::世界冥作劇場::
人魚姫
3

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 さて、かくして拾われ者の少年は、スタンたっての希望によって、スタンと生活を同じくすることとなりました。
 ディムロスの同僚であり、また少年を診察した医師であるアトワイトによれば、どうやら少年は声以外に記憶も失っているようです。
 身元に繋がるようなことを聞いても答えらしい答えは得られず、ただ頭を押さえて苦しげに呻くだけ。
 その、あまりの苦しみようといったら、見ているこちらの心臓が潰れそうなほど深刻でした。
 なにか、精神的なショックがかれから声と記憶、そして足の力を奪ったのだろう。
 足はともかくとして、声と記憶にたいして、自分にできることは少ない。
 あとは時間が解決してくれるのを待つくらいしか……と自分の力不足を嘆くように、アトワイトは顔を曇らせました。
 スタンは少年をことさら不憫に思いました。


 いま、少年のまわりを取り囲むのは、知らぬ景色。聞こえるのは知らぬ言葉。
 自分さえわからぬ場所になげこまれ、それはどれほど心細く、不安なことでしょう。
 きっと一人で真っ暗な海の底に放りこまれるよりも恐ろしいことです。
 スタンなど、想像しただけでおそろしくて体が震えてしまいます。
 なのに少年はただの一度も泣いたりしません。
 不安そうなそぶりも、いっさいみたことがありません。
 でもそれはきっと、スタンが知らないだけ。
 スタンが見ていないところで、こっそり泣くことがあったかもしれません。
 しかし少年は人に弱みを見せることをよしとしないのか、少なくともスタンにはただの一度も弱気な顔を見せたことがありません。
 なんて強い人なんだろう、とスタンは少年をますます尊敬しました。






「ほら、ここが市場だ!」
 スタンは隣の少年に満面の笑みをむけました。

 時間はお昼をちょっと過ぎた頃。
 いつもならばこの時間、少年は庭で歩行訓練か、あるいは居間でこのお国の言葉を勉強している頃合いです。
 しかし、いつも訓練か勉強では気がふさいでしまいます。
 しかも、今日はとってもよいお天気。
 気温は暑過ぎも寒過ぎもせず、ちょうどよい具合。
 さわやかに吹く風に運ばれて、花やくだものの甘い香りがあたりに漂います。
 こんないいお日和に家にこもったままなんて! ともったいなく思ったスタンは、特別にアトワイトから外へ出る許可を貰ったのでした。
 とうぜん、スタンも護衛としていっしょです。
 なにせ、ずいぶん元気になって言葉もすこしは覚えたとはいえ、少年はまだまだ声がでませんし、杖がないと歩くことさえ危なっかしいのです。
 スタンは、以前お国の王子様の警護をしたときとおなじくらい、大ハリキリでおともを申し出ました。



 そして、やってきたのは街の中心、市場です。



 今日は休日であるためか、大通りはたくさんの人たちが思い思いにうららかな午後を楽しんでいました。
 市場の入り口、煉瓦造りの道の脇に植えられたお花が、風にそよいで、首をふりふり。
 まるでスタンたちの訪れを歓迎しているかのようです。
「はぐれないように手を繋いどこう。
 さ、エミリオ」
 スタンは少年の、杖を持っていない方の手をすい、ととります。
 エミリオ、と呼ばれた少年はほんのすこし、戸惑うように眉間にシワを寄せましたが、それもほんの一瞬。
 素直にスタンを手を握り返しました。





 エミリオ、とは、スタンがつけた少年の仮の名前。
 いっしょに暮らすようになってしばらく経って、いつまでも「君」では不便だからと、少年といっしょに決めた名前です。
 名前を決めよう、となったときのスタンのハリキリようといったらそれはそれはたいへんなものでした。
 スタンは、このために、うまれてはじめてお城の図書館へ足を踏みいれたほどです。
 でも、わざわざ分厚い辞典を、それも三冊も借りる必要はありませんでした。


