アウトサイドワークス

15

 

 サラマンダーのビビが決意を固めている頃、こちらのビビは相変わらずのメイド服を着て、エルエイと一緒に仕事をしていた。午前中に叱られてから、まだ一言も口をきいていない。ただでさえ不慣れなメイド仕事に加えてこの状況というのは、はっきり言って息が詰まる。

 そしてビビは誰かに嫌な思いをさせてしまったらすぐに反省して謝ることが出来るのだった。

「ごめんなさい」

 仕事が一区切り付いたところで、ビビはそう頭を下げた。

 エルエイは「私のほうこそ」と案外優しい声で言った。

「どうかしていたかも知れません……。知らなかったことを色々、あなたの口から伺って、……お気を悪くなさらないで下さい」

 ううん、とビビは首を横に振った。エルエイはビビが思っていたよりもずっと大人なのかも知れない。

「そういうこと、興味あるのは、おかしなことじゃないと思うし……」

 しかし相手は女の子だ。ビビとしては男の子も女の子も、同じように不慣れな相手である。

 考えてみれば、年の近い女の子とこれほど長く過ごす経験というものがビビには一度もないのだった。この二日足らずの間に随分と数多く困惑をしたけれど、其れがそう悪いものではないということは、いまの少年自身の身に染みて判っていることだ。

「……エルエイの、妹さん。きっとミ・ロードとうまく行くよ。うまく、……行くといいよね」

 言ってから、残酷なことを口にしたかとビビは案じた。だがエルエイは少しも躊躇い無く微笑むと「ええ」と頷いた。

「お気遣い、感謝いたします」

 其処に、影を見出すことはビビには出来なかった。かといって、安心しきったわけでもない。人はそういう笑顔を浮かべることが出来てしまう生き物だ。

 案じるビビに気付かぬように、エルエイは「少し、休みましょうか。昼からずっと手伝って頂いていますから、お疲れでしょう」とビビを労った。

 エルエイがビビを連れて行ったのは、昨日と同じ紅茶屋だった。二人のメイドは昨日と同じ窓際の席で、安価で美味な紅茶を飲んだ。もうビビは紅茶を零すことは無く、仮に零したとしても今日は一応普通に近いシルエットのパンツを穿いているから安心だ。シルエットは真っ当でもほぼ透けて覗けるものであったが。

「昨日、あなたは私に『すごい』と仰いましたね」

 細い指でドライフルーツを摘み上げ、其れを美味しそうに唇に放り込む。所作の一つひとつがとても上品で、ビビは眩しいような思いでそれを見ていた。

「ん? ん。だってエルエイは、ちゃんとお仕事してる。僕もおうちではお掃除やお洗濯はするけど、ちょっとだけだよ。エルエイみたいに一日中働いてるわけじゃないもん」

「私だって一日中働いている訳ではございません。……ほら、こんな風に」

 エルエイがよく笑顔を見せてくれるようになったことに気付く。それはビビにとって、意外なほど嬉しく感じられることだった。ともすれば冷たい印象になりがちな真っ白な顔は、しかし微笑むととても優しい曲線を描くのだ。

「私から見れば、……ビビ、あなたはまた違った意味で『すごい』と思います」

 何を言われたのか思い当たって、ビビは頬を赤らめる。エルエイは俯いて微笑んでいる。

「私はそういうことに、とても疎いので……、妹がミ・ロードにそういう思いを抱いていると知ったときにも、戸惑うばかりでした。正直に言えば、……困ってしまいました。だって、あまりに年が離れています、身分もまるで違います、……それなのに、あの方に恋をして、それこそ伏せってしまうほどに真剣に思い悩んでいる幼い妹を見て、どうしたらいいか判りませんでした」

 エルエイは美しい黒髪に光を集めて顔を上げた。ビビにはその顔がどこかさっぱりと爽やかで、同時に力強いものであるように思えて、どきりとする。化粧、といってもとても薄いものだ。それでいて、あの邸で働くメイドたちの中でどう控えめに見てもエルエイがとびきり美しいのならば、エルエイの妹もまた同じように美しいのだろう。

