北山は思わず目を見開いた。
氷を詰めたバケツ状のワインクーラーに収められているのは、『レ・ペティ・ソム・デ・ランジュ』のボトルではない。
しかも・・・
「お客さま、大変お待たせいたしました。」
今まで優雅な振る舞いを見せていた『舌の匠』もそのワインを見て唖然としていたが、すぐにわなわなと手を震わせた。
「あなた!客を・・・わたくしをなめてらっしゃるんじゃなくて?!」
『舌の匠』の怒鳴り声に一瞬ビクリと体を揺らせた安岡だったが、淡々と作業を続ける。
いつもの段取りどおりにラベルを『舌の匠』に見せるように手に持った。
『舌の匠』が怒るのも無理はない。
安岡が運んできたワインのラベルは手書きで、子供の字で「ぼくのたんじょうびワイン」「サンク・クレ」「さかいゆうじ」と書いてあるのだ。
スペースの空いた部分には、アニメのキャラクターも描かれている。
「さっきオーナーの話を聞いたんです。と言いましても、きたや・・・当店のメートル・ド・テルからの又聞きなんですが。
先代のオーナーが言ったそうです、『価値や値段は関係ない、記念日に開けるワインが自分にとっての最高級であり、希少価値である。』と。」
安岡は語りながらオープナーを器用に操り、「ぼくのおたんじょうびワイン」の封を開けた。
「このワインは、先代が大切に保管していた、この世に1本しかない宝物・・・この店にとっての最高級ワインなのです。
『レ・ペティ・ソム・デ・ランジュ』なんて、目じゃないです。では、お客さま、テイスティングを・・・」
「あなたっ!わたくしをバカにするのも、いい加減になさい!わたくしはね、そのような安物、飲みたくないの!」
安岡は怒鳴られながらも仕事をやめない。
ホストテイスティング用のグラスに少量注いで、客の前にそっと置いた。
「何なの、この店は!責任者呼んでらっしゃい!責任者!」
興奮した『舌の匠』は、ノドが渇いたのか安岡が勧めた「ぼくのおたんじょうびワイン」を色や薫りをチェックすることなく一気にグイッと飲み干し、そして立ち上がった。