上なく不満げな顔をして腕を組む。
「結局、今のままでは何もしてやれんという訳か‥‥」
 一方的な趣向で、仲間が傷つくのをあの少女は見てきたのだ。それを思うとただ歯がゆい。
 そんな政宗の心中を察し、小十郎はただ俯く。
「絶望はダメだ。どんどん奥底に囚われるだけで。」
 なにかを吐き出すように呟くその姿。何かを思い出すように伏せられる瞳。
 政宗から一番遠いと思われる、“絶望”という言葉。たとえ今は縁遠い言葉であろうとも、その絶望、政宗は幼い時、その身に深く刻まれた。
だからこそ、
「‥‥救われねぇのはダメだ。」
 小十郎は頭を下げ、静かに聞き入る。
 静まり返った部屋に、夜の虫の声が響いた。
「──明日又合議‥‥とはいえ、成実が暇そうにしてたな。蛇を突かないにしろ、成実に殿を持たせていつき達を送らせろ。あそこらの諸侯は何してるのかの探りと、気合入れるにも成実なら丁度いい。小十郎」
「は。」
「お前、近くの畑や村に、変わった苗や種を分けていたな?」
「? はい、いかにも」
「明日、その分けた所から、少しずつでいい。苗や種を分けてもらえねぇか、聞いて回ってくれねぇか?」
「はっ、」
「人の命は確かに戻らねぇ。だからこそ、新しい命をあいつらに」
「政宗様‥‥」
 心遣いに感銘を受け、見上げる小十郎の顔は、とても穏やかな笑顔のような、どこか見守るような、本来主君に向けるべきでない表情を浮かべる。
「なんだその顔? 何がおかしい?」
「いえ‥‥本当に大きくなられたと、小十郎、感激しております。」
「han! いつまでもお前の手の内に納まってる“丸”じゃねーぞ」
「もちろんです。おいたが過ぎて少々呆れる事もございますが、まこと、この小十郎の眼に狂いはございませんでした──」
 座したままの体勢を保ち、拳に組んだ手を床にあて、半歩下がると、姿勢をただし、小十郎は深々と頭を下げる。
「気持ち悪いぞ、小十郎。」
 そう言われても小十郎は頭を下げたまま、笑顔を浮かべる。と、政宗は頭を下げたままの小十郎の下まで歩み、しゃがんだ。
「言っとくがなぁ小十郎。俺は一番残酷な選択をアイツにさせただけだ」
「は?」
 顔を上げた小十郎の眼に映る政宗は、どこか物悲しい。
「絶望はダメだ。だが同時に楽だ。『神様』と唱えていれば慣れる。あの暗闇に」
「‥‥」
「救われるのはいい。だが同時についてくる希望や切望は地獄だ。否応なく、自分の責任で進まなくては‥‥足掻かなくちゃなんなくなる。縋るにも、体力いるしな」
 言い切ると政宗は、どこか子供のように、それでいて責めるように、にんまり笑う。
「どれだけ生き地獄か解るか? 救った本人さんは?」
「!?」
 小十郎の表情が変わったと同時に、政宗は立ち上がり、背を向ける。
「お前も飯食って来い。腹が減っては何も出来んだろ。──喜多の浅漬けは美味かったぞ。」
 背を向ける政宗と、座したまま、それを見上げる小十郎。
“リーン”と月鈴子の声が響いた。








 自分は貧乏人だ。そんな事、解っている。だが、これほど身体に貧乏が染みているとは思っていなかった。
 半身を起こし、いつきは「はぁ〜」と一つ溜息をつく。夜も明けきっていない頃に目が覚め、“せっかく畑仕事も無いから!”と二度寝を試みたが、まったく寝れず、ただゴロゴロするに留まってしまった。
「む〜ん」
 ここらが年貢の納め時だろうか。空も白み始めたし‥‥と、起き上がり、蚊帳をくぐってゆっくりと障子を開ける。
「う〜ん」と大きく背伸びし、朝の空気をいっぱいその小さな胸に吸い込む。少しひんやりとして湿った朝の空気はどこも一緒だと感じつつも、まったく違う環境に、いつきは俯いた。
 静かだった。
 確かに農村の朝は早く、家畜や生き物の気配、元気な挨拶が交わされたりと、行動時間が違うのもあるだろうが、そういったのと又違った、寂しさを含んだ静けさがここにはあった。
