Si
iniquitates
observaveris,
Domine:
Domine,
quistinebit?

「...あの、お薬を戴いてきました。効くかどうかわかりませんけど、どうぞ」
揺れる列車の狭い廊下、アレンは何包かの粉薬を小さな掌の上に乗せて、落とさぬようラビに手渡した。 「サンキュー、」
「リナリーさんの具合、どうですか...?」
「...あー、ダイジョブさ。ちょっと汽車に酔っただけだと思うから、」 ラビは努めて明るい声で云った。子どもの傷付いたような表情かおが酷く後ろめたい。
「アレンがそんなに気にすることはねぇさ」
漆黒の瞳が、ふっ と白いまつげの下で翳り、伏せられた。

You're a liar

ちいさなちいさな呟きがアレンの口から零れ出て、しかし列車が軋む音にかき消されることなくラビの耳に届いた。
ラビが何か云い繕うとする前に、アレンは勢いよく背を向けて一直線に連なる列車の廊下を走り去って行った。それだけがサイズの合っていない、大きすぎるコートの裾を翻しながら。
ラビは小さくなって扉の影に消えた黒い背中を、ただ見送った。

「...泣かせたな、」
「ユウッ!?」
突如として掛かった声にラビは飛び跳ねて振り返った。 くそ、気配に気付かなかった上に簡単に背後まで取られちまったさ―――ラビは神田の怜悧な横顔を見ながら毒づいた。

「水、貰ってきてやったぞ」 開けろよ、神田は細い顎でそう個室コンパートメントの扉を示した。
中では、リナリーが窓枠に肘を引っ掛け、その上に頭を乗せて項垂れていた。先程までは吐き気がすると云って、化粧室の奥に引っ込んでいたがなんとか落ち着いてきたらしい。扉の開く音に、彼女はちょっと頭を動かして反応した。憔悴した目線が何かを探すように動いて―――安堵したような、落胆したような色を見せたのを、ラビは敏感に察し、観察していた。
「薬貰ってきたさ、リナリー」 「...ありがとう、」
項垂れたままの姿勢で、リナリーは二人に礼をいった。ゆっくりと身体を真っ直ぐにして座り直し、吐き気止め と云って渡された薬包をそっと開いた。心なしか彼女の頭のツインテールまで項垂れているように見える。リナリーはコップの水を飲み干してしまうと、膝掛け用の毛布を胸まで上げて少し眠るわ、と呟いて目を閉じた。
神田は黙って個室を後にし、ラビもまたそれに倣って外へ出た。神田が付いてくるなというようにラビを睨んだが、彼はニコ  笑ってリナリーから受け取ったコップを顔の前で振って見せた。
「...食堂車なら8両目だぜ」
「...酷いナァ、ユウ。一緒に行こうよ、」
餓鬼じゃねぇんだからそれくらい自分で行けよ、神田は吐き捨てるように云った。
「...あんな胸やけする処なんか行きたくねぇよ、」
そう云い捨てて神田も車両を移動していく。その背はいつものように凛としているように見えたが、幼い頃からの付き合いの賜物か、ラビは神田も、自分も、リナリーと変わらないくらい精神的に参っているのだと解っていたから、やはり引き止めずにただ見送った。