 勉強が終わったころあい。
 机を挟んで向かい合った二人の間。
 一番最初の辞典のページをパッ、と開いた瞬間目に飛びこんだ「エミリオ」の名に、スタンは、これだ! とひらめきました。
 エミリオ。
 エミリオ。
 エミリオ!
 少年のお顔と辞典を見くらべて。
 辞典の中の、ほかの名前とも見くらべて。
 なんども、なんども、名前を口のなかで言いくらべて。
 そうすればするほど、これ以上少年にぴったりな名前はないように、スタンには思えました。



 ――――いえ、じつはたったひとつ。



 これ以上にしっくりくる名前があるように思うのですが、なぜかスタンにはそれが浮かびませんでした。

 少年に――いちばんじゃないけれど――ぴったりの名前。


「――――うんッ、エミリオ!
 すごく、君にぴったりの名前じゃないか!?」
 きっと少年も気にいるはず。
 ウキウキと「エミリオ」の名前を指差したスタンでしたが、しかし、そのいきおいはすぐにしおれてしまいました。
「エミリオ」の名前を耳にした少年は、なぜか固まったまま、大きく見張った目でスタンをジィっと見ているのです。
 青い、青い、海のように青い顔色で、ジィっと。
 まるでおばけにでもあったかのような恐ろしげな顔色に、スタンはハッとしました。
 もしかしたら、「エミリオ」という名前は少年にとって、イヤな名前なのかもしれない。
 こんなに青ざめているのだもの。
 ひょっとしたら、言葉を離せなくなった原因が、この「エミリオ」という人物なのかもしれない。
 そこまで考えて、スタンの顔もまっさおになりました。
 知らなかったとはいえ、少年を傷つけてしまった。
 それが恥ずかしくて、情けなくて……。
「ご、ごめん! やっぱり、べつの名前に……!?」
 スタンはすぐさま、問題の名前がのっているページをめくって隠そうとします。
 けれど、スッ、と白いものがおもしのようにページのうえに置かれました。
 白いもの。
 それは、少年の手でした。
 少年は細くて小さな手を本の間に挟むと、例の「エミリオ」の文字を指先でなぞります。



 『これがいい』



 小さく動いたくちびるは、声こそだせないにせよ、そう言っているようにスタンには思えました。
 青ざめた顔は、少しずつもとの顔色を取り戻しているように見えますが、けれどもやっぱりまだよくはありません。
 スタンは、きっと少年が気をつかっているのだと思いました。
「だ、だめだ、やっぱり!
 だって、そんなに青い顔して……」
 『これが、いい』
「ッ!」
 思い直すよう言いつのるスタンは、おもわず次の言葉を呑みこみました。
 くちびるが動いた拍子の錯覚かもしれませんが、少年が――いつも感情らしい感情をみせない少年が――わずかに、顔をほころばせたように見えたのです。
 変化は淡く、短いものでした。
 けれど、スタンにはそのかすかな笑みが、とても美しいものに。
 かつてディムロスに連れられて生れてはじめて足を踏み入れた大聖堂の、朝日こぼすステンドグラスとおなじぐらい尊いものに思えました。
 スタンはぎゅぅっと、締めつけられる胸を、服の上から抑えます。
 胸に満ちる、むずがゆくて、せつなくて、やさしい想い。
 出逢ったあの日、少年の前にひざまずいたときにわきあがったあの想いとおなじ、いえ、もっとつよいモノ。
(――――ぜったい、ぜったいこのこを助けよう。
 ぜったい、ぶじに家に帰してあげよう。
 ぜったいに……)



 "このこを守ろう"



 想いは、ふたたびスタンの胸に決意となって刻まれました。

「――――よし」
 スタンは頬にたまった熱を散らすように深呼吸すると、あらためて少年に向き直りました。
 視界には、少年の花の貌。
 紫水晶の瞳にうつるスタンじぶんの、イヤにまじめな顔にふきだしてしまわぬよう、ことさらキリリと表情を引きしめると、スタンはひざの上においたこぶしをギュッと握りました。


