De
profundis
clamavi ad te Domine
Domine,
exaudi
vocem
meam.
___しかして、虚実は露呈する。
アレンが、子どもの薄く小さな肩が、深々と下がっていくのをリナリーとラビは見た。長い溜息をついた後、石畳の道に無機質な靴音が響き、アレンは敵と対峙したままのふたりの間を躊躇うことなくすり抜けていく。
「...裏切るんか、」 ラビが呟いた。
「俺たちを裏切るのか!? アレン!」
「裏切る...?」 わけがわからない、そう云った感じの声音だった。「僕は貴方たちの仲間になった覚えはありませんよ、」
背を向けられたまま発せられたその言葉に、ラビもリナリーも愕然とする。アレンはそうして数歩、礼装に身を包んだ長身の男の元へと歩み寄り足を止めた。数体のアクマを従える、人間であるはずの敵がシルクハットの影からアレンを睥睨する。
その視線に合わせたかのように、白い色が下へと落ちた。アレンは男に頭を垂れた。貴人への礼。いつものアレンの紳士的な所作そのままに、リナリーとラビの敵に彼が礼を示している。ことばを失くして、若いエクソシストのふたりは立ち尽くした。
アレンを見下ろしていた男は―――それは情報として聞いていた、エクソシストの元帥を殺したというノアの一族の特徴をいやというほどにもつ二人の敵だった―――満足そうに口元を歪めてみせた。酷薄な笑みとはまさに今その男が顔に貼り付かせているものに他ならない。姿勢を正したアレンに向かって、ノアの男は云った。 「千年公の愛すべき人形であるお前が、よもや俺たちを裏切るとは思えないが―――エクソシストと行動を共にしてたっていうのは、感心しないな。お前のことだから、何か考えあってのことだろう。この件は不問にしてやる___だから、アレン?」
両目をつむってノアは命じた。 「 殺せ。 」
殺気が、リナリーとラビに容赦なく吹き付ける。ラビは汗で滑る手で槌を握り直し、呆然としたまま動けないリナリーを庇うように彼女の前に立った。
「Yes or No ?」
「...拝命いたしました、サー」 右手を胸において、アレンはゆっくりと目礼した。
白皙の面がラビの方をゆっくりと振り向いた。アレンの呪われた左眼。紅く引き攣れる逆五芒星が、妙に際立って輝いているように見えた。ラビは勘の告げるままに右方へと跳ぶ。
足を再び地に着ける頃には、ラビの立っていた場所に大量の 杭 が突き立っていた。
「...なかなかイイ反応ですね、ラビ」 アレンは満足げに笑った。「でもそのまま逃げてていいの? リナリーが、狙われちゃうよ?」
す、 と真正面に左腕を掲げたまま、アレンの皮手袋に包まれた黒い指先が踊った。リナリーに駆け寄り引き立てようとするラビの動きを牽制して、アレンは力を揮った。
「くそ...っ!」
中空から、雨のように気弾がラビを襲い、彼はそれを避けるので精一杯だった。イノセンスを第2開放させる余裕は与えてくれそうにない。その上リナリーからは引き離される一方で、ラビは奥歯を噛み締めた。腕組みをしてすっかり見物を決め込んでいるノアの後ろで、アクマたちがやいやいと囃したてている。いっけー子爵様! ブッ殺されろエクソシスト!