† † †




断続的な振動が心地良く弛緩した身体を包む。リナリーは浅い眠りのなかにいた。任務先では、移動中も良眠はできない。任務に対する緊張なのか、団服に身を包み人間のなかにいるからなのか。それとも最愛の兄の傍から離れてしまうからだろうか?
大きな揺れがひとつ、彼女が器用に座席に横たわらせた身体の安定をほんの少しだけ崩す。リナリーは身じろぎした。瞼は閉じられたまま。頬は赤みを取り戻しつつあった。リナリーは毛布代わりの膝掛けを肩まで引き上げて、端をしっかりと握り締めた。こんなときばかりは切実に願ってしまう。アクマに見つかりませんように。普段外に出るときから彼女はその薔薇十字を隠してしまっていたけれど。
もとから浅い眠りは、もうすでに眠りとは云えなかった。どのくらい横になっていたのだろう。部屋の中は暗い。2,3時間は経っている様だった。広いコンパートメントにはリナリーひとり。ラビと神田に悪かったかな、とリナリーは考えた。そして座席の上でこれまた器用に寝返りを打とうとした。夢も見ぬまま、今日はもうこのまま眠ってしまいたい。そんなリナリーの感覚が、通路を歩む足音に耳を立てる。任務先では、移動中も良眠はできない。いつ何処から襲われるか判らない。ラビでも神田でもない軽い靴音。止まった。扉の前。
リナリーは静かに目を開いた。
「リナリーさん...?」
小さなノック。ごく控えめな。知った声。 「...アレン君?」
安堵の様子が扉の向こうからでも判った。よかった。零れた呟き。アレンです、入ってもいいですか...?
その問いかけは恐る恐るなされた。リナリーは半ば起こしかけていた上体を慌てて直し、座席から伸びやかな両足を下ろし、膝掛けをきちんと整えた。前髪をゆびではらはらと梳いて、目を擦った。
数秒の後、リナリーのどうぞ、という声があった。アレンは扉を開いた。
「...ごめんなさい、寝てました?」 部屋は明かりが灯されていなかった。窓から月明かりが零れるだけ。リナリーの姿が夜闇に半分沈んで見えた。
「ううん、ちょうど目が覚めたところだったの、」 リナリーは云った。気分はどうですか、と訊かれる。だいぶよくなったわ、と彼女は答えた。
「...よかったです、」
アレンが微笑むのが気配で感じられた。リナリーからは子どもの姿はおろか、表情さえ見えなかった。まるで闇と話しているような気分になる。リナリーは座って、と声を掛けた。本当はまだ、アレンと真正面から向き合う勇気はもてなかったのだけれども。それはひたすらに隠して、彼女は席を勧めた。アレンの姿が露わになる。窓から射す月明かりに反射して、白い髪や睫毛が月色の光沢を弾いた。
その左頬に赤い疵がないことに、リナリーは心の底から安堵した。
「食堂の人に頼んで、サンドウィッチを作って貰ったんです。ご飯食べてないでしょう? きっと夜中にお腹が空くと思って。どうぞ、」
リナリーの前にちいさな包みが差し出された。少女らしい細い指をした手のひらが、そっとアレンの持つ包みに伸びてきた。かるく指が触れ合って、すぐに離れる。その指先の冷たさに、リナリーは はっ とした。
包みを開きもせずに固まるリナリーに、アレンは困ったように微笑んだ。
「好きなときに皆さんで食べてください...じゃあ、僕はこれで。おやすみなさい、ミズ・リー。」
アレンはどこまでも紳士的だった。洗練された上流英語RPを紡ぐ声は声変わりを控えたもので、柔らかくリナリーの耳に届く。アレンはまだまだ子どもの容姿から抜けきれていない少年だったけれど、何気ない仕種のひとつひとつがちいさな紳士であったし、特に女性であるリナリーにはやさしかった。
「...待って、アレンくん...っ」
部屋の影に再び埋没しかけるアレンをリナリーは呼び止めた。なんですか? どこまでも柔らかさを失わない声が切ない。アレンが優しいのは礼儀や義務からだけではない。
「 ご、めんなさい...」
リナリーは胸につかえたものを吐き出すように云った。
「わたし、わたし...っ」 嫌われたくない。疎まれたくない。だから他人にやさしくする。好かれたいから。罵られるのはおそろしい。胸の薔薇十字はリナリーを拘束し続けてきた。同様にアレンを縛り続けるものがあの左眼なのだ。リナリーの眦から涙が溢れる。彼はエクソシストわたしたちを拒絶しなかったのに。異端者として批難される苦さをじゅうぶんに知っていたはずなのに。

