Quia
apud
te
pro-
pitiatio
est,
et
propter
legem
tuam
sustinui
te,
Domine.

「わたしは反対よ!」

いまいち事情の飲み込めていないアレンを別の車両の個室に送って戻ってきたリナリーは、部屋に入るなりそう叫んだ。神田が苛立たしげに舌打ちする。ラビはやれやれと溜息をついた。お姫様を気持ち的に納得させるのは随分と骨が折れそうだ。

「反対とか、そういう問題じゃねぇさ、リナリー。これはオレらの班への新しい任務。そんくらいわかっだろ?」

気丈な少女は唇を噛み締めた。教団からの命令ならばエクソシストである彼女たちは従わねばならない。しかし自分の与り知らぬところで勝手に事を進めた神田とラビをリナリーは許せなかった。

「...ふたりともアレン君がどんな目に遭うか少しは想像つくでしょうに!」

それは悲痛な叫びだった。
神田は視線を窓の外へと逸らし、ラビは腕を組み足を組んで俯いた。重い沈黙が流れ、リナリーはとうとう部屋を飛び出して行った。



沈黙を破ったのはラビだった。怒らせちゃったさ、と呟いた彼の声はひどく覇気のないものだった。
「...お前も反対なんじゃなかったのか、ラビ」
神田は云った。アレンに教団に連れて行くと話す前に、神田はラビと会っていた。その時は確かにラビもこの件については乗り気ではなかったはずだ。ラビは まあね とでも云うように肩を竦めて首を傾ける仕種をとった。
「...ここでオレらがアレンの存在を報告しなくても、いずれ何処かで噂になって教団側の耳に入るよ。いままでそーゆーのがなかったこと事体が不思議なくらいなんだからさ。だからそれなら、今此処でオレらが見つけちまった方がいくらかマシってことだろ?」
そう云ってラビはバンダナを額から外して首に掛け、髪を下ろした。

それに、オレらが傍に居ればそんな酷い扱いも受けなくて済むかもしれないし?

その台詞に、神田は ふん と鼻を鳴らした。下ろした髪をくしゃくしゃとかき混ぜながらラビが笑う。
「...ユウはそう考えてるんだろ。云ってやれば良かったのに。リナリーにさ」
「うっせぇ。なんで俺が」
だって云いだしっぺはユウじゃんかよー、口を尖らせてラビは座席にゴロンと寝転がりながら告げた。面倒臭ぇ 神田は云った。「あいつなら自分で気付くだろ、そんくらい」
「でもリナリー怒らすと後が怖ぇなぁ、ラビさんは。」 その言に神田は無言で眉を顰めた。どうやら思い当たる節があるらしい。そんな神田を見てラビは苦笑し、目を閉じて眠りに就こうとした。

「モヤシ、同意すると思うか、」 神田は横になり目を瞑ったラビにそう問いかける。
「たぶんね、」
ラビは大きく口を開けて欠伸しながら答えた。仲間にならないかと聴いた時のアレンの、瞳の底で動くものを見たことを思い出す。不思議な輝き。その呪いのために実の親からすら疎まれた子ども。その子どもが見つけた希望を映した輝きならばいい。ラビはそう思いを巡らせた。
「それに、」
同じく眠ろうとして六幻を腕の中に抱えようとしていた神田が、ラビにちらりと視線を移した。

「...たぶんリナリーは今晩アレンのところに行って帰って来ないだろうし」

神田が盛大に眉を顰めてみせるのへ、ラビは予想通りの反応が返ってきたと口元を歪めた。神田はその民族性ゆえなのか、故郷の文化ゆえなのか、はたまた神田自身の性格なのか、男女のことに関して晩生であり、また潔癖性のような部分があった。
神田はしかめっ面のまま、お馴染みの舌打ちをしたあと、黙って六幻を抱え直し目を閉じた。ラビが密やかに笑いを零す。いくら神田でも、喧嘩したばかりのリナリーを追いかけて、アレンなりリナリーなりをこちらに引っ張ってくるのは気まずいらしい。
まあアレンはまだ12,3歳の(ラビたちにしてみれば)子どもだし、間違いが起こることもないだろう。そもそもあの小さな英国紳士リトル・ジェントルマンであるアレンがリナリーをよからぬ意味で襲うとも思えないし、リナリーとてただの無力な少女とは違う。アレンの素性が完璧に白というわけではなかったが、ここでリナリーを襲えばラビたちに自分は黒だと教えるようなものだ。もし自らの正体を偽るほど小賢しいアクマならば、今この状況で動きはしないだろう。
朝までにリナリーの機嫌が直っていることを祈りながら、ラビは上等とは云いがたい座席の上で眠りを引き込むべく目を閉じた。



