「離せ」
「落ち着いて。彼は自分の意志で出ていったの。あなたにそれを咎める権利なんてないはずだわ」
「権利? そんなの関係あるか、アイツは、アイツはなあ……」
心を抑えようという努力は言葉を発するにつれて途切れ途切れに。じわ、と視界が滲む。
「アイツは……、もうそんな長くは、ねえんだよっ、だから……」
声が揺らいだ。
「……あの子は一人で出ていった。あなたに気付かれないように、夜を待って、あなたが眠ってから。あの子がいくら頭のいい子だからって、まだ九歳の子供が寂しさを耐えてそんな行動に出るなんて、ただごとじゃない、必死に考えた結論。……あの子の心を大切に思う気があるのなら、あなたは追ってはいけない」
ミコトは冷静な声でジタンを諭す。
心が萎んだ。
ジタンはがくりと膝を突き、知らず、唇が名を呼んでいた。
「……ビビ……288…」
あんたの言ってた事は、ホントなのか?
中途半端な安心感と、やはり強大な絶望感に襲い掛かられて、鳴咽を停められない。ジタンは心が自棄糞になっていくのを感じながら、頭の中でたくさんの可能性を並び立てて苦悶し始めた。
可能性に全て委ねて結果を待つことの痛みだ。どうせ駄目なんだと決め付けてしまえばどんなに楽だろう。しかし事は簡単なものではない。 自分にとってこの世に唯一人の宝物を失うかもしれないのだ。
冷静で居られるはずがない。
「……ミコト」
絞り出すような声で言った。
「……ひとりに、してくれ」
――そもそも自分は、どうするつもりだったと言うんだ?
ビビの命が限られたものであることなど、解かっていた。288号は「ビビは生きられるかもしれない」と言ったけれど、それも半分以上信じたわけではない。寧ろ、限られた時間しかないのであれば、短くとも幸せな日々を過ごそうと思った。
しかし、微かでも希望を点されてしまえば、全てが幸福につながっていると思いたくなる。ひょっとしたら大人になっても二人で一緒に居られるんじゃないか、そんな風に考えてしまう。……そんな自分の姿はひどく卑小だと分かっていても、しかしビビと過ごせる一生があるなら、どんなにカッコ悪くなっても構わないとジタンは思う。
……288号の言った言葉は、どこまで信じていいものだったのだろう。
彼は、ビビが「黒魔道士」として停まってしまう可能性は否定出来ない、と言った。それはつまり、人間として「死ぬ」ということなのか?
彼は、「なんとかしてみせる」と言っていた。 しかし、本当に「なんとかして」くれたのだろうか。彼は既に止まり、ビビもそう長くない。 そんな中で、「ひとりで」出ていったビビは、何かの可能性があって出ていったのか。
288号が遺した可能性のために?
俺はどうすればいい?
俺に何が出来る?
「やあ、……来たね」
彼の入浴だけを糧にした生活は二週間目に突入していた。予想していたとおり、彼の肌はますます艶やかになり、彼は退屈な日々にも十分な満足を得ていた。
「なにを固まっているんだい? ……ああ、ちょっと待っていて。こんな格好では驚くのも無理ないね。服を着るから」
湯を滴らせ、全裸の彼は泉の側に置いたタオルで身体を拭うと、衣を身につける。身につけた結果も、羅衣というより、裸同然なのだが。
目を真ん丸にして硬直したビビに、芝居がかった礼をひとつ。 そして、にっ
こりと笑う。
「久しぶりだね、ビビ。……僕の事を忘れてしまった訳ではないよね?」
帽子をひょいと取られ、びくんっと震えた。
「相変わらず、君は可愛い」
クジャはそう言うと、片手でその小さな身体を軽々と胸に納め、強ばった頬に口付けた。
「……そろそろほぐれてくれないかな。僕も、色々事情があってここにいるんだ。別に昔みたいに君にヒドイことするためじゃない。その事を謝ろうとさえ思ってるんだよ、僕は」
ビビを下ろし、元の通り帽子を被せてやる。クジャの声が妙に――彼が発したことのない心の部分からの声だから、素っ気無い声で言った言葉に、ビビはようやく我に帰った。
「あ、あ、……あ」
「とりあえずさ、こんな所じゃ何だから、上に行こう。座ってゆっくり話そう。ね?」
小さな小さな子供を扱う術がこんなに上手な自分だ。言葉の使い方や、心の動かし方のちょっとした違いで、こんなに変わる。今と昔、本体は少しも変化していないのに、誰かの為にするということがそんなに大きいんだろうか。
自分の分よりもまず、大切な客人のために、ミルクティを入れる。
目の前のカップを恐る恐る覗き込むビビに、クジャは笑った。
「毒なんて入ってないよ。……長旅で疲れているだろう?」
ブリキのオモチャの如くぎこちない動きで手を伸ばし、恐る恐る、少し温めに作られたミルクティを一口、含んだ。
