茶色くすすけた店内の壁には所狭しと色んな色紙やお品書きなどが貼られている。
何となく歴史を感じさせる近所の小さなその店は、『何を食べに行く?』 とヒロに聞かれた時、俺が決まって答える場所だった。
その店オリジナルのお好み焼きも好きだし、何よりお好み焼きを目の前で焼いてくれるヒロの手つきが好き。
そしてヒロは 『またか』 と苦笑しながらも、『じゃあ今回も俺の手さばきに見惚れてもらおう』 と笑いながら連れて来てくれる。
まるでお店の人のように器用にお好み焼きを焼き上げていく手つきに相変わらず感動し、その俺を見て得意げにしているヒロが可笑しくて、それを見ながら笑った。
そしてソースが鉄板の上で焼ける香ばしい匂いを嗅いで舌鼓を打ちながら一緒に食べ、その後は腹ごなしにプラプラと歩いて帰って来た。
ヒロはスーツを脱ぎに寝室に入っていき、俺はワインとワイングラスを出して居間のテーブルに置くと、サイドボードの上に乗せてあるフォトフレームを手に取った。
そこに入っているのは写真ではなくあの飴の包み紙。
それを見せた日の翌日、どうしても捨てられない俺の気持ちをわかってくれているヒロが買ってくれたものだった。
好きなのを選ぶといいと言って沢山見せてくれた中から俺が選んだのは、透明なアクリル板にはさむタイプの、飾りも何もないシンプルなフォトフレーム。
アクリル板の上から左手の人差し指で包み紙をなぞりながら、あの頃の自分と今の自分を振り返る。
笑う事も泣く事もなく、ひたすらこの飴の包み紙とひまわりを見続けながら一日一日を必死に生きていたあの頃。
そして笑ったり泣いたり目まぐるしく感情が揺れ動き、不安になっても理由のない恐怖に怯えても、いつも俺を守ってそこから救い上げてくれるヒロと一緒に過ごせる今。
昔とは天と地ほどの差がある、現在の幸せな俺を与えてくれたのは全てヒロだ。
ヒロにはどれだけ感謝をしても足りないな、と思いながらそれを見つめ、そしてフォトフレームを静かにサイドボードの上に戻した。
そのまま窓際に行ってそっとカーテンの隙間から暗い庭を覗く。
以前は荒れ放題だったけど、ヒロが会社に行っている間こまめに雑草を抜くようにし始めたので、今ではそれ程でもない。
とは言っても木も花もあるわけではないけれど。
「来年暖かくなったら、森君に教えてもらって花を育てたら
どうだ?」
その声に振り向くと、家用のチタンフレームの眼鏡に替えて居間に入って来たヒロが、透明なレンズの向こうにある瞳に不思議な表情を湛えていた。
カーテンを元に戻し、いつも通りソファに腰を下ろすヒロの隣に座ってグラスに注いだワインを手渡すと、『ありがとう』 と言いながら頬を撫でてくれる。
首を横に振って照れ笑いをしながら、こういう瞬間って大好きだ、としみじみ思う。
そしてさっきの台詞に返事をした。
「俺が花を?」
すると首を傾げた俺に、ヒロがワインを口に含みながら優しく微笑んだ。
「庭でひまわりを育ててみろよ。
植えたいだけ植えて、部屋のカーテンを大きく開けて、
思う存分ひまわりも太陽も眺めるといい。」
その台詞に驚きながら、食卓に置いてあるひまわりと庭に続く窓にかけられたカーテンに、交互にゆっくりと視線を向ける。
カーテンをいっぱいに開けて思う存分ひまわりを見たかった。
そしてひまわりと一緒に太陽を見上げてみたかった。
そうしたらひまわりの気持ちがわかるかもしれないと思ったから。
許されるならやってみたい。
俺なんかが何かを育てるなんて、そんなすごい事が出来るかどうかはわからないけど……
「……いいの?」
ヒロは右手の指で眼鏡を押さえながら頷いて、震える声で尋ねた俺に笑ってくれる。
「当たり前だろ?ここはお前の家なんだから、
お前が思う通りに何でもやってみればいい。
それにその方が森君ともっと会えるだろうし、仁志には
友達と一緒に楽しい時間を沢山過ごしてほしいと思う。
仁志の幸せそうな顔を見るのが俺の生きがいだからな。」
ここが…俺の家……
俺の幸せそうな顔を見るのが…ヒロの生きがい……
眼鏡の奥にある優しい瞳と視線を合わせた後、そのまま下を向いて膝の上に置いた手を握り締める。
……どうしよう。ダメだ。
昔を思い出した後にそんな事を言われたら、また勝手に涙が溢れて、思いが溢れ出して止まらなくなる……