† † †




アレンはリナリーに案内された個室で、腰を落ち着け寝るために備え付けられていた毛布を引っ張り出した。広げると少々黴臭い。その匂いに細い眉を顰めながら、アレンは小さな身体の腕を左右にめいっぱい伸ばして毛布を ばさり と振るって、座席の上にとりあえずと思い無造作に放り投げた。この個室より上等の部屋をアレンは取ることもできたが、あえてそうはしなかった。一晩くらい、3等の個室でだって我慢できる。だいたいがここは東ヨーロッパだ。社会主義の国が多いこちら側で、それほどの贅沢は望めない。西側に戻ったらスィートの個室でも取ってゆっくりするのもいいかもな、と考えながらアレンは羽織っていた外套を脱いだ。黒い外套を壁際のハンガーに吊るし、きちんとボタンを留めて形を整え、かるくはたく。そのポケットに首元から引き抜いた緑のリボンタイをていねいに折りたたんで仕舞う。それらの動作はひどくゆっくりと行われた。まるで神聖な儀式のように。燈火ランプに向かい明かりを消そうとしていたアレンの耳に、空耳とも取れるほどの、微かなノックの音が2回届いた。振り返り、扉に近づくと確かに人の気配。「どちらさまですか...?」

「...わたし、」

アレンは大慌てで扉を開いた。目の前にどことなく憮然とした表情の少女が現れる。「リナリーさん? いったいどうして...」
戸惑い自分を見上げてくるアレンに、リナリーは淋しげな表情で告げた。
「ごめんなさい、アレン君。 ...泊めてもらえる?」
アレンは驚きのために開かれた口を閉じると、にっこりと笑顔になり答えた。「どうぞ、レディ。」
理由をとくに追求されなかったことは、リナリーにとっては有り難かった。同時にアレンの察しのよさと、不快感を感じさせない振る舞いには舌を巻く思いだ。
ラビたちのいる個室と寸分違わない部屋に入るなり、リナリーは勝手知ったるとばかりに仕舞われていた毛布を引っ張り出して広げた。そのまま座席のひとつを占領する。アレンは苦笑を零し、明かりを消しますよ と断りを入れて燈火の螺子を捻って灯を消し、リナリーの向かいの席へ腰を下ろした。

断続的に響く列車の走る振動音。夜の深まりは、その音をさらに大きく響かせる。それに意識を傾けつつ―――リナリーは薄闇のなかからアレンをそっと伺った。今晩は満月らしく、車窓に下ろされたブラインドの影から洩れる月明かりで暗がりのなかでも不自由しなかった。ぼうっ とアレンの髪が発光するように見える。不思議な子。リナリーは胸の裡で呟いた。年齢にそぐわない、落ち着いた物腰と眼のひかり。そこに諦念が見え隠れするのは、おそらく間違いではないと思う。子どもをここまで大人びさせる原因となったのは、いまはすっかり消えて隠れてしまった あの 左眼の。

「...リナリーさんは、」 ぽつりとアレンが云う。
ミズさんじゃなくて、リナリーでいいよ。アレン君」
砕けた口調でリナリーが云うと、アレンは嬉しそうに笑い、リナリー と呼んだ。それが妙にくすぐったく感じられて、少女も微笑んだ。
「リナリーは、その、“黒の教団”は長いんですか?」
「うん...もう何年もいるよ。わたしもカンダも、ラビもね」
「幼馴染なんですか...?」
「...そう、だね___似たようなものかな。年齢が近いのもあるし、こうしてよく任務も一緒になったりするし」
「いいですね...ちょっと憧れるなぁ。そういうの」
「アレン、くん...あのね、さっきのことだけど、」 云いにくそうにそう口にして、リナリーは目を伏せる。
「嫌だったら、断ってくれていいの。もう報告が行っちゃったから、教団側がしつこく誘ってくるかもしれないけれど...あの、あのね、わたしの兄さんが教団の幹部なの。だからわたしから強く頼めば、それも―――」 「リナリー」
存外につよい声音で名を呼び、言葉を遮ったアレンに驚いてリナリーは顔を上げた。視界を塗りつぶす灰色の中で、彼をあらわす白さと瞳の黒さが際立っていた。
「僕が、いたら―――迷惑ですか?」
「そんなことない! そんなことないよ、そうじゃなくて―――」
 リナリーは寝かせていた上半身を思わず起き上がらせた。アレンの目はやさしい。とたんに何も云えなくなって、リナリーは口を閉じて押し黙った。
「リナリーが、色々心配してくれてるのはわかります。でも決めるのは僕だし―――僕はずっと、この 左眼 が何かの役に立てばいいのにって、ずっとそう思ってきました。だから、このお誘いは願ったりなんです。」
アレンの目はやさしい。同時に有無を云わせぬつよさがあった。
覆すことのできない意思を目の当たりにして、リナリーは深く嘆息した。 「...もう決めたんだね、」
にっこりとアレンは微笑んだ。もう息みましょう、そう一方的に告げて毛布を引き上げ瞳を閉じるアレンの顔をしばし見つめたリナリーは、再び溜息をついたのちに身体を横たえた。

できれば彼の胸に、十字架が飾られずに済むことを祈りながら。

 

 

 

 

(しかし赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを恐れ敬う。)