厨房の脇の廊下を突っ切って階段を上がったところに、事務所兼ロッカールーム兼オーナー室となる部屋がある。
そこのドアをノックすると、「は〜い。」という間延びする返事が聞こえてきた。
この部屋だけは、店内の緊張感からかけ離れた空間になっているのだ。
北山が「失礼します」と一声かけてドアを開くと、パソコンで経理データを黙々と打ち込んでいる酒井の姿が目に入った。
「どうしました〜?業務時間内に来るとは、これまた珍しい。」
酒井は、書類とモニターから視線を逸らすことなく北山に尋ねる。
「・・・今、お客さまとして『舌の匠』がいらっしゃってます。」
北山の言葉に「へぇ〜、『舌の匠』がね〜」と言った酒井は、デスクの上に置いていたコーヒーカップを口に運び、すぐに「ブッ」とモニターにコーヒーを噴き出した。
「し、『舌の匠』?!あ、アレか、あのオカマみたいなヤツか、え?!」
北山は、さっきも似たようなリアクションを見たな、などと思いながら、「えぇ」とだけ答えた。
「『舌の匠』は『レ・ペティ・ソム・デ・ランジュ』を飲みたい、とおっしゃってます。」
「『レ・ペティ・ソム・デ・ランジュ』、かぁ・・・」
「ええ。しかし安岡さんが言うには、ワインセラーにそれらしきワインが見当たらないそうなんです。
代わりのワインを出そうにも『レ・ペティ・ソム・デ・ランジュ』を飲んだことがなく味の見当がつかない、と
かなり戸惑っているみたいです。」
「そうか・・・俺はワインについて詳しくないのだが、『レ・ペティ・ソム・デ・ランジュ』なら知っているぞ。
親父がそれを手に入れた時、年甲斐もなく
はしゃいでいたからな。・・・しかし、それが見当たらない、と。そういうことか?」
酒井はモニターに飛び散ったコーヒーを拭き取りながら北山に尋ねた。
「はい、そうです。・・・恐らく『舌の匠』は、品薄でソムリエの飲んだことがないであろうワインをわざとオーダーし、この店を試しているのだと思います。
もし今回の対応がまずいものであれば、ご自身の連載ページにおもしろおかしく書いてしまうでしょう。もしそうなったら、」
「北山。」
今の危機的状況を懸命に説明しようとする北山の言葉を、突然酒井が遮った。
「・・・はい。」
「安岡に今からする話を伝えてくれないか?」
「・・・何でしょう?」
酒井は拭う手をようやく止め、目の前に立つ北山を見上げた。