メスをやっちまえ! アクマの言にアレンの視線がちらりと蹲ったままの少女に移った。ラビが戦慄する。
「...っ、立て! リナリー!!!」
アレンがその小さな両手を合わせ、左右に引き放ったときには、手のひらの中にしなやかに、それでいて鋭く翻る鋼の鞭が現れて、無防備な少女を一直線に狙っていた。
信じられない、リナリーの頭にあるのはそれだけだった。信じられない。アレン君が最初からわたしたちの敵だったなんて。
寂しそうで儚そうでそれでも優しいアレンは何処にいってしまったのだろう。ラビを攻撃し続けるあの子どもはいったい 誰 なのだろう―――
認めたくない、認めたくない、認めたくなんてなかったのに。
アレンの攻撃の矛先が自分に向けられても、リナリーはその場から立ち上がることすらできなかった。動けない自分を庇うために、ラビが―――
「...ラ ビ、」
呼んでも返事がない。リナリーの手が届くすぐ傍で、ラビが血だらけになって倒れている。自分を庇って。アレンに攻撃されて。
どうして、 リナリーが引き攣ったまま喉を震わせた。
「どうして? 貴女と僕が敵同士だからですよ、リナリー」 アレンが答えた。
「リナリーがエクソシストで、僕が伯爵様の 下僕 だからですよ」
リナリーは下唇を噛み締めた。ぶつりと薄い皮膚が破れた感触があったが、そんなことは気にはならなかった。ゆるせない。リナリーは胸の裡で呟いた。
「...あらら。そろそろ終幕かな。なァ、アレン?」 「そのようです、ティキ・ミック卿」つまらなそうなノアの声に、感情を感じさせない声でアレンが応じた。
「意外とあっけないな。エクソシストならもうちょっと楽しめるかと思ったのに。」
心底残念そうに男が云った。詰まらない見世物だ、彼はそう云って踵を返した。 「じゃあな、アレン。俺は仕事を片付けにいくから、」
肩越しにひらひらと手を振って、ノアは去って行く。ちゃんと始末したかどうか、後で報告をくれよと云い残して。
その場に置き去りにされた数体のアクマが、わらわらとアレンの傍に群がって強請り始める。
子爵様、子爵様、オレ達にも殺させて。節さえ付けてそう云い募るアクマ達に、アレンはにっこりと微笑んだ。 「お前たちにやれるものなら、やって御覧」
自らの統率者であるアレンからの お許し にアクマ達は狂喜して、我先にとばかりにエクソシストに襲い掛かる。
そのうちの一体を、リナリーは容赦なく黒い靴 で砕き落とした。一瞬の早業を、目にすることのできたものは少なかったろう。慌てて距離を取り、自分とラビを包囲したアクマ達にリナリーは怒りの眼を向けた。
「...許さないわ、」 リナリーが零した。地を蹴り俊足でアレンに迫ろうとするリナリーを、アクマが遮る。
「どきなさい!!!」
怒りを迸らせ叫ぶ少女は、行く手を阻むアクマも一蹴して破壊しアレンに肉薄した。過ぎ去っていく視界の隅で千年伯爵の呪縛から魂が解き放たれて逝くのが見えた。アレンの左眼の能力。忌まわしいちから。
「そんなもの見たくなかった!!」 リナリーが叫ぶ。彼女の指が、アレンの白いシャツの襟を捕えて引き倒した。地面に小さな子どもの身体を叩きつけ、半ば馬乗りになりながらリナリーはアレンを睨みつけた。アレンの瞳は、見知った モリオン の色ではなく、初めて見る銀灰色をしていた。その色は、朝日に輝く湖のように、静謐で、感情のまったく見えない忌々しい色だった。
「...わたしたちを、騙したのね、」
「そうです」
「最初から、狙って近づいてきたのね、」
「そうです」
「最初から、ぜんぶ、うそだったのね!」
「...そうです」
「―――っ!」 怒りで顔を赤く染めたリナリーが、アレンの頬を打とうと右手を振りかざしたそのとき、下からアレンが短く呟いた。 「うしろ」
もう一体、アクマが残っていたことを思い出したリナリーは、しまった___と奥歯を噛み締めた。アレンが口元に笑みを浮かべている。いつの間にか、彼に腕をしっかりと捕まえられていた。逃げられない―――死の恐怖を感じながらも、リナリーは敢えて背後を振り返った。目前に迫るアクマ。ああ、にいさん___
「伏せるさっ! リナリー!」
突如飛ばされた指示に、リナリーは驚きつつも従った。腕で顔を庇い、半ば捻った身体に、アクマの破片がパラパラと霰のように当たるのを彼女は団服越しに知覚した。
「ラビ! 無事で―――
声を掛けようとしたリナリーの言葉は、中途半端なまま遮られた。
突如視界を白い霧に覆われて_ラビは巨大化させたイノセンスを油断無く構えた。 「リナリー! 無事か?!」 姿の見えない仲間にそう呼びかけると、焦ったような少女の声が返ってきた。
「ラビ! “敵”が消えたわ!」
敵_アレンのことだ。ラビは唾を飲み込んだ。
ラビ、槌を―――何処かにいるはずのリナリーの声が、不自然に途切れて消えた。いやな予感がラビの脳裏を駆け巡る。おい! そう叫んで、その叫びが自分の耳に届かなかったことに、ラビは愕然とした。
(聴覚を―――奪われた?)