クジャは安心したようにふっと息を吐くと、少しの間天井を見上げた。
天然の洞穴、狭く、蒸し暑く、何も無い。僕だったらこんなところ嫌だね。こんなフシアワセな所、嫌だ。
でも、この子は幸せから不幸せになって、また幸せになった。これからまた少し不幸せになるけれど、僕が幸せに。
「……まず、最初に」
自分もミルクティをひとくち呑んでから、切り出した。入浴の後だというのに、その肌からはすでに汗は引いている。
「僕には、知っての通り、もうあまり時間が無い。……いや、実際にはもう、止まっていておかしくない時間を迎えている。だけど、僕は君の知り合いに頼まれて、ここにいる。その男から、時間を委ねられた」
クジャは、ビビの表情が変わるのを見終わってから、言った。
「僕にしか出来ないことがあるんだってさ」
ビビに聞こえていたかどうかは解からない。ビビは呆然とクジャの顔を見詰めているばかりだった。
ただ、ようやく紡いだ言葉は、「その男」の名だった。
「……288号……」
そうだよ、クジャは頷いた。
「彼は、僕に、僕の罪を償う最後のチャンスを与えてくれたんだ。……君たちを助けることで、ほんの少しだけど僕の罪を贖うことが出来る……と」
ビビは正直、気持ち悪い、と思った。それはもちろん、かつての敵が相手とはいえ失礼なことだと思ったけれど。
クジャが浮かべた、優しげな微笑みに。
「君は、僕の弟の事を愛してくれているんだね」
こんな顔が出来る人なのかと思ったのだ。
笑うのが得意な人だというのは解かっていた。ただ、妙に芝居がかっていたり自己陶酔に浸っていたりして、決して気分のいいものとは言えなかったとしても。だがその上手に作った笑顔ではなく純粋なぎこちない笑顔は、作り物のものより劣っているとは言えないようだった。
「……知っているよ、君たちのことは。僕がこう思うことはとても傲慢なことかも知れないけれど、心から君たちの間に存在するこころを、祝福したいと、僕は思った。……僕のために、そして、君とジタンのために」
自分勝手だと思うだろう?
僕だってそう思う。
クジャは続ける。
「僕に、償いをさせてもらえないだろうか」
首の筋肉が骨が、軋んだ。目の前が薄暗くふさがる。こんな風景は見たことが無いと思った。
全身が紅く腫れぼったい感じになるのを覚えた。
「……自分がしたことが許されるなんて思ってない。だけど……取り戻すことが出来るならって、思う。……僕が未来の為に出来る唯一出来ることがあるって知ったとき、僕はいても立ってもいられなくなってしまった。……お願いだ」
生まれて始めて頭を下げたのだ。
「僕の償いはまだ、終われない…。君たちを再び結び付けただけでは、まだ、何も生み出せない。君が此処に来るまでの姿を僕は、ずっと見ていた。何度も何度も振り返って、泣きながら、ジタンのことを想って、ここに向かっている姿を、僕は知っている。君が、深く深く、ジタンのことを愛してくれていることが、とても嬉しくて、そして僕は自分の犯した過ちを益々許せなくなった。君たちが、当たり前の幸せを、手にするために、僕の作り出した理不尽を、僕に消させてくれないか。……君たちの未来を創る…その手伝いを」
机に額を付けるほど深く、懇願した。
「僕にさせて、もらえないだろうか」
こうして頭を下げることに、少し前までは死と同等の屈辱を憶えただろう。
しかし、クジャは思う。僕はどこまでも損得勘定で動く人間なのだ、と。
あの時の288号も、プライドを全て捨てて頭を下げてきた。彼もまた、頭の中の算盤がよく働く男なのだろうと、クジャは思った。
「……君の、命を繋げに来たよ」
小さなちいさなでぐのぼう、僕の指で死んでしまうでぐのぼう。
「でぐのぼう」がクジャを、記憶の旅に導くのだ。愛しい者の記憶に、幸せな形で生き続ける旅にクジャも連れて行く、そのために、黒魔道士TYPE-C288号は、言った。
「……僕は君が嫌いだ。だけど、君を嫌いと思う気持ちよりも、彼らを愛しいと思う気持ちの方がずっと上だ。……そして、君が同じ気持ちでいてくれている事を、僕は知っている」
「……猿小僧、余計な事を言ったな」
「……ちっとも余計な事じゃない。彼が君の事を口にしなければ、彼らはまもなく悲しみに暮れることになる」
そこで言葉を切ると288号はクジャの眼前に跪いて、絞り出すような声で言った。
「お願いです。ジタンと、ビビを、幸せにしてあげてください」
自分の屈辱なんてもうどうでもいいくらいに、幸せにしてやりたいという痛烈な感情を共有していた。その姿を目の当たりにしてクジャは、自分の犯した罪を心から悔いずにはいられなかった。