「君がほんとうの名前を思いだすまで。
 君が君を取り戻す、その日まで。





 あらためて、よろしく、"エミリオ"」








「なあ、エミリオ。
 そろそろ、休もうか」

 スタンたちが市場にはいって、もう十五分。
 今日、はじめて家から出たエミリオを気づかい、スタンは公園で休憩を取ることにしました。
 やはり、すこし疲れていたのでしょう。
 エミリオはベンチに座ると、ポケットからハンカチを取りだし、額にうっすら浮かぶ汗を拭います。
 ほぅ、と吐息をつく姿に、公園のあちこちからおなじようなため息が聞こえました。
 公園中のだれもが、エミリオにうっとりとした視線を送っています。
 それもあたりまえだな、とスタンは思いました。


 なんせ、エミリオはこれまでスタンが見たなかで、いちばんきれいな人なのです。
 目も鼻も唇も耳も爪先さえも、神様が、ひとつひとつ心血注いで特別に創ったとしか思えないぐらい整っています。
 きっとお店の看板娘だって、酒場の歌姫だって、いいえ、大貴族のお姫様だってエミリオの美しさにはかなわないでしょう。
 額に浮かぶ汗さえ、まるで真珠のように輝いてみえます。
 エミリオが一息ついているあいだに、スタンはカバンからノートと、さっきお店で買ったお茶をとりだすと、ベンチに並んでこしかけました。
 ノートは、エミリオとの筆談につかうものです。
 エミリオといっしょに暮らすようになって一ヶ月。
 勉強の成果か、いまではエミリオはかんたんな筆談ならできるようになりました。
 おかげでアトワイトも、さいしょにくらべればずいぶん診察がラクになったといっていましたが、それでもやはり、まだまだエミリオの声も記憶ももどらぬまま。
 ムリに訊きだそうとすれば、頭痛に襲われるらしく、はじめのころは何度も診察が中断されました。



(たしかに記憶を取り戻すことは重要だけれど、でも焦りはいちばんの敵だって、アトワイトさんもいってた。
 いまはとにかく、エミリオが元気になることがいちばんだいじだ)
 医療晶術にあかるくないスタンにできることは限られています。
 その限られたなかから、なにがエミリオにとってよいことなのか。なにがエミリオにとってのしあわせなのか。
 できることは限られていても、考えることはやまほどあるのです。


(ま。いまだいじなのは、なにより休憩だよな!)
「はい、エミリオ、お茶!」
 そう結論づけたスタンは、にっこりわらって、ほどよく冷えたお茶をさしだしました。




 スタンたちがベンチで休憩をはじめて、五分ほど経ったころでしょうか。
 なんだか、公園のなかが騒がしくなってきました。
 ときおり、遠くからキャーと悲鳴のようなものも聞こえます。
 スタンは声の方角に目をむけて、首をかしげました。
 エミリオも書く手をとめて、スタンとおなじほうを見ます。
「なんだろう、あの声。大道芸でもやってるのかな?」
 『そのわりには、ずいぶんようすがおかしいが』
「うん。それになんか、だんだん近づいて……」
 そんなことをふたりが話しあっていた、そのときです。

「どけどけえぇ!! みせもんじゃねえぞ!!」

 なにごとかとざわめく人々のなかから、とつぜん赤ら顔の男がぬぅっと顔を出しました。
 雲つくような大男、とはこんなひとのことを言うのでしょうか。
 二メートルはあろうかという長身に、服がはちきれんばかりに盛りあがった筋肉とそれを覆う脂肪の鎧。
 もじゃもじゃとヒゲの生えた大きな顔は、湯気がたちそうなぐらい真っ赤っかです。
 どうやら顔が赤いのは、お酒に酔っているかららしく、ふらふらとおぼつかないあしどりに、まわりの人ははね飛ばされてはかなわないと、逃げ惑っています。
 しずかな、けれど賑わっていた公園は、いまや危なっかしい騒々しさのなかにありました。
 その様子に、スタンはキッと顔を引き締めるとたちあがります。
 リオンはスタンの袖を引きます。
 『どうするつもりだ?』
「俺、ちょっといって、注意してくるよ」
 『むこうは酔ってる。危険だ』
「へーきだって。それに、俺はこの国を守る兵士なんだ。
 街の人が困ってるのを見過ごせない!」
 それだけ告げると、止めるエミリオのいうこともきかず、スタンはとびだしました。

あとがき

進展したようなしてないような。

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