試しに地面を足で擦ってみるが、やはりその音は聞こえなかった。霧の効果か、まずいさ―――ラビのこめかみの辺りを汗が伝った。敵は同士討ちを狙っているのか、はたまた別の目的があるのか、と思考を巡らす。極度の緊張に追い込んでの精神的消耗を狙うつもりなのか。
「嫌な戦い方さね、」 聞こえないとはわかっていながらも、ラビはそう口にした。
「...そうですか? 僕は便利で、気に入ってますけど」
肩に、そっと触れる、子どもの手。
「...っ、これじゃあ、意味ないんじゃないの?」 相変わらず自分の言葉は耳に届かないのに、アレンのボーイソプラノだけは耳元で。ラビはぎゅっと槌を握り締めた。反撃するチャンス。絶対にあるはず―――
「しーっ、静かに。アクマは貴方たちに倒されちゃったけれど、まだ盗み見されてるんですよ。僕もほんとう、信用がないんだから」 アレンがくすくすと笑う。
「貴方たちと内緒話をするために、こうさせてもらいました」 「...話? 敵とする話なんてねぇだろ」
「随分と、嫌われたみたいですね、僕も」 何故だか寂しそうにアレンは云った。莫迦な!とラビは思う。裏切ったのは奴の方だ。寂しいと感じるなんてどうかしてる。
「ラビと僕は、なんとなく近いんじゃないかな_なんて思ってたのに。 ねぇブックマン・ジュニア? 仲間のふりしてエクソシストの中に紛れ込んでるのってどんな気分?」
「......」
「なんで知ってるんだ、って表情してる」 アレンはラビの耳元で可笑しそうに笑った。 「そりゃあ知っていますよ。だって貴方の3代前のブックマンは伯爵側にいたんだもの。僕はもうその時生まれてたんですよ、ラビ。」
「...なん、だって―――?」 3代前のブックマン。12歳前後の姿のアレン。計算が合わない。無茶苦茶すぎる。
「僕の正体は...ブックマンの知識を持ってる貴方ならたやすく辿り着くはずだ...ラビ。楽しみにしてますよ...貴方が真にブックマンを受け継いで、僕の前に立ってくれる日を。それまで、さようなら」
肩から重みが消える。ラビは背後を振り仰いだ。そこには青空があるばかりだ。
「待てよ―――っ!」
誰もいない空間への叫びは、存外に大きい音としてラビの耳に届いた。音が戻っていることに気付いたラビが周りを見回すと、立ちこめていた白い霧もすっかりと晴れていた。ただ不可解な事といえば、街並みがまったく別のものになっている点だった。どうやら先程戦闘になった場所とは違うところへ送られたらしい。
その見慣れない街並みのなかに、数歩しか離れていない距離にリナリーが立っていた。二人とも無事らしい―――殺せと命じられたアレンが何故自分たちを見逃したかは、本人に問いたださない限り理由はしれないだろう。
目の前に立つ少女は顔を俯けて、ぎゅっと拳を握っていた。その左胸からローズクロスが消えているのにラビは気付いて、自分の胸元も見下ろしてみた。やはり十字架は消えていて、おそらくアレンによって奪われたのだろうと推察した。
「リナリー、大丈夫か?」 ラビは恐る恐る声を掛けた。彼女の姿が泣いているように見えたからだ。
「...だいじょうぶよ、」 返ってきたのは意外に強い声音だった。
「わたしは大丈夫。ラビは?」
「ああ、うん、オレも へーき さ」 リナリーを庇った傷は、実際のところたいしたものではなかった。こめかみを切ったから、出血量は多かったが、それも止まりつつある。
「...霧の中で、アレン君の声がしたわ」 ラビはぎくりとした。先程の会話を、聞かれていた? だがリナリーが続いて話した内容によると、どうやらアレンはリナリーとラビの二人に同時に違う話をしていたようだとわかり、ラビはほっと胸を撫で下ろした。
