演奏が終わる直前、麒白(キハク)は桜雲(オウウン)の
左手の甲にキスをした。
そして唇を離すと同時に二人を包んでいた青い光が消え、
二人は完全に体を離す。
また鬼火だけが二人を照らし出していた。
「少しは役に立てたかい?」
笑顔でそう聞くばあちゃんに、桜雲は着物の袖で涙をそっと
拭った後、少し恥ずかしそうに微笑みながら頭を下げ、麒白も
グイッと涙を拭って
「本当にありがとうございました。
決して叶う筈がなかった夢を叶える事が出来ました。」
と朗らかに笑った。
すると桜雲の体がいきなり透き通り始める。
「……そろそろだね。」
ばあちゃんが小さく言う。
僕と獅紅(シコウ)は部屋の中で座ったまま身動き出来なかった。
……今、ようやく思いが実ったばかりなのに……
麒白は慌てて桜雲の体に手を伸ばしかけ、そこで止めた。
もう二度と触れる事は出来ないから……
桜雲は少しの間透けていく自分の手をじっと見詰め、
それから僕達の方を見て話しだした。
「おばあ様、本当にありがとうございました。
こんな素晴らしい機会を与えて頂いて、もう思い残す事は
ありません。
それから光鬼(ミツキ)様、私は貴方と共に過ごせた事を
とても嬉しく思います。
これからも獅紅様をよろしくお願いしますね。」
桜雲の言葉に、ばあちゃんは微笑んで返し、
僕はうんうんと涙を流しながら必死で頷く。
お礼やらなにやら、言いたい事は沢山沢山あったのに、
いざとなると返す言葉は見付からなかった。
「そして獅紅様、今まで私の面倒を見ていただいて
ありがとうございました。
貴方様の下で様々な事を学ばせていただき、心から
感謝しております。
光鬼様とどうぞ末永く幸福にお暮らし下さい。」
獅紅は桜雲をしっかり見詰め返しながら、一度だけゆっくりと
頷いた。
その間もどんどん桜雲の体は透けていく。
そして桜雲は麒白に向き直り、真っ直ぐに麒白の瞳を見上げた。
「麒白様、私のような者に思いを寄せていただいて、
本当に本当にありがとうございました。
決して届かぬだろうと思っていた気持ちを受け入れてくださり、
そしておばあ様のおかげで貴方様に触れさせて頂けた事、
心から感謝致します。
貴方様とめぐり会えて、私は本当に幸せでした。」
麒白は目を見開いたまま、もうほとんど見えなくなっている
桜雲の桜色の目に釘付けになっていた。
桜雲は先程麒白が口付けた自分の左手の甲に、そっと唇で触れる。
「たとえ形は変わっても、麒白様の温もりだけは決して
忘れません…………どうかお幸せに……これからも……
………永遠に貴方だけを………愛しています…………」
「桜雲っっ!!」
麒白が手を伸ばそうとする。
すると今までに見た事がないほど、それはそれは綺麗に笑って
桜雲は消えた……
後には桜の花弁が一枚落ちている。
麒白はそれをゆっくりと拾い上げ、ギュッと手の中に握り締めた。
「……私も……私も永遠にお前だけだっっ……!!」
麒白は涙を流しながらそう叫び、一瞬後、その形が見えなくなる程の
真っ白なオーラに包まれながら空に飛び立った。
辛さや苦しみや悲しみや
それら全ての遣り所(やりどころ)を求めるように
金色の角を持つ真っ白な鬼神が
慟哭しながら一晩中天空を駆け巡った…………