「‥‥。」
 お侍さんはいつも大勢で、その一番上の人なら、もっともっと大勢なのだから、もっともっとと──そんな事を思っていたのに‥‥。
 いつきは、とても寂しくなっている事に気付き、自分を奮い立たせると、廊下に出て、宛てもなく城内をさ迷い始めた。
「おい、お前。」
「ひっ!」
 程なくして本当に迷い始めた頃、城内警備の若衆に呼び止められ、竦み上がる。
「あ、あ、おら‥‥」
 何も悪い事をしていないと伝えたくとも、そのこわもてに言葉が続かない。が、若衆は、その顔と不釣合いな笑顔を見せた。
「お前、小十郎様が連れてきた客人だろ? 厠か? それとも小十郎様の野菜を見に来たか?」
「野菜?」
「あぁ、お前、どっか北の方の農民なんだろ? 小十郎様の野菜は作っているものも出来も、一味も二味も違うぞ」
「お野菜‥‥」
 興味深げに見上げるいつきに若衆は、庭履き用の雪駄を持ってきてやると、畑のある場所を丁寧に教えてくれた。
 ずるりずるりと男物の雪駄を引きずるようにして歩きながら、教えられた場所に向かう。
 そこに待っていたのは、土の匂いと、みずみずしい草花の香り。
「うわぁ〜!」
 城内のためか、畑はたいして大きくないのだが、多種多様な葉と実と植物に、いつきの心は躍る。
「誰だ?──っと、いつきか。随分と早ぇな。」
 土いじりのため、丈のある野菜に隠れていた小十郎は、小さな来訪者に笑顔を見せて立ち上がると、土埃を少し払いながら、たすきを解いて袖にしまった。
「これ、小十郎が育てたか?」
「あぁ。色々と勉強しながらな。」
「すごい‥‥! 見たことのないものもいっぱいだ。あそこに咲く花だって、見たことねぇべ」
 色とりどりの、極彩色豊かな花まである。
 小十郎も、いつきと一緒にその花を眺めながら溜息を一つ吐く。
「政宗様はもらえるものなら何でも貰い受けて、こっちに種を押し付けてくるのでね‥‥野菜か花か、育て時がいつかぐらいはもう少し何とかして欲しいもんだ」
 そう、愚痴をこぼしてみるが、もちろんいつきには届いていなく、うっとりと野菜や花を眺めている。
「ここのお野菜達は幸せだな! 強いお侍さんに守られて、愛情いっぱいに育てられて、ほら! 朝露がきらきら輝いて、花のようだべ!」
 瞳を、その朝露に負けずきらきらと輝かせ、いつきは言う。
──絶望はだめだ。
 そう言った、ここにはいない政宗に小十郎はうなずく。
「いつき。今日は城下に下りて近くの村を一緒に回るぞ」
「へ? なして?」
「ここにも苗や種はあるが、やれるものは少ししか残ってねぇ。だが、以前鉢分けしたところなら多分、もう少し増えていて分けてくれるかもしれない。そいつをもらいに行こう」
「! おらに、おらにくれるのか?」
「手ぶらじゃなんだろうって、政宗様も色々考えてな」
「わーいわーい!」と、その場で何度も飛び跳ねるいつきを微笑ましく眺め、小十郎は又しゃがんで野菜と向き合う。が、しゃがむ瞬間の、光の加減ではない陰った表情を、いつきは察知した。
「どうかしただか?」
「‥‥いや」
 そう否定する小十郎に、いつきはぷくーっと頬を膨らまし、男の横にしゃがみこむと、小さな両手で“ぺちん”と男の両頬を挟み込んだ。
「な‥‥」
「お野菜さんには口が無いから、お野菜さんが言いたい事、伝えたい事、おらたちが一生懸命聞かなくちゃなんねぇ。んだども、口のあるおらたちは、聞くのと一緒に、伝える努力もせねばなんね。」
 真っ直ぐ向けられる少女の瞳に小十郎は苦笑いを浮かべ、「まったくだ」と呟く。
「いつき」
「なんだべ?」
「‥‥政宗様を恨まないでくれ」
「?」
「今回は助けられた。でも次何かあった時、助けられねぇかもしれない。生きていればもっと酷い事に巻き込まれるかもしれない。希望は‥‥砕かれるかもしれない」

──どれだけ生き地獄か解るか? 救った本人さんは?

