人界との共鳴音のみが響く、しんと静まり返った部屋。
黒いオーラ越しの僅かな青い鬼火達の光を借りて、私と黒羽は互いに視線を絡ませる。
うたかたの夢と消えてゆく、今から始まる最上の時を、黒羽が確かに存在した証として己の身体に刻み込もう……
強く湧き上がってくる自らの欲望には全て蓋をし、敷かせた布団の上に黒羽の躰をそっと横たえ、重みをかけないよう細心の注意を払って覆い被さる。
顔中に唇を落としながら伝った涙を拭ってやり、笑みを浮かべている唇に思いを込めて口付けた。
自分に与えられた宿命を辛く思わなかった筈はない。
不安になり、悲しく思わなかった筈はない。
それでも毅然と前を向き、己の全てをかけて私を求め、涙の代わりに笑顔を浮かべながらここまで必死で耐えて来た黒羽。
「……もはや無理はいらぬ。
この後は私に全てを任せるが良い……」
笑みを浮かべていた唇が見る見るうちに震え出す。
黒羽は私の着物に弱々しい力で必死にしがみつき、僅かに嗚咽を漏らしながら今まで我慢して来たのだろう涙を更に溢れさせ、私はその体を出来るだけ優しく抱き締めた。
もっと早くにそう言ってやるべきだった。
もっと早くにこうして抱き締めてやるべきだった。
今更取り返しのつかない時を振り返り、歯軋りするほど後悔の念に囚われながらそう告げる私に、『龍黒様と過ごさせていただけるだけで充分でしたから』 と心で答えながら笑みを浮かべようとする。
そんな黒羽がいじらしくて愛しくて堪らずに、苦痛の叫びが漏れそうになる己を必死にとどめながら、震えるその唇に何度も何度も口付けた。
腕の中にいる黒羽からはほのかに甘く、慎ましさに満ちた香りが漂い続けていた。
特に香料などをつけない黒羽自身のその香りは、黒羽が自らの持ち物全てに好んで印している椿の香りなのかもしれない。
その香りを堪能しながら壊さぬようそっと着物を脱がせ、その全身に丁寧に手で触れ、唇を落とし、舌を這わせながら、思いの丈を込めて黒羽の全てを余すところ無く愛した。
痛々しいほどに浮き出ている鎖骨も。
私の名を口にしながら、ビクビクと震えて私の口に溢れさせる白い欲望の証も。
微かに喘ぎを漏らして私自身をその躰に受け入れながら、必死ですがりついてくる折れそうなほど細い腕も。
止め処なく涙を溢れさせている震える目蓋も、それでも懸命に笑みを浮かべようと努力を続けている柔らかい唇も。
永遠などという叶わぬ夢物語を心底憎みながら、それでも黒羽が存在していたという事実を永遠に己に、そして黒羽に焼き付けるように……
静かで熱情に満ちた時が過ぎ、今までに感じたことの無い清福な思いに包まれながら腕の中の黒羽を見下ろすと、私の精を受けた黒羽はようやく涙を止め、乱れて一房落ちていた私の髪をそっと掬い上げる。
そしてその髪にうやうやしく口付け、そのまま器用に自分の手首に結びつけながら楽しそうに笑った。
黒羽に心を奪われて以来その宿命を呪い、ただの一度も浮かべたことのなかった笑みが、その時だけは自然と湧き上がって行く。
黒羽はその私を見て花がほころぶ様に微笑んだ。
そしてゆっくりと息を吸い、その唇に声にならない何かの言葉を紡ぐ。
その様子に気を取られて心を読んでやれなかった私は、もう一度その心を読もうと頬に向けて手を伸ばした。
その刹那、突然黒羽の体がメラメラと燃え上がるような鬼火で包まれ、次の瞬間鬼火と共に忽然と黒羽の姿は消えた。
黒羽の細い手首に結び付けられていた私の髪が、パサッと音を立てて揺れ落ちる……
あまりにも突然の事に何が起きたのかわからず、今の今まで黒羽の居たその場所を手で探った。
布団はいまだに黒羽の温もりに満ち、辺りにはいまだに黒羽の香りが漂い、黒羽の頭を乗せていた私の腕はいまだにその重みを感じていたままの形で置かれている。
……何故だ。
この身体中に黒羽の温もりが残っている。
この耳には黒羽の甘い吐息も、自ら吐精する際に私の名を呼んだ微かな声も残っている。
あの細くて冷たい指先が腕の中で少しずつ温かさを増し、私を求めてこの背に彷徨わせた感触もはっきりと残っている。
なのに何故黒羽はいない……?
まさに燃え尽きていった黒羽……
私の……私のせいだ……
黒羽の最後の残り火を消すのは私の役目だと、初めからわかっていたのだから……
覚悟していたにもかかわらず、途轍もなく大きい衝撃と絶望と喪失感に声も出ず、涙も流れず、想像と現実とのあまりにもの違いを受け入れる事が出来ず、ただただ呆然と黒羽が存在していた空間にいつまでも手を這わせ続けていた。