私はお前を愛した事を、欠片ほども悔いてはいない。
ならば、元々私の進むべき道はたった一つしかないのだろう。
記憶だけでも良い。
お前が確実に存在したと、その現実があっただけで良い。
それを支えに、私はまた歩みを進めていくから……
くしけずっていた手を止め、黒羽の思いの籠もった櫛をしばらく両手に押し頂く。
そしてそれを櫛箱に戻すと、全てのわだかまりを振り切るようにぐいと袖口で涙を拭った。
文机の別の引き出しから鋏を取り出し、黒羽が最後にその細い手首に巻きつけた左髪の一房を掴んで、鋭い光を放っている刃を開く。
ジャキン……
ゆっくりと刃を閉じ、黒羽が大事そうに触れ、丁寧にくしけずってくれていた髪の一部を肩上で切り落とした。
手の中に残ったその一房を握り締めながら、少しの間それを眺める。
この髪がまた黒羽が愛でていた長さにまで伸びる頃、私は己の中で気持ちの整理がつけられているだろうか。
永遠、という意味を、今よりも少しは理解出来ているだろうか。
一房の髪を黒羽の残した封書に仕舞い、櫛箱を全て元通りに戻した。
「紫黒」
やはり襖の外で待っていたのだろう、私の呼び声に紫黒はすぐさま 『失礼します』 と顔を見せたが、一部だけ切り落とした髪を見て愕然とした表情を隠せないようだった。
常に冷静であった紫黒の驚きようが少し可笑しく、私はいつの間にか僅かに笑みを浮かべていた。
それを見た紫黒が更に驚愕に目を見開く。
「……髪を切り揃えてくれ」
文机に置いていた鋏を差し出すと、我に返った紫黒はそれを受け取りながら黙って頷き、戦慄く唇を固く引き結んだ。
そして一旦自分の櫛箱を取りに戻って私の後ろに膝を付くと、名残惜しそうに何度も何度も髪を梳かしながら僅かずつ髪を切り落としていった。
鋏を入れる音がする度にパサリパサリと髪が落ち、私と黒羽の大切な繋がりであった漆黒が海のように畳を染め上げて行く。
紫黒が声を漏らす事無く静かに涙を流している事は、微かな手の震えから伝わって来た。
黒羽が私の元を去ってから、私はまるでこの世に己しか存在していないかのように孤独感に苛まれて来た。
黒羽を失った喪失感も、いまだに黒羽を求める渇望感も消えはせぬ。
だが現実は決して私一人だったのではなく、腹心の紫黒や側近の鬼共のように、私の痛みを我が事のように感じながら、黙って傍で見守り続けてくれていた存在が確かにいたことを、私はすっかり失念していた。
否、黒羽を失ったという事実を受け入れたくないがゆえに、わざとに目を逸らし続けてきたのだろう。
「……紫黒。
頼りなく不甲斐無い鬼神だが、それでもお前達は
これからも私について来てくれるか」
ふと髪を切っていた手が止まる。
そして耐え切れなくなったかのようにむせび泣く紫黒の嗚咽が、背の方から漏れ聞こえて来た。
胸が締め付けられるような切なさと安堵を伝えて来るその様子に、思わず固く目蓋を閉じる。
己の全てと信じていた黒羽に置いていかれた私は、確かに辛く苦しかった。
時を止めてしまうだろう私の背を押す文を綴り、逃れられぬ自らの宿命の中で椿の文様を刻み続けた黒羽も、どれほど辛かっただろう。
だが、その私達をただ黙って見守っている事しか出来なかった紫黒達もまた、実に辛かったのだと今になってようやく見えたような気がする。
水属性の鬼共を統べる鬼神として、上に立つ尊い使命を与えられた存在として、私はもう少し自覚を持たねばならぬな……
「……永遠に……龍黒様にお仕えさせていただきます……」
紫黒が声を震わせながら、だがしかと返して来る。
固い決意の籠もったその声を聞いていると、堪らなく胸の内が揺さ振られた。
心の中にいる黒羽も、私と同じ様に今、胸を熱くしているのだろうか……
「永遠、か……頼んだぞ」
はい、と迷いなく答えた紫黒が時々嗚咽を漏らしながらも、静かに髪を切る手を進めて行った。
……黒羽。
私にはいまだに永遠の意味などわからぬ。
永遠があるとも信じている訳ではない。
だが二度とは戻れないお前と過ごした幸福な時間を振り返る時、お前が文に綴った切なる願いを思い返す時、永遠を信じたいと思う、その心こそが大切なのかも知れぬと今は思っている。
だから、永遠、という叶わぬ夢物語だと憎んで来た言葉に、お前を欲して止まぬ我が思いを託してみようと思う。
最後まで私の幸福を望んでくれたお前の為に。
最後の最後まで笑みを残してくれたお前の為に。
私を愛し続けると、自らの存在全てをかけて言い残してくれたお前に恥じぬよう。
だからこの先も私の心の中で共に生き続け、いつまでも私を支えていてくれ。
黒羽 愛している
……永遠に……