穿いているジーンズが、次々と零れ始めた涙を吸い取ってどんどん濃い色に変わっていく。
初めてヒロの腕の中で泣いた時、俺はこんなに激しく泣けるんだと自分自身に驚いた。
全て諦めたフリをして自分の中は空っぽだと信じていたのに、涙と共に止め処なく溢れ出していく色んな叫びに、俺の中にはこんなに沢山の思いが詰まっていたんだと自分自身で驚いた。
だからヒロは俺に、我慢しないで沢山泣け、と言う。
泣きたい時に泣きたいだけ泣いて、自分の中に溜まっているものを全部吐き出して楽になれと。
そして、その時は必ず一緒にいて抱き締めてやるから、と。
せめて嗚咽だけは漏らすまいと必死で唇を噛み締めるのに、温かい腕の中に引き入れられて俺の決意はあっさりと崩れ落ちた。
ヒロは子供をあやす様に、体を揺すってトントンと優しく背中を叩きながら抱き締めてくれる。
幼い頃に、こんな風に抱き締めてもらった事など一度もない。
だから余計に堪らなくなって、子供のようにしゃくり上げながらヒロにしがみついて泣き続けた。
許される限り、この人に手が届く場所に、ずっとずっといたい……
泣きたいだけ泣いてようやく少し収まると、肩に顔を埋めている俺を抱き締めたまま 『森君みたいだけど』 と苦笑しながらヒロが話しかけてきた。
「ひまわりの伝説って知ってるか?」
そう言えば森はやたら花に詳しくて、森は花マニアだから、とか前に智紀さんが笑いながら言っていたっけ。
言われた森がふくれるのを見て笑った記憶がある。
涙を吸い取ってくれた、ヒロの柔らかいコットンシャツに顔を埋めたまま、ううん、と首を横に振った。
「仁志に初めてひまわりの話を聞かされた後、少しだけ
調べた事があった。
それでひまわりに伝説があるっていうのを知ったんだが、
その時にすごく俺達らしい花だと思ったんだ。」
そう言ってひまわりの伝説を教えてくれた。 (※1ページ参照)
アポロンに叶わない恋をしたクリュティエ。
けれど体が地に根付いてひまわりに形を変えてしまった今でも、クリュティエは太陽を見続けているんだ。
切なく苦しい片想い。
クリュティエの気持ちは、俺にはすごくよくわかるような気がした。
ヒロと思いが通じ合う前の俺と似ているから。
たとえ届かなくても、それでも手を伸ばさずにいられない思い……
「この伝説は辛い片想いの話だと思うだろ?
まぁ本来はそうなんだろうが、俺の解釈は違うんだな、これが。
クリュティエは思いが届いている事に気付かなかっただけだ。
ひまわりは夏の代名詞と呼ばれるほどの花だろ?
だから一番日が長くて暑い時期の太陽に照らされる訳だ。
アポロンはそれだけクリュティエを温めてやりたかったんだと
思うぞ。
曇りの日も激しい嵐の日も懸命に乗り越えながら、ただひたすら
ひたむきに自分を見つめ続けるひまわりを、太陽は心から愛して
温めずにはいられない。
ってことで、本当は二人の恋は叶っているんだ。
どうだ、ものすごく強引な俺の解釈は?」
俺はいつの間にかヒロの肩から顔を上げて、得意そうに笑っている瞳をポカーンと眺めていた。
するとヒロが温かい両手で俺の頬を包んだ。
「ひまわりの花言葉は
【あなたを見つめる・あこがれ・熱愛・愛慕・敬慕】。
全て相手を思う言葉ばかりだ。
ひたすら相手を思い続けるひまわりは、本当に俺達そのもの
だろ?
俺達はお互いに太陽でありひまわりだと思っている。
一途にひたむきに俺を思い続けてくれている仁志を、俺は常に
温め続けてやりたいと思っているし、俺自身仁志と出会ってから
どれだけ仁志に恋焦がれ、仁志に温められて来たかわから
ない。
俺だってこんなにクサイ台詞をずらずらと並べ立ててしまう
ほど、ひたすら一途に仁志を愛しているからな。
俺に花は似合わないという余計な現実はこの際置いといて、
そんなひまわりの様な俺を今すぐ温めてやりたいと思わ
ないか?
そろそろデザートの時間だろ?」
からかいと優しさと温かさのこもった瞳で柔らかく笑った。
包み込まれるようなその瞳を見つめているうちに勝手に笑みが浮かんでいき、一度は止まった筈の涙がまたポロポロと零れ落ちる。
ヒロのこの大らかさと明るさに、どれだけ救われてきたかわからない。
そして俺は何度も何度も頷きながら、温めてもらう為だけじゃなく、ヒロを温めてあげる為に両手を伸ばした。