 “救った”などというおこがましい意識は無いが、幼い頃、自らの存在を殺す事に長けていたあの人の存在を望んだのは、間違いなく自分だ。
 望んだ。ただ望んだ。そして今、ここに存在する。自分の全てとして。
 だが、存在するために彼は戦いに明け暮れ、幼い頃に味わった絶望感とは又違う何かを、絶えず抱いているのかもしれない。
 ただの、自らのエゴで救ったのだとしたら‥‥?
 伏せていく小十郎の瞳に、いつきは「う〜ん」と唸る。
「小十郎ささぁ、おら、もっと酷い事があっても、もっとじたばたしたい事があっても、政宗さ、うらまねぇべ? もちろん、小十郎ささだってうらまねぇべ? だっておら、生きてあんないっぱい真っ白な米食べて、こんなに綺麗な朝露見れたんだべ? なにをうらむんだべな」
 ゆっくり、いつきは笑顔を作る。
「もし、次、助からなんでも、もっともっと苦しい事があっても、政宗さや小十郎さに逢えたことだけでも価値があるべ」
「なら‥‥いい‥‥な」
 そう、だったらいい。そうであればどれほど幸せか。
 推し量る事など出来ないが、そうでなくてはならないのだろう。そうあるべきなのだろう。まだ、達する事はできていないだけで。
「嘘じゃないべ? ほんとだべ?‥‥だども‥‥」
「ん?」
「かみさまには、やっぱお願いするかも知れねぇ。」
 そう、申し訳なさそうに、上目遣いで申告するいつきの頭を撫でてやる。
 と、「ぅえっほんげほん」と、たいそう無理な咳払いが頭上で響いた。
「まさむねぇさ! おはよう」
「政宗様」
 半歩引いて、膝を着こうとする小十郎を、軽く手を上げ政宗は制止する。
「おはようございます。…いつから‥‥」
 そう問う小十郎から、“プイッ”と政宗は視線を逸らす。
「ねぇねぇ、政宗さ、みてみて! 朝露! すごく綺麗だべなぁ」
「そうだな」
「小十郎さはすごいべ。刀もってこんな畑も耕して、すげぇえお侍さんだな」
 満面の笑みを浮かべるいつきに、政宗は満足げに、どこか自慢げに笑う。
「古今東西、どこ探しても小十郎に代わるものはいねぇぜ? なんせ竜の右目だからな」
 なんの比喩かわからないいつきは、ただただ感嘆する。
「ほぇ〜。竜神さまの右目だべか‥‥それで政宗さ、神さまに祈らなくてもいいべな」
「あ?」
「小十郎さ、ずっと傍にいてくれて、守ってくれるもんな。幸せだべな。ここのお野菜たちと一緒で」
 微笑んで見上げるいつきから、ちらりと視線を小十郎に移し、笑う。
「そうだな。幸せだな」
 その言葉に、小十郎は静かに頭を下げる。
「と、いつき。顔も洗ってねぇだろう? 邸で女房が案内に待ってる。今日は忙しくなるから、早く戻れ」
 そう言って軽く背中を押してやると「はーい」と元気よくいつきは応え、手を振り、大きな雪駄を引きずりながら邸へと戻る。
 見送り、いつきが見えなくなったのを確認して、くるりと政宗は小十郎に向き直った。──思いっきり不機嫌な表情で。
「‥‥‥‥」
 この人は、感情こそ隠さないが、気に入らない事があるとダンマリを決め込む癖がある。今も昔も。さて、どうやって口を開かせようかと小十郎は考えようとしたが、意外にも政宗は自ら、少しためらいながら口を開いた。
「小十郎」
「はっ」
「俺は不幸か? お前を──恨んでいるのか?」
 見据える視線。答えようのない‥‥質問。
 小十郎は押し黙る。
「なら、俺が不幸な方がいいか? お前を恨んでいる方がいいか?」
「いいえ。」
 この問いならば即答できる。
 その答えを聞き、政宗はゆっくり間合いを詰める。
「では俺にどうあって欲しい?」
「勿論、天下をとり‥‥」
「俺にどう思って欲しい?」
「───」
 鼻先で政宗は睨む。
 答えが詰まる。
 上辺では、見透かされる。本心は‥‥

 ──本心は?

