「・・・親父が他界する間際に俺に言ったんだ。『レ・ペティ・ソム・デ・ランジュを注文する客が来るまで、今から言うことを覚えていてくれ。』ってな。」
北山は、酒井のコトバに黙って耳を傾けている。
「『やれ最高級だ、希少価値だ・・・人間はそんなコトバに弱い。けれど実際、それがどれだけのものなのか。
例えばお前の誕生日に、平穏無事にこの1年を過ごすことができた幸せ・・・それを祝うために開けるワインは格別だ。
ワインの値段や価値は関係ない、一家団欒で囲む食卓で開けたワインが俺にとっての最高級であり、希少価値なんだ。』
・・・って、親父が、な。・・・まぁ、俺にとってはくすぐったいだけのコトバだがな、なかなか親父もいいコトを言うなと思ったよ。」
「・・・はい。」
「安岡に伝えてやってくれ。・・・頑張れ。好きにしてくれていい。何も恐れなくていい。
俺たちは・・・ほら、閉店の憂き目も乗りきったじゃないか。一度の失敗が何だって言うんだ。
ダメだったらダメでまた、イチから頑張ればいいだけの話だ。この店が最高級になるために、な?」
「わかりました・・・伝えます。」
「俺もこれが一段落したら、店の方へ顔を出すよ。」
酒井は残りわずかとなった書類を持って北山に振って見せると、再びパソコンのキーを叩き始めた。
ちょうど時を同じくして、安岡は例のワイン研究家『舌の匠』と対峙していた。
厨房を出る前に拭ったはずの汗が、また額に滲み始める。
「ソムリエの、安岡です・・・。こちらがお飲み物メニューとなります。」
『舌の匠』は、安岡に一瞥をくれた後、メニューを手にして、ゆっくりと目を通していく。
「なるほど、ねぇ・・・なかなかいい品揃えねぇ。」
「恐れ入ります・・・」
「ワインの入荷は、あなたが?」
「現在はわたくしが担当しておりますが・・・先代のオーナーが買い揃えたコレクションも、数多く残っております・・・」
「・・・そう・・・」
パタン、とメニューを閉じた『舌の匠』は、再び顔を上げた。
「この店には『レ・ペティ・ソム・デ・ランジュ』があるらしいわね・・・『レ・ペティ・ソム・デ・ランジュ』と、それに合う料理、あなたがチョイスしてくれないかしら?」
「っ、あ・・・あの、オーナーからは『レ・ペティ・ソム・デ・ランジュ』があると聞いているんですが、それがどこを探しても見当たらなくて・・・」
「そう・・・随分ずさんな管理体制なのね・・・」
「っ、も、申し訳ございませんっ・・・」
「じゃあ『レ・ペティ・ソム・デ・ランジュ』に近いワイン、適当に見つくろってくださるかしら?」
「・・・か、畏まりました・・・お待ちくださいませ。」
安岡は一礼し、『舌の匠』の元を離れた。