「ごめんなさい...わたしアレンくんの...」 彼を傷つけたことだろう。彼を捨てたおやのように。

hushしーっ... それ以上云わないで、リナリー。 アレンはアルカイックな微笑みを浮かべた。
「僕は気にしてません。慣れっこですもん。 ...それより僕の方こそごめんなさい。嫌なものを見せてしまって、」
リナリーはすぐにその言葉を否定できない自分の弱さに涙を拭った。確かに二度と、あんなものは見たくない。夢に見そうで恐ろしくて堪らない。でもせめてアレン自身を否定したくはない。少女はゆるゆるとかぶりを振った。すっかりと涙を拭ってしまうと、リナリーは顔を上げてアレンと正面から向き合った。
「わたしアレン君が好きよ」
白い子どもの頬が、薄闇のなかでもはっきりと朱に染まっていくようすが、リナリーにははっきりと見えた。
「リ、リナリーさんっ?!」
「変な意味じゃなくって。アレン君のこと嫌ってしまいたくないの。ともだちになりたいの、」
アレンの慌てようがおかしくて、リナリーはくすりと笑いを零した。赤いままの頬でもごもごとアレンが口篭っていると、個室の扉が前触れ無く開かれ、子どもはその音にちいさく飛び上がった。

「...なにやってンだ、お前ら、」
神田が呆れたようにアレンとリナリーを交互に見遣った。彼は薄闇でもしっかりとした足取りで壁際まで歩み、壁に固定された燈火に火を灯した。暖色の光が目に優しく、部屋を明るくする。
神田は座席にどっかりと腰を下ろすと、立ったままのリナリーを一瞥した。 「もういいのか、」
「平気よ」
リナリーは微笑んでみせた。幼い頃からの気安さで、リナリーは答えた。さりげない神田の心遣いは在り難かった。神田は座席に転がっていた包みを手にした。アレン君がサンドウィッチを届けてくれたの、リナリーはそう説明した。神田がアレンに視線を送る。子どもはにこりと笑った。
それじゃあ僕はこれで...そう辞して退室しようとするアレンを、今度は神田の声が引きとめた。
「ちょっと待て。」
リナリーは怪訝そうに神田を見下ろした。その顔は普段と変わらず涼しげで、なにを考えているかわからなかった。
「...お前のことを俺たちの上司に報告した。“アクマの魂を見る奴がいる” ってな。お前を本部まで連れてくるよう云われた。準備が整い次第、俺たちの仲間に引き渡す。わかったな、モヤシ。」
アレンはドアノブに手を掛けたまま、そう一方的に告げる神田を訝しげに見た。モヤシ、そう呼ばれたことに盛大に眉を顰めてみせたが、それよりも戸惑いの方が大きい様子だった。唯一言葉の意味を正確に把握したリナリーが、反論するために神田の名を呼んだ。
「どういうこと、アレン君は...っ」
「関係ないとは云わせないぜ、」 冷徹とさえいえる声音で神田は切り返した。リナリーが悔しそうに唇を噛む。自分が寝込んでいる間に、なんて余計なことをしてくれたんだ―――リナリーはそういう気持ちでいた。アレンというこれほど奇怪な存在を知った教団側が放っておく筈がない。
その気持ちを見透かしたように、神田がさらに言葉を重ねた。
「モヤシが貴重な存在だってのはお前にだってわかっているだろう、リナリー。人間の中に紛れ込んでるアクマが判別できるようになれば、今までずっと受身の反撃しかできなかった俺達が先手を打って攻撃に転じれるようになるんだぜ、」
「わかってるわよそんなことは! でもっ」 きりきりとリナリーは眉を吊り上げて神田を睨んだ。神田も真正面からその視線を受け止める。ひとり取り残されてしまったアレンが、睨み合う二人の気配に圧されながらおどおどと口を開いた。

「あの、すいませんちょっと...意味が...」

「 “仲間” にならねぇか、ってことさ。」
びくり、とアレンは肩を震わせて声の主を振り仰いだ。
中途半端に開けられた扉の隙間、蜜柑色の髪の青年___ラビが立っていた。
ラビが扉を押し広げていく。枠に手を掛けたまま、ラビは驚いてこちらを見つめる子どもに ニコリ と人の良さそうな笑みを浮かべてみせた。

「―――“黒の教団”は、きっとお前を歓迎するぜ。アレン・ウォーカー」

 

 

 

 

(主よ、あなたが罪をすべて心に留められるならば。主よ、誰が耐ええよう。)