「どうなってるの、この店は?!もう帰るわ!こんな店、二度と来るものですかっ!」
『舌の匠』のあまりの憤慨ぶりに、安岡は恐怖のあまり顔面蒼白で体を硬直させている。
それまで静観を続けていた北山もさすがにこれはまずいと感じ取り、ふたりの元へ駆け寄った。
「お客さま、申し訳ございませんっ!今すぐに代わりのワインを・・・」
謝罪の言葉とともにペコペコと頭を下げる北山を、『舌の匠』が「どきなさい!」と叫んで目の前から押しのけた。
「お、お願いっ・・・待って・・・!」
それまできっちりとした口調で接客していた安岡がくだけた言葉を遣って、帰ろうとする『舌の匠』を引き止める。
震える手で「ぼくのおたんじょうびワイン」のボトルを持ち上げた安岡は、中身がこぼれないように気をつけながらオープナーでラベルをゆっくり剥がしていく。
子供時代の酒井が書いたラベルの下から、別のラベルが顔を出した。
「こ、これは・・・」
『舌の匠』が、声を震わせる。
「やっぱりコレ、『レ・ペティ・ソム・デ・ランジュ』だったんだ・・・北山さんから酒井さんの話聞いた時に、たぶんそうじゃないかと思ったんだよ・・・」
ようやくホールに降りてきた酒井が、綺麗に剥がされた「ぼくのおたんじょうびワイン」を見て、「あっ、それ子どもの時に書いたラベルだ。」と懐かしむように呟いた。
そして安岡の持つワインのラベルを見て、驚きの表情を浮かべた。
「『レ・ペティ・ソム・デ・ランジュ』・・・?!『ぼくのおたんじょうびワイン』の正体は『レ・ペティ・ソム・デ・ランジュ』だったのか!」
「うん。こんなこと言っちゃなんだけど、なんでこんなワインが店のワインセラーに保管してあるのかなとずっと疑問に思ってたんだよね。
まさか一番希少価値がある1972年のものだとはさすがに思わなかったな・・・。」
「1972年・・・俺の生まれ年か。」
「あっ!そっか!・・・くっそ〜っ、そこまでは読めなかった!あぁ、ソムリエ失格だぁ〜・・・」
酒井と安岡が会話を続ける中、『舌の匠』が「『レ・ペティ・ソム・デ・ランジュ』の、1972年モノは・・・」と語り出した。
皆、一斉に『舌の匠』の話に耳を傾ける。
「『レ・ペティ・ソム・デ・ランジュ』の1972年・・・。このワイナリーのオーナーが代替わりした年よ。
その年、この地域ではブドウが不作だった。わずかに収穫されたブドウを使って、例年どおりワイン作ったのだけれど・・・
新しいオーナー、つまり息子ね、彼の独断で『この年のワインは失敗作だから、ひとつ残らず処分するように』と従業員たちに命令したの。
ところが、ワインに関しては従業員の方が上。このワインの奥深い味わいに気づいた一部の従業員が、捨てるフリをしてこっそり市場(しじょう)に出してしまったの。
『この年のワインはきっとこの銘柄の価値を高めてくれるに違いない』って・・・。
まぁ、この一件があった後、そのワイナリーで厳重な箝口令が敷かれたそうだから、真実は闇の中よ。
だからこの話はただの都市伝説であって、実際のエピソードではないかもしれないのだけどね。」