「……いまなら、私は妹に言ってあげられます。いまはただ、待てばいい、私と入れ替わりに邸で働くようになったとき、それまでその気持ちが変わらないのなら、あなたの思いはきっと報われるからと」

「妹さん……、は、いまいくつ?」

「七歳、もうすぐ八歳になります。そして邸に入るときには、九歳。私はそのときにはもう十五ですから、妹をミ・ロードにお任せして、何か別の仕事に就くことになるでしょう」

「九歳……。僕がジタンたちと会ったのも、九歳のときだよ」

「……それは、つまり」

「うん、と、えと、だから、九歳だったら」

 エルエイは蘭の花のように微笑んだ。

「どうでしょう。私の妹は私以上に物を知りませんから、あなたのようには多分出来ないでしょう。でも、一緒に居るうちに道が開けることはあるかもしれません」

「そう……、うん、だと、いいね。……えっと、エルエイはまた何処かのお邸でメイドさんをするの?」

 エルエイは首を横に振る。

「もう、出来ません。そもそも二年後までお邸で働けるかどうかも判りません」

「……それは、どうして?」

「さあ……、どうしてでしょう」

 ビビが釈然としない顔をしている。エルエイはそれを見て何か愉しそうな顔をして、それから紅茶を一口飲んだ。

「そろそろ戻りましょうか。もうさほど仕事も残ってはおりませんが、あまり空けてもいけませんから」

 ビビのカップが空になったのを見て、エルエイはそう言った。帰り道、ついビビはエルエイの顔を見た。その美しい顔に、少しの影もないことを祈りながら、何度も見上げた。華奢で美しい少女は背筋を伸ばして歩き、その姿だけで幾人もの街人は振り返る。そんな美しい人の隣を歩いているのだと思えば、ビビは少し緊張する。

「あの」

 ぎゅっと、自分の左手を右手で握ってビビは言った。

「……僕、は、僕のお仕事、頑張るよ」

 急な物言いに、びっくりしたようにエルエイが目を丸くした。

「その、……エルエイと、あとエルエイの大事な人が大事にしてるものが取られないように、頑張る」

 僕の背があと五センチ高かったら。そんなことをビビは生まれて初めて思った。

 そうしたらこの言葉だってもう少し、力強く届けることが出来たかもしれない。

 エルエイは微笑んで頷いた。その微笑みは多分、彼女が妹に向けるものと同じ質のものだっただろう。

 それが思いのほか寂しく、悔しく感じられて、しかし重ねて言葉を並べるような真似を、ビビはせずに済んだ。朝からずっと休み無く警護についていた288号が、ようやくの休憩に出てくるのが見えた。

 背の高い彼は二人のメイドの姿を見とめると、にこりと微笑む。高貴な姿が三人の中で最も似合うのは、言うまでも無く彼である。

「出掛けていたの?」

「うん。エルエイと一緒にお茶を飲んで来たんだ」

 差し障りの無い会話の途中で、288号が背中を丸めてビビの耳元に囁いた。「サラマンダーは?」

「見付からなかった。……でも僕、見たんだ、ちゃんと」

「うん、判ってる。多分街の外に居るんだろう。彼らがどういう意図でやって来るのかは判らないけれど、僕も油断しないようにするから」

「ジタンたちにはもう言った?」

「まだ言っていない」

「うん、……多分、言わないでいた方がきっと、いいよね」

 288号は頷いた。エルエイに会釈をして、街路へと出て行く。

 288号と何を話していたのか聴くような無作法を、エルエイはしなかった。ビビの先を立って歩いていた彼女は、ふと立ち止まって中空を見上げる。

「……エルエイ?」

 彼女の浮かべた視線の先には、古ぼけた老女の肖像画が掛かっている。穏やかに微笑んで、彼女を見詰め返しているように、優しい視線を投げていた。

「あれは、誰の絵?」

「ミ・ロードの、お母上の」

「……ミ・ロードのおかあさん?」

 あの金の鬣を持った獅子のような印象の男の母とは俄かに信じられないほど、優しい相貌の老女を、今一度ビビは見上げた。

「お守りくださっているのです、この邸を、私たちを」


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