Recordare,
Jesu pie,
quod sum causa tuae viae,
ne me perdas illa die.
夢を、みた。

最初は夢であることに気付かなかった。
死んだ自分でも夢を見ることがあるのかとふしぎに思い___それが夢ではなく、揺り起こされたたましいの記憶であることをぼんやりと理解した。

けぶるような懐かしさと愛しさと―――あのとてつもない喪失感、、、、、、、、の記憶。

 

 

薄墨色の空のてっぺんから、ちいさな氷の結晶たちが生まれてはこちらに向かって落ちてくる。アレンは白く薄化粧した世界の片隅で、重たい色の雲が幾重かさなり合う空をぼんやりと眺めていた。寒いさむい冬の日。前髪に雪片が音もなく絡まる。いまアレンに寄り添ってくれるものはこの氷雪だけだった。赤くひび割れた指先で触れると消えてしまう、こまかなもの。白い六花ですらアレンを置き去りにしていってしまう。 ふいに、見上げた視界に黒い影が射す。大きな手のひらが目の前に差し出され―――アレンはあんぐりと口を開けて その人 を見返した。それが始まり。それが出会い。気配で大人は笑ったと知れた。霜焼けのひどい手をおずおずと重ねたアレンは、次の瞬間訪れた強い浮遊感に痩せ細ったからだを強張らせたが、やがて、なんともいえないあたたかさにゆるゆると力を抜いていった___合わさった視線、大人の腕の中、服越しに伝わる体温。さびしさに震えるこどもが、すべてを預けてしまうには充分なぬくもりだった。それがはじまり。それが出逢い。こどもは呼んだ___夢のなかで、その人の名を。
ありったけの愛しさを込めて。

―――マナ。




雑踏の中、アレンは養父の後姿を見つけた。駆け寄ろうとして、しかし果たせないことに愕然とした。アレンの両足は地面に縫い付けられてしまったかのように少しも動かない。代わりに声を上げた。名を呼んだ。それでも声はミルク色の空に吸い込まれるばかりで、彼の人を振り返させるには至らなかった。そうしてようやく、アレンはこれがかこであることに気付いたのだ。
色彩を喪失した世界のなかで、マナの黒い外套が所在無さげに揺れていた。彼はこどもの病を治してくれる医者を、薬を求めて走り回っているのだ___アレンは唐突に理解した。
えもいわれぬ気持ちにアレンは自分の胸元の襯衣を握り締めた。このあたりの教会はみな正統派カトリックで、よそ者や流れ者___つまりはマナやアレンみたいな大道芸人なんかには特に冷たかった。マナもアレンも神様を信じてはいたけれど、神様を信じる人たちはふたりを自分たちのなかまとはしてくれないのだ。そんななかでマナは自分の食べ物を買うお金も惜しんで、病床のアレンに出来るだけのことをしようとしてくれていた。アレンはただ申し訳なさでいっぱいになる。愚痴ひとつ零さずに、毎日町に出かけてはアレンのために栄養価の高い(えてしてそれらは値のはるものだ)、食料を手に入れてきてくれた。どんな苦労をしてそれを買い求めてくれたのか、アレンには痛いほどよくわかった。おそらくマナは町でいちばん大きな通りの隅に道化師の格好で立ち、無関心に過ぎ去る人の群れに向かって厭ることなく、辛抱強く芸を披露して、石畳の上に置かれたよれよれのシルクハットの中に気まぐれのように投げ込まれる僅かな銅貨を、すぐに自分より裕福な他人の懐の中へと消えてしまうそれらを、大切に握り締めながら購ってくれたに違いない。
そしてわずかに残った銅貨をコツコツと貯めて、アレンの病に効くかもしれないという薬を、とてつもなく高価なそれを、手に入れようと奔走してくれているのだ。

マナはとある薬屋の前で足を止めた。その姿が店内に消える。かと思うとアレンはマナの背中がすぐ見える場所で、マナと薬屋の店主のやりとりを目の当たりにしていた。
店主は薄汚れたマナの姿を一瞥すると、あからさまに眉を顰めた。 「なんの用だい、」 早く立ち去れという意図をたっぷりとふくませたような訊き方だった。
「くすりを、」 対してマナの声は穏やかだった。
「流行り病に効くという、薬をひとつ、いただけませんか、」
「高いよ、」 店主は云った。マナの埃と塵に汚れてくたびれた服を頭のてっぺんから爪先までじろりと眺めて云った。 「あんた払える金はあるんだろうね、」
マナは首を振ることはせず、静かに問い返した。
「...いくらするのですか、」 「500グロシュ」
黒外套のポケットに突っ込まれたままのマナの手が、ぴくりとうごめくのをアレンは見た。 「...もうすこし、まけてはもらえませんか」
押し殺すような声だった。店主はマナの言葉が聞こえなかったふりをして、ばさりと新聞を広げた。なんてやつなんだ___アレンは憤慨した。客の足元をみるような商売をするなんて。
息の詰まるような沈黙のあと、マナは小さな皮袋を握り締めてポケットから手を出した。銅貨が擦れ合う音は雰囲気に似合わず陽気でさえあった。 「500グロシュ、たしかにあります。くすりを、」
そう云ってカウンターに置かれた銅貨を、新聞の影から伺った店主は、おっくうそうに新聞を畳み、後ろの棚から瓶に詰められた水薬を取り出してマナの前に置いた。
「ありがとう、」
マナは礼儀正しく礼を述べて店を出た。店主からはなんの言葉もなく、ちゃらちゃらと金をかき集める音だけが応えるばかりだった。


通りを歩んでいくマナの足取りは、心なしか軽くなっているようにアレンには見えた。
両手でしっかりと水薬を抱えてマナは歩む。町の外へ外へと。アレンの待つ小屋へと急いで。
細い横の路地から、小さな影が飛び出してきてマナとぶつかるまで、マナの足取りは希望に満ちていた。
「―――あっ」
がしゃん。
マナの足元で、硝子の瓶が派手に割れて散らばった。ぶつかってきた相手は、アレンとそう歳の変わらないだろう男の子だった。尻餅をついて、呆然と割れた瓶を見つめている。
「だいじょうぶかい? ぼうや、」 マナは地面に蹲る子どもを助け起こそうとした。自分を見上げる男の子の顔が、今にも泣き出しそうなのでマナはさらに慌てた。
「...ママのおくすり......」
男の子は大声で泣き始めた。行き交う人々が胡乱げな眼差しでマナを見る。泣き叫ぶ男の子の背をやさしくさすってなんとか宥めようとしながら、マナは砕け散った瓶をじっと見つめた。先程買い求めた瓶とよく似たそれを。
「ママが病気なのかい?」 マナはなるたけ優しい声になるように努めて云った。うん、と男の子は首を縦にふった。
「ママのために、おくすりを買って帰るところだったんだね?」
涙で顔をくしゃくしゃにしながらなんとか頷き返す男の子を前に、マナはしばらくの間じっと押し黙った。傍らには水薬の瓶。地面には粉々になってしまった硝子の破片が、きらきらと光を弾いて輝いていた。ほろほろ と泣きつづける男の子の涙のように。

マナは長いながい溜息をついた。

 

 

 

 

(慈しみ深いイエスよ、あなたがこの世に来られたのは私のためでもあったことを憶えたまえ。その日私を滅ぼしたもうな。)