心の整理も何もつかぬまま、それでも仕事は待ってはくれぬ。
代理など一切きかぬ鬼神という立場の己を恨めしく思いながらようやく締め切った自室を開放すると、襖の外で平伏しながら待っていたのは紫黒だった。
「御髪を結わせて頂きます」
いつも通りに声をかけてきた紫黒だが、私が籠もり切りだった間、自らの伴侶である黒月(コクゲツ)も置いてひたすら忠実にその場で待っていたのだろう、すっかり目が落ち窪んでいる。
「……お前にも黒月にも心配をかけた……」
いつもの場所に背を向けて座り、黒羽よりも幾分体温が高い、だが控えめなその指に髪を委ねると、紫黒は 『いえ、私共の事は……』 と短く答えて髪を結い始めた。
髪や瞳が漆黒である私や黒羽とは違い、紫黒は光の加減によって深い紫色に見える髪や瞳を持っていた。
いつも控えめで、髪を結い続ける間中言葉を紡ぎ続けていた黒羽とは違い、始終無言で私の髪に触れている。
だが常に私の動きや考えを理解しており、黒月も私の傍仕えを務めている事もあって、私にとって心置きなく物事を任せられる相手でもあった。
だから黒羽が髪を結う仕事を紫黒に任せたのも、今では納得がいっている。
多分紫黒以外の者であれば、私はもう二度と己の髪は誰にも触れさせなかっただろう。
「お邪魔するよ」
ほぼ髪が結いあがった頃、中庭に現れて声をかけて来たのは麒白だった。
紫黒は一度麒白に平伏してから最後の仕上げを終え、櫛を櫛箱に戻しながらそれを持ち、私達二人に頭を下げて部屋を出て行った。
麒白は私の向かいに座り、少し複雑な顔で私を見ている。
「この前は色々悪かったね。
白桜が直接侘びと礼を言いたいと言っていたんだが……
どうやら今のお前には無理らしいから、私から代わりに
伝えて置くよ。」
「……気持ちだけ受け取っておく」
麒白は一旦口を閉じたが、自分の膝に肘をつき、片手で口を覆いながらしばらく何かを考え込んだ後また口を開いた。
「答えたくなければ答えなくていい。
黒羽の事で何かあったのか?」
一瞬息を飲んだものの、以前は似たような立場で、私と黒羽の経緯を全て知っている麒白ならば気付いてもおかしくはない。
私は一度深く溜息を吐き、文机に置いたままの櫛箱から黒羽の封書を取り出して麒白に手渡した。
「先日お前の所から戻った後に気が付いた」
この文をどう受け取って良いのだか、これ以上己自身ではわからなかった。
麒白は黙って一通目の文を読み、その後もう一枚に書かれた黒羽の言葉を眉間に皺を寄せて読んだ後、深い溜息を吐いた。
そして封じ袋に戻したそれを返して来たので、私の名前が書かれた封書の表書きをなぞりながら麒白に尋ねる。
「……お前と桜雲が言う永遠の愛とは何だ?
私は自らの手によって、黒羽という愛の全てを永遠に
失ってしまった。
桜雲のように、白桜のように、形を変えて私の元に
戻ってくる事も有りはせぬ。
今更どれほど望もうと、黒羽が必死の思いで伝えて
くれた言葉に答えてやる事も叶わぬ。
だが桜雲が神霊に変化していく際、お前は今の私と
同じ様な心持ちだっただろう?
だと言うのに、何故永遠の愛など誓えたのだ?」
麒白はまたしばらく考え込んだ後、静かに口を開いた。