 戸惑う小十郎の内心を察知してか、政宗はその鋭い視線から、緊張から解いてやった。
「han、テメェは“お野菜”以下か?──まぁいい。喜多が花を活けるから何本か見繕って来いと。」
「解りました」
 踵を返した政宗は、ふと、何かを思い出したかのようにその足を止める。
「小十郎。俺たちはあとどれくらい、神に祈る?」
 背を向けたままの質問。
 祈りの言葉など、とうに忘れた。いや、自分にはこの人の存在があれば祈る必要もなく。
 小十郎は、唇を薄くのばす。
「この小十郎、龍の右目だそうですよ?」
 短く、政宗は満足げに笑う。
「今日は忙しい一日になりそうだ。──小十郎! 言っとくがなぁ、俺の地獄は、目の前にある井戸が俺の渇きをなかなか潤してくれんのだ」
 振り返り、にやり。
「そろそろ、無理強いでも掘り起こして潤してもらうぜ」
 得意気に宣戦布告。
「‥‥枯れ井戸では、ございませんかな?」
「枯れ井戸ではあるまい。これだけの野菜に潤いを与えていて…なぁ?」
 小十郎も、くすり。
「作物や身を洗うには丁度よいやも知れませんが、生水は腹を下しかねませんぞ」
 意地悪をまたも切り返され、彼はとたん、憮然とした表情を向ける。
「飲んでみねーとわからねぇだろうが」
「政宗様は身体の弱いところもありますので、慣れぬことは禁物かと」
「な!」
 不満を隠さず睨む主の下に歩み、静かに、そして素早くその唇を潤す。
「──ぅん──」
 突然の事で、息のままならなかった政宗の吐息が漏れる。その声に「あぁ、だめだ」と男の頭の隅に警告がふと過ぎるが、鎖骨の上でうごめくように震える指先が、警告をかき消してしまう。
 潤す? そんな器用なことは出来ない。
──溺れる。
 二度も三度も、溺れていい相手ではない。
 名残惜しく‥‥だがその事を悟られぬよう、舌を解き、男は、“重臣”の顔をして微笑んだ。
「無理に掘り起こせば溺れるやもしれません。ご注意ください。」
 施された行為に、ぽぉっと気の取られていた政宗は、ハッとして我に返ると、次の瞬間、小十郎の顔面にうっちゃりを食らわした。
「ブッ!」
「溺れさせる気もねぇクセに、溺れさせてからそういう事言え! テメェはそんなにお留守番がしたいか!」
「は?」
「いつきを送ったら奥州を出るぞ」
「はぃ?」
「まずは小狸の面の皮か、はたまた虎の子の横っ腹か‥‥」
「お待ちください! 何故に貴方という人はそんな」
「早く──祈る言葉は無くさねぇとな」
 口を噤む。それを見て、政宗はひらひらと手を振った。
「ま、話は朝餉の後だ。早く来いよ」
「まったく‥‥」と、ため息を付きながら小十郎はその背を見送る。
 あの性急さや行動力はどこから来るのだろう?まったく、誰かがお止めせねば、どこまでも走り続けるか‥‥とそんな事を思いながら、言付かっていた花を数本見繕い、手折る。
 花についていた朝露の雫が落ち、男の手を潤していった。