「許せないのなら―――追って来いって。もっと強くなって、辿り着いてほしい...そんなことを云ってたわ。莫迦にして!」 リナリーが叫ぶ。
ラビはようやく彼女が怒りに震えているのだと理解した。顔を上げたリナリーは、怒りのために顔を赤く染めてはいたが、その目元は潤んでいた。
「...わたしたちを莫迦にして! ぜったいに許さない!」
「リナリー...」
「あの子の目的も正体も、なにもかも暴いてやるわ」 少女はすっかり切れてぼろぼろな唇をさらに噛んで云った。 「白のヴァイカントだか___わけわかんないことばかり...」 「、...ちょ、待てリナリー。なんつった?」
ラビが焦ったように聞き返した。 「いまなんて...?」
「ヴァイカントよ。...アレン君が自分でそう云ったの。“僕は白の子爵 、悪性兵器のレリウーリア、千年伯爵のトップクオリティ・プロダクト―――”」
先程のアレンの言葉がラビの脳裏に蘇る。背筋の凍る思いとはまさにこのことだ。
「ノアが連れてたアクマ達も、確かそんな呼び方をしていたわ。子爵様ってしきりに―――ラビ、あなたなにか知ってるの?」
それは、ラビは云い淀んだ。師からは口を酸っぱく、耳にタコができるほどに云われている。ブックマンの情報は、ブックマンしか口外してはならない___ラビはまだその資格を持たない。だが。
「...リナリー、オレらひょっとしてとんでもないのに目ェ付けられたのかもしんねぇさ...」 引きつりながらラビは云った。リナリーが怪訝な視線を寄越してくる。
「アイツ、アレン・ウォーカーは200年近く生き延びてる最初にして最強 の AKUMA だ。」
† † †
アレンが、子どもの薄く小さな肩が、深々と下がっていくのをリナリーとラビは見た。長い溜息をついた後、石畳の道に無機質な靴音が響き、アレンは敵と対峙したままのふたりの間を躊躇うことなくすり抜けていく。
「...裏切るんか、」 ラビが呟いた。
「俺たちを裏切るのか!? アレン!」
「裏切る...?」 わけがわからない、そう云った感じの声音だった。「僕は貴方たちの仲間になった覚えはありませんよ、」
背を向けられたまま発せられたその言葉に、ラビもリナリーも愕然とする。アレンはそうして数歩、礼装に身を包んだ長身の男の元へと歩み寄り足を止めた。数体のアクマを従える、人間であるはずの敵がシルクハットの影からアレンを睥睨する。
その視線に合わせたかのように、白い色が下へと落ちた。アレンは男に頭を垂れた。貴人への礼。いつものアレンの紳士的な所作そのままに、リナリーとラビの敵に彼が礼を示している。ことばを失くして、若いエクソシストのふたりは立ち尽くした。
アレンを見下ろしていた男は―――それは情報として聞いていた、エクソシストの元帥を殺したというノアの一族の特徴をいやというほどにもつ二人の敵だった―――満足そうに口元を歪めてみせた。酷薄な笑みとはまさに今その男が顔に貼り付かせているものに他ならない。姿勢を正したアレンに向かって、ノアの男は云った。 「千年公の愛すべき人形であるお前が、よもや俺たちを裏切るとは思えないが―――エクソシストと行動を共にしてたっていうのは、感心しないな。お前のことだから、何か考えあってのことだろう。この件は不問にしてやる___だから、アレン?」
両目をつむってノアは命じた。 「 殺せ。 」
殺気が、リナリーとラビに容赦なく吹き付ける。ラビは汗で滑る手で槌を握り直し、呆然としたまま動けないリナリーを庇うように彼女の前に立った。
「
「...拝命いたしました、サー」 右手を胸において、アレンはゆっくりと目礼した。
