Judex ergo cum sedebit,
quidquid latet,
apparebit:
Nil inultum remanebit.
ぼくはぼんやりと目の前にそびえ立つ扉を見つめた。のっぺりとした木の向こう、禍々しい闇が渦巻いているのが感じられた。千年伯爵はここのところ研究室に篭りきりだった。たまにぼくの前に姿を現しては、その辺りの人間を適当に殺して来いと命じた。ぼくは主がいなければただの木偶のように、括り糸を失くした人形のようにフラフラとしているか___伯爵様の家族であるというノアの一族の暇潰しに付き合わされているかだった。人間を殺すのにはとても労力を必要としたけれど、たとえ一時であっても喉の渇きを癒し、得体の知れない空腹感を満たすためには必要な事ではあった。
ふいに___人間の気配を感じてぼくは扉から目を離した。ノアではない。それは白く輝くひかりのように感じられた―――その気配を追ってぼくは足を踏み出す。暗い静寂に満たされる廊下を無心に進んでいく。ひかりが強くなる。目の前が拓ける。ぼくは階段を登り、いつのまにか中庭に立っていた。きょろきょろと首を巡らし、人間の姿を捜すが見つからない。たしかに気配はここにあるというのに。ぼくは首を傾げ、中庭で一番大きな木に向かって歩み寄った。
「...おれに何か用か? アクマ」
頭上から降ってきた少年の声に、ぼくはきょとん、として空を振り仰いだ。
木の枝の上に、少年がいた。器用に腰掛け、高みからぼくを見下ろしてくる。その顔に見覚えがあるような気がして___ぼくはぼんやりと思考を巡らせた。たしかブックマンと呼ばれる老人とともに、賓客として伯爵の館に招かれている人物。
「......ハザ、ル?」 ぼくが記憶の片隅から引っ張り出した名を口にすると、少年は驚きに目をまるくした。 「いかにも、おれは
「そのハザルに何か用があるのか? えぇ? アクマの
「......」 「なんだ、だんまりか?」
少年は ふん と鼻を鳴らした。 「お腹でも空いたのかい? それで餌を探しに来たってわけだ。生憎だがおれはお前に大人しく喰われてやるつもりはないぜ、」
枝の上からぼくを見下ろし、ハザルは云った。ただの人間のくせにやけに強気な目をして告げる。ぼくは怯んだ。別に飢えていたわけではない。殺そうと思って近づいたわけでもない。でもそう反論することはできず、ただ俯くことしかできなかった。綺麗に苅り揃えられた庭の芝生の緑が生々しく、鮮やかで目を射った。ふと、その緑青色の視界に茶色い染みがあることに気付いた___実際にはそれは染みではなく、色褪せた表紙の小さな本、
近づいて取り上げると、頭上からからかうように声が降ってきた。 「アクマが神の偉業を拾うとはねぇ...」
ぱらり、 小さな爪のついた指で表紙を開け、ページを捲った。
初めに、神は天地を創造された。そう書かれていた。しかしぼくは字が読めなかったので、書かれている文の意味を知ることは不可能だった。読めもしない書物を、なぜ開いたりしたのか___読めはしなかったが、その内容は知っていた。誰かが毎晩のように語ってくれたからだ。見覚えのある、小さく分厚い本。いつも旅の荷物の一番下にしまわれていたこげ茶色の表紙。黄ばんだ紙は頁を括るたびにかさかさと鳴いた。やさしく大きな手が付けた手垢のあと。語る声、揺れる蝋燭の色、おやすみと囁き___亜麻色の髪が撫でられる、額に触れる唇のやわらかさ。
ああ―――......溜息の零れる、あまい思い出。
押し寄せた白昼夢に幻暈しながら、ぼくは手元を見た。風に遊ばれて頁が捲られていく。おぼろげな記憶のなかにしかない物語。
「...ma...n na...?」
「
「...マナ...ってなに...」
「書いてあるだろう? 神がモーセと哀れな人々に与え給もうた、食糧だ。白く、甘い、ウェファースのような味の―――
「ちがう」 強張った声で遮った。
「違う、マナ は___っ...」
手を引いてくれた。歩む歩幅はいっしょだった。捨てられたぼくに手を差し伸べてくれたひと。おかえり___耳の奥で声が響いた。なつかしくてたまらない響きだった。脳裏に蘇る影。笑んだ口元。この人だという確信___マナ。
そうして目の前に叩きつけられる、
(それゆえ、審判者が席に着くと、隠されていたすべてのことが明るみに出て、何ひとつ罰せられないままではいられないであろう。)