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夢中で駆け続けていた私は、裸足のままとんでもない場所に 迷い込んでいた。
鬼には近付く事が出来ないとされている場所。
……そう、あの隣の領との境にある川……

確かに体中がビリビリと痺れるような感覚がするけれど、それでも それ以上今の私には何も感じられない。
どこか感覚が麻痺してしまっているのだろうか……

水際まで近付いて、ふと波一つたっていない深い深い色をした水面に映る私自身を覗いてみると、恐れ多いながらも抑えられない気持ちに揺さ振られ、悲しい目をしているのが自分でもわかった。
このままこの水の中に溶けてしまいたい……
邪な、図々しい思いを持ってしまった私を、どうか消して欲しい……

麒白様を愛しているという、気付いたばかりで抑えきれないたかぶる気持ちを抱える一方、麒白様に申し訳なくて堪らなかった。
あんなに大切に私を育ててくださった麒白様を、その意味もわからないまま図々しくも愛してしまい、ましてや麒白様の心の中にいた 『桜雲』  という大切な人を、『桜雲が望まなければ私が辛い思いを しなくても済んだ』 などと、汚すような事を望んでしまった。
こんな私は消えてしまえばいい。
麒白様の望まれていた 『白桜という名の桜雲』 になれなかった 私など、消えて無くなってしまえばいい……


鬼が近付くことさえ出来ないと言われているこの川。
何故かここまで近付けてしまったけれど、この川の水に触れれば 本当に消えてなくなれるのかもしれない……


嗚咽と涙が漏れそうになるのを必死で留めながら、ゆっくりと水面に向かって 指を伸ばした。

……麒白様、あんなに可愛がって頂いたのに 『桜雲』 に戻れなくて申し訳ありません。
私が 『桜雲』 だった事はわかっています。
麒白様が望まれるのが 『白桜』 ではなく 『桜雲』 の生まれ変わりであることも。
けれど私は……


その水面に触れるか触れないかの瞬間、『白桜っ!』 という 麒白様の声が後ろから聞こえた。
ハッとして振り向くと、初めて見る余裕の無い様子で麒白様が白いオーラを噴き上げながら 私の元に走り寄ってくる。

……早くこの身を消してしまわなければ。
麒白様に合わせる顔などないのだから……

慌てて視線を川に戻し、スッと指を伸ばして水面に触れようとしたその時、 今までに感じた事がない強い力で強引に体毎持ち上げられ、幼い頃から慣れ親しんできた 温かい感触に包まれた。
その温かさに我慢していた涙が一度に溢れ出していくけれど、それでも私は必死にもがく。

「離して下さいっ!離してっ……!」

「何故このような無茶をするっ?!」

「私はっ……私は桜雲にはなれません!
 麒白様の望まれる桜雲には戻れないのです!
 どうやっても……私は白桜のままなのです……
 ……こんな私は麒白様のおそばに置いて頂ける
 資格など……ない……っ」

……けれど、桜雲に戻れない自分を心から申し訳ないと思いながらも、それでも麒白様が 望まれているのが私自身ではない事が辛かった。苦しかった。
そしてそんなあさましい自分が、醜い自分が麒白様のお眼に 触れる事が、堪らなく嫌だった……

もがいてももがいても麒白様はその腕を緩めて下さらず、 私を抱き上げたまま黙ってどこかへ向かって歩き始める。
もどかしくて、着物が乱れる事にも構わずに、ついには癇癪を起こしたように両手で作った拳を麒白様の肩に打ち付けて泣き叫んだ。

温かい腕に包まれ、この温もりをのどから手が出るほど望んで いるというのに、これが私ではなく桜雲に与えられるべきもの だったのだと思うと、この温もりが逆に辛くて堪らなかった。
私と桜雲は一つの筈だというのに……


麒白様はある場所まで来ると地面に胡坐をかいて座り、私を 膝の上にのせた。
やはりその場所は……

……桜雲の桜……

過去の私がいた場所。
桜雲の強い思いが桜の花弁から芽を出させ、この場所から 麒白様を見守っていた。
そして麒白様はその桜を愛でながら桜雲を愛し、桜が枯れた後は 何年先になるかもわからないまま、桜雲の生まれ変わりである 私が現われるのを待ち続けていた。
そして私を桜雲の生まれ変わりとして、大切に大切に育てて来て下さっていた……

……敵う筈などない。
桜雲が望んだからこそ今の私がいるのだから。
桜雲がいなければ今の私の存在理由などなかった。
桜雲がそこまでの思いで麒白様をお慕い続けた気持ちが、今はこれ以上無いというほど理解が出来る。
だからこそ。
だからこそ身にしみてしまう。
私が 『白桜』 としていくら麒白様を思ったところで、それは もう遅いのだと……

麒白様の膝の上で麒白様の温かい腕を背中に感じ、その事が なお一層私の苦しさを増幅させ、両手で顔を覆いながら肩を 震わせて泣いた。
後から後から溢れてくる涙は両手でも覆いきれず、指の隙間から 零れ落ちながら桜雲と同じ薄紅色の着物を濡らしていく。
けれど、敵わないとわかっていてさえも、麒白様を求める思いを 止める事が出来ない。
『桜雲』 ではなく 『白桜』 である私も、こんなに麒白様を愛して いるというのに、この思いにはどこにも行き場が無い……