白皙の面がラビの方をゆっくりと振り向いた。アレンの呪われた左眼。紅く引き攣れる逆五芒星が、妙に際立って輝いているように見えた。ラビは勘の告げるままに右方へと跳ぶ。
足を再び地に着ける頃には、ラビの立っていた場所に大量の 杭 が突き立っていた。
「...なかなかイイ反応ですね、ラビ」 アレンは満足げに笑った。「でもそのまま逃げてていいの? リナリーが、狙われちゃうよ?」
す、 と真正面に左腕を掲げたまま、アレンの皮手袋に包まれた黒い指先が踊った。リナリーに駆け寄り引き立てようとするラビの動きを牽制して、アレンは力を揮った。
「くそ...っ!」
中空から、雨のように気弾がラビを襲い、彼はそれを避けるので精一杯だった。イノセンスを第2開放させる余裕は与えてくれそうにない。その上リナリーからは引き離される一方で、ラビは奥歯を噛み締めた。腕組みをしてすっかり見物を決め込んでいるノアの後ろで、アクマたちがやいやいと囃したてている。いっけー子爵様! ブッ殺されろエクソシスト!
メスをやっちまえ! アクマの言にアレンの視線がちらりと蹲ったままの少女に移った。ラビが戦慄する。
「...っ、立て! リナリー!!!」
アレンがその小さな両手を合わせ、左右に引き放ったときには、手のひらの中にしなやかに、それでいて鋭く翻る鋼の鞭が現れて、無防備な少女を一直線に狙っていた。
† † †
信じられない、リナリーの頭にあるのはそれだけだった。信じられない。アレン君が最初からわたしたちの敵だったなんて。
寂しそうで儚そうでそれでも優しいアレンは何処にいってしまったのだろう。ラビを攻撃し続けるあの子どもはいったい 誰 なのだろう―――
認めたくない、認めたくない、認めたくなんてなかったのに。
アレンの攻撃の矛先が自分に向けられても、リナリーはその場から立ち上がることすらできなかった。動けない自分を庇うために、ラビが―――
「...ラ ビ、」
呼んでも返事がない。リナリーの手が届くすぐ傍で、ラビが血だらけになって倒れている。自分を庇って。アレンに攻撃されて。
どうして、 リナリーが引き攣ったまま喉を震わせた。
「どうして? 貴女と僕が敵同士だからですよ、リナリー」 アレンが答えた。
「リナリーがエクソシストで、僕が伯爵様の 下僕 だからですよ」
リナリーは下唇を噛み締めた。ぶつりと薄い皮膚が破れた感触があったが、そんなことは気にはならなかった。ゆるせない。リナリーは胸の裡で呟いた。
「...あらら。そろそろ終幕かな。なァ、アレン?」 「そのようです、ティキ・ミック卿」つまらなそうなノアの声に、感情を感じさせない声でアレンが応じた。
「意外とあっけないな。エクソシストならもうちょっと楽しめるかと思ったのに。」
心底残念そうに男が云った。詰まらない見世物だ、彼はそう云って踵を返した。 「じゃあな、アレン。俺は仕事を片付けにいくから、」
肩越しにひらひらと手を振って、ノアは去って行く。ちゃんと始末したかどうか、後で報告をくれよと云い残して。
その場に置き去りにされた数体のアクマが、わらわらとアレンの傍に群がって強請り始める。
子爵様、子爵様、オレ達にも殺させて。節さえ付けてそう云い募るアクマ達に、アレンはにっこりと微笑んだ。 「お前たちにやれるものなら、やって御覧」
自らの統率者であるアレンからの お許し にアクマ達は狂喜して、我先にとばかりにエクソシストに襲い掛かる。
そのうちの一体を、リナリーは容赦なく
「...許さないわ、」 リナリーが零した。地を蹴り俊足でアレンに迫ろうとするリナリーを、アクマが遮る。
「どきなさい!!!」
怒りを迸らせ叫ぶ少女は、行く手を阻むアクマも一蹴して破壊しアレンに肉薄した。過ぎ去っていく視界の隅で千年伯爵の呪縛から魂が解き放たれて逝くのが見えた。アレンの左眼の能力。忌まわしいちから。
