相変わらず私が黙っていると、やっと呼吸の静まった光鬼様が一度深呼吸をした後に口を開かれた。
「愛ってね、すごく不思議なものなんだ。
その人一人だけが特別。
だから僕は白桜や麒白や好きな人は沢山いるけど、
獅紅だけが特別。
だけどね、それだけじゃない。
その特別が不思議な形で変化していく人もいるんだよ。
僕はそれをずっと見て来た。」
そこまで言われた時、ふいに遠くから 『光鬼!』 と呼ばれる獅紅様の声が聞こえた。
『あ、行かなくちゃ!』 と言って立ち上がった光鬼様は、ふと今までに見た事がない表情を浮かべながら私に微笑まれる。
「白桜、みんないつでも白桜が大好きだよ。
それを忘れないで。」
****************
慌しく光鬼様が出て行かれ、頭がボーっとしたままただただ座りつくしていると、私を探しに来たらしい他の鬼から 『白雪様がお呼びですよ』 と声をかけられた。
茶器を運べなかった事でお叱りを受けるのだろう。
『今行きます』 と返事をし、そのまま白雪様の元に向かった。
予想通り白雪様は茶器の事で何かを申されていたけれど、私は最初に 『申し訳ございません』 と畳に頭がつくほど深く頭を下げたままで、心はまた先程までの思いに囚われていた。
息がうまく吸えないほど胸が重苦しい。
私が桜雲の生まれ変わりという事は頭では理解できた。
確かに桜雲と私の見た目は色が違うだけでほとんど同じだし、私の手には桜雲が残した桜の花弁の形をした痣がある。
だから間違いなく私は桜雲の生まれ変わりなのだろう。
それはわかったけれど、心はそう簡単についてこない。
桜雲が生まれ変わる事を望まなければ、私がこんなに辛い思いをしなくて済んだのに……
……いえ、そうではない。
そもそも桜雲が望まなければ私は麒白様とお会いする事など出来なかった。
けれどその麒白様も、何年も待ち続けた桜雲の生まれ変わりがこんな私だなんて、どんなにがっかりされている事か。
それを思うと申し訳なくて堪らなかった。
あんなに大事にして頂いて、あんなに可愛がって頂いたのに……
こんな事ならいっそ白桜としての思いなどなければ良かった。
けれどそれだったら私が麒白様にお会い出来ない。
麒白様……それを考えるだけで、私はどうしてこんなに胸が
潰れそうになるのでしょう……
****************
「……白桜……白桜……どうした……?」
その声にハッと我に返って顔を上げると、いつの間にか
白雪様のお姿はなく、正面で麒白様が胡坐を掻きながら
心配そうに私の顔を覗き込まれている。
慌てて赤くなりながら改めて平伏すると、私の頭を撫でられた後、
『いいから頭をあげなさい』 と言われた。
赤くなった顔を見られないよう、少し視線を下げたままで
頭を上げると、顎に指をかけられて顔を麒白様に向けられる。
「お前の悩みはどうしても私に言えない事なのか?」
心臓が口から飛び出してしまいそうなほど早鐘を打つ。
私を見ながら心配そうに揺れている麒白様の瞳。
あごに触れている温かな指。
そして何よりも大きな存在感。
いつも私はこのお方に息子のように大切にされて来た。
……けれど……
先程光鬼様が仰っていた事が突然よみがえって来た。
光鬼様は今の私と同じ様な思いをされて、それは光鬼様が獅紅様をお好きだったからと仰っていた。
確かに私も麒白様をお慕いしているし、これは好きだという気持ちなのだろう。
けれど、誰に対しても思うのではなく、私がこのような思いに囚われるのは麒白様だけ……
『愛ってね、すごく不思議なものなんだ。
その人一人だけが特別。』
その時突然気が付いた。
私は麒白様を父のようにお慕いしてきたと思っていたけれど、この思いは違う。
光鬼様が仰っていた、落ち着かなくて緊張してドキドキして、その人一人だけが特別、という思い。
そしてこの苦しくて切なくて泣きそうなほど強い思いは……桜雲と同じ、麒白様を求める思い……
そう理解するのと同時に、今まで自分の中に燻ぶってきた思いの全ての答えが出たような気がした。
これが誰かを 『愛する』 という事なのかもしれない。
……けれど、何のとりえもない一介の鬼の分際で、鬼神である麒白様を愛して良い筈がない。
ましてや麒白様は私を 『白桜』 としてではなく 『桜雲』 の生まれ変わりとして大切にして下さっていたのに、それにお答え出来ない自分がこんな図々しい思いを持ってしまうなんて、許される筈がない……
「……も、申し訳……ありません……っ!」
気付いた瞬間から溢れ出しそうになる 『愛する』 という思いと、それに反して自分の至らなさや桜雲に対する複雑な思いや、なにもかもが急激に込み上げて来てどうしたら良いのかわからなくなり、掴まれている顎を強引に引き離すと、そのまま立ち上がって麒白様を見る事もなく必死で駆け出す。
どこに行けば良いのかはわからない。
けれど着物の裾に足を取られながらもただただ夢中で駆け続けた。