説明を終えた『舌の匠』は、「帰るわ。『レ・ペティ・ソム・デ・ランジュ』の分はきっちりとお支払します。」と言い、席を離れようとする。
「お客さま、待ってくださいっ。」
北山が『舌の匠』を引き止めた。
「『レ・ペティ・ソム・デ・ランジュ』の1972年、せっかくの機会ですから、どうぞ味わって帰ってください。料理もぜひ・・・」
『舌の匠』は、北山の言葉にふぅとため息をつき、口を開いた。
「さっき衝動でテイスティング用のを飲み干した時、『レ・ペティ・ソム・デ・ランジュ』の、しかも1972年モノだって全くわからなかったわ・・・
わたくしには、このワインはもったいないですわ。これはあなたがた従業員で味わうべきじゃなくて?」
立ち去ろうとする『舌の匠』を、北山と酒井が「いや、そうおっしゃらずに・・・」と食い止める。
「お料理はまた日を改めて伺いますわ。あ、ソムリエの方は・・・あなた、名前は何とおっしゃいましたか・・・」
「や、安岡でしっ!」
「あ、噛んだ。」
「安岡、さんね。次来た時は、あなたにワインをおまかせするわ。楽しみにしておきますわね。」
「はっ、はいっ!」
キャッシャーで「精算をする」と言って聞かない『舌の匠』を、北山と酒井が「お支払いは結構です!」と必死に説得した。
が、しかし、「お黙りっ!あんまりしつこく言うと、次来ないわよ!」と逆ギレされ、強制的に支払いを受けることになってしまった。
結局、開封された貴重なワインは、その時店にいた客に少しずつ振る舞われ、残ったわずかを閉店時間後に5人で分けて飲むことになった。
「あ、うめぇ!なんだコレ?!ヘンなエグみもないし、すっげ飲みやすいわ。」
「ホントだ!ちょびっとしか量がないのに、香りがぶわっと口の中に広がったよぉ〜!」
「ああ、うまいな。親父が残してくれたワイン、記憶と舌に刻んでおくよ。」
「俺も、ゼッタイに忘れない・・・ゼッタイに・・・」
旨さに感嘆する者、喜びや安堵を改めて噛み締める者・・・
それぞれの表情を、北山はワインの味とともに記憶に焼きつけたのだった。