「そんなもの見たくなかった!!」 リナリーが叫ぶ。彼女の指が、アレンの白いシャツの襟を捕えて引き倒した。地面に小さな子どもの身体を叩きつけ、半ば馬乗りになりながらリナリーはアレンを睨みつけた。アレンの瞳は、見知った モリオン の色ではなく、初めて見る銀灰色をしていた。その色は、朝日に輝く湖のように、静謐で、感情のまったく見えない忌々しい色だった。
「...わたしたちを、騙したのね、」
「そうです」
「最初から、狙って近づいてきたのね、」
「そうです」
「最初から、ぜんぶ、うそだったのね!」
「...そうです」
「―――っ!」 怒りで顔を赤く染めたリナリーが、アレンの頬を打とうと右手を振りかざしたそのとき、下からアレンが短く呟いた。 「うしろ」
もう一体、アクマが残っていたことを思い出したリナリーは、しまった___と奥歯を噛み締めた。アレンが口元に笑みを浮かべている。いつの間にか、彼に腕をしっかりと捕まえられていた。逃げられない―――死の恐怖を感じながらも、リナリーは敢えて背後を振り返った。目前に迫るアクマ。ああ、にいさん___
「伏せるさっ! リナリー!」
突如飛ばされた指示に、リナリーは驚きつつも従った。腕で顔を庇い、半ば捻った身体に、アクマの破片がパラパラと霰のように当たるのを彼女は団服越しに知覚した。
「ラビ! 無事で―――
声を掛けようとしたリナリーの言葉は、中途半端なまま遮られた。
突如視界を白い霧に覆われて_ラビは巨大化させたイノセンスを油断無く構えた。 「リナリー! 無事か?!」 姿の見えない仲間にそう呼びかけると、焦ったような少女の声が返ってきた。
「ラビ! “敵”が消えたわ!」
敵_アレンのことだ。ラビは唾を飲み込んだ。
ラビ、槌を―――何処かにいるはずのリナリーの声が、不自然に途切れて消えた。いやな予感がラビの脳裏を駆け巡る。おい! そう叫んで、その叫びが自分の耳に届かなかったことに、ラビは愕然とした。
(聴覚を―――奪われた?)
試しに地面を足で擦ってみるが、やはりその音は聞こえなかった。霧の効果か、まずいさ―――ラビのこめかみの辺りを汗が伝った。敵は同士討ちを狙っているのか、はたまた別の目的があるのか、と思考を巡らす。極度の緊張に追い込んでの精神的消耗を狙うつもりなのか。
「嫌な戦い方さね、」 聞こえないとはわかっていながらも、ラビはそう口にした。
「...そうですか? 僕は便利で、気に入ってますけど」
肩に、そっと触れる、子どもの手。
「...っ、これじゃあ、意味ないんじゃないの?」 相変わらず自分の言葉は耳に届かないのに、アレンのボーイソプラノだけは耳元で。ラビはぎゅっと槌を握り締めた。反撃するチャンス。絶対にあるはず―――
「しーっ、静かに。アクマは貴方たちに倒されちゃったけれど、まだ盗み見されてるんですよ。僕もほんとう、信用がないんだから」 アレンがくすくすと笑う。
「貴方たちと内緒話をするために、こうさせてもらいました」 「...話? 敵とする話なんてねぇだろ」
「随分と、嫌われたみたいですね、僕も」 何故だか寂しそうにアレンは云った。莫迦な!とラビは思う。裏切ったのは奴の方だ。寂しいと感じるなんてどうかしてる。
「ラビと僕は、なんとなく近いんじゃないかな_なんて思ってたのに。 ねぇブックマン・ジュニア? 仲間のふりしてエクソシストの中に紛れ込んでるのってどんな気分?」
「......」
「なんで知ってるんだ、って表情してる」 アレンはラビの耳元で可笑しそうに笑った。 「そりゃあ知っていますよ。だって貴方の3代前のブックマンは伯爵側にいたんだもの。僕はもうその時生まれてたんですよ、ラビ。」
