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文机の上に置いた櫛箱の、黒羽が自ら掘り込んだ椿の花にそっと指を這わせる。


黒羽が消えた翌日、当時まだ黒羽よりも若かった紫黒が 『御髪を結わせて頂きます』 と私の元を訪れた。
黒羽以外の者に髪を任せるつもりなど更々なかった私は、当然のごとく断ったのだが、『黒羽様からくれぐれも龍黒様の御髪をお願いしますとご指示を頂きましたので』 と黒羽が紫黒に預けたのだという櫛箱を見せられた。
私の所に置いてある物とは違っても、やはり椿の文様が掘り込まれたそれを見せられれば、黒羽の意志を尊重してやらずにはいられなかった。


私の予想に反し、黒羽が消え去った後もこの世界は何一つ変わらなかった。
まるで何事もなかったかのように、まるで黒羽が初めから存在しなかったかのように、当たり前に時が過ぎて行く。

だが、私の中の時間だけはあの日あの時から歩みを止めた。
黒羽を失った喪失感を埋めてくれるものなど一つも無く、それを受け入れる事が出来ないまま昼間は悶々と表面的な時が過ぎるのを待ち、夜は黒羽の香りを偲んで身を焦がす己を、心を冷たく閉ざす事で鎮めてきた。
だからこそ黒羽が残したこの櫛箱を見る勇気もなく、あのまま引き出しに仕舞い込み、今日まで一度として出しては来なかったのだが……


両手で蓋を開けて静かにそれを箱の隣に置くと、まず初めに上に置かれた手鏡が目に入る。
この鏡越しに微笑みかけて来る黒羽と、幾度も幾度も視線を絡ませた。
いつでも濡れたように見える漆黒の瞳は、いつでも屈託なく微笑みながら私だけを見ていた……

それを取り上げて一度ゆっくりと手で撫でてから開けた蓋の上に置くと、次は同じく椿の文様の櫛。
この髪の1本1本に思いの丈を全て込めるように、いつも大事そうにこの櫛で私の髪を結い続けてくれた。
時々私の肌を掠めたあの冷たく細い指先の感触を、私は今でもまざまざと思い出す。

どんな物を取り上げても、ここで黒羽はこうしていたと、どんな場面に遭遇しても、黒羽ならばこのようにしただろうと、私の全てが黒羽に行き着く。
どうして忘れる事など出来ようか。
どうして黒羽がいない現実を受け入れる事が出来ようか……

それも取り上げてみるとその下に敷かれた台紙の脇から、更にその下に何か紙の様なものが挟まれているのが見えた。
何だろうと思いその台紙を少しだけ剥がしてみると、そこには 『龍黒様』 と黒羽の懐かしい字で表書きが添えられた封書が入っている。

これは……

恐る恐るそれを取り上げ、焦点が定まらないほどに震える爪で封を破り、中に入っていた文を取り出す。
幾重にも畳まれたそれを手に持ち、破かぬようそっと両手で開いていくと、そこからは忘れもせぬ黒羽の香りがほのかに漂った。
その香りに触れただけで胸の奥から熱いものが込み上げ、それに流されぬようしばしの間歯を食い縛り、硬く目を瞑って遣り過ごす。

黒羽……

何度も深呼吸をしてから静かに目蓋を上げ、墨で書かれた流れるような文字を丁寧に読み進めた。

『龍黒様がこの文に気付いてくださるのはいつの事でしょう。
 それはわかりませんし、もし気付いて頂けなければそれは
 それでも構わないのです。
 ただ私の最後の思いを書き残しておければ……』

そう前置きがあった後、黒羽の思いが綴られていた。