「...なん、だって―――?」 3代前のブックマン。12歳前後の姿のアレン。計算が合わない。無茶苦茶すぎる。
「僕の正体は...ブックマンの知識を持ってる貴方ならたやすく辿り着くはずだ...ラビ。楽しみにしてますよ...貴方が真にブックマンを受け継いで、僕の前に立ってくれる日を。それまで、さようなら」
肩から重みが消える。ラビは背後を振り仰いだ。そこには青空があるばかりだ。
「待てよ―――っ!」
誰もいない空間への叫びは、存外に大きい音としてラビの耳に届いた。音が戻っていることに気付いたラビが周りを見回すと、立ちこめていた白い霧もすっかりと晴れていた。ただ不可解な事といえば、街並みがまったく別のものになっている点だった。どうやら先程戦闘になった場所とは違うところへ送られたらしい。
その見慣れない街並みのなかに、数歩しか離れていない距離にリナリーが立っていた。二人とも無事らしい―――殺せと命じられたアレンが何故自分たちを見逃したかは、本人に問いたださない限り理由はしれないだろう。
目の前に立つ少女は顔を俯けて、ぎゅっと拳を握っていた。その左胸からローズクロスが消えているのにラビは気付いて、自分の胸元も見下ろしてみた。やはり十字架は消えていて、おそらくアレンによって奪われたのだろうと推察した。
「リナリー、大丈夫か?」 ラビは恐る恐る声を掛けた。彼女の姿が泣いているように見えたからだ。
「...だいじょうぶよ、」 返ってきたのは意外に強い声音だった。
「わたしは大丈夫。ラビは?」
「ああ、うん、オレも へーき さ」 リナリーを庇った傷は、実際のところたいしたものではなかった。こめかみを切ったから、出血量は多かったが、それも止まりつつある。
「...霧の中で、アレン君の声がしたわ」 ラビはぎくりとした。先程の会話を、聞かれていた? だがリナリーが続いて話した内容によると、どうやらアレンはリナリーとラビの二人に同時に違う話をしていたようだとわかり、ラビはほっと胸を撫で下ろした。
「許せないのなら―――追って来いって。もっと強くなって、辿り着いてほしい...そんなことを云ってたわ。莫迦にして!」 リナリーが叫ぶ。
ラビはようやく彼女が怒りに震えているのだと理解した。顔を上げたリナリーは、怒りのために顔を赤く染めてはいたが、その目元は潤んでいた。
「...わたしたちを莫迦にして! ぜったいに許さない!」
「リナリー...」
「あの子の目的も正体も、なにもかも暴いてやるわ」 少女はすっかり切れてぼろぼろな唇をさらに噛んで云った。 「白のヴァイカントだか___わけわかんないことばかり...」 「、...ちょ、待てリナリー。なんつった?」
ラビが焦ったように聞き返した。 「いまなんて...?」
「ヴァイカントよ。...アレン君が自分でそう云ったの。“僕は白の
先程のアレンの言葉がラビの脳裏に蘇る。背筋の凍る思いとはまさにこのことだ。
「ノアが連れてたアクマ達も、確かそんな呼び方をしていたわ。子爵様ってしきりに―――ラビ、あなたなにか知ってるの?」
それは、ラビは云い淀んだ。師からは口を酸っぱく、耳にタコができるほどに云われている。ブックマンの情報は、ブックマンしか口外してはならない___ラビはまだその資格を持たない。だが。
「...リナリー、オレらひょっとしてとんでもないのに目ェ付けられたのかもしんねぇさ...」 引きつりながらラビは云った。リナリーが怪訝な視線を寄越してくる。
「アイツ、アレン・ウォーカーは200年近く生き延びてる
(深淵の底より、主よ、あなたを呼ぼう。主よ、私の声を聞き届けたまえ。)