全部覚えてる〜忘れたくないU〜(3)道を走りながら携帯をチェックする。着信は無い。 そのまま家に電話する。 「お母さん、やす菜ちゃんから電話とか無かった?」 「『あらへんよ…なんや息せきって』」 「わかった…何でもないよ」 とにかくやす菜ちゃんの家に向かう。 やす菜ちゃんの家の前、僕は深呼吸一つしてからチャイムを押す。 ピンポーン。 「はい」 女性の声、でもやす菜ちゃんじゃない。やす菜ちゃんのお母さんかもしれない。僕の背筋に 緊張が走る。 「あの、大佛と申しますが、やす菜…さんはいらっしゃいますか」 少しの沈黙の後、返事が聞こえる。 「あ……一寸待ってね」 ドアが開く。 そこにいたのは、やす菜ちゃん本人でもお母さんでもなく、男の人で。年回りや面影からも やす菜ちゃんのお父さんかと思えた。この人の後ろにいるのが、多分やす菜ちゃんのお母さん なんだろう。 男の人が僕に話し掛ける。 「君が大佛はずむ君だね」 「は、はい」 あらためて背筋を伸ばし、僕は返事する。 「やす菜の父です。はじめまして」 「あ…はじめまして」 お父さんが右手を差し出す。僕も慌てて挨拶しながら右手を出し、握手をする。 「ありがとう」 「え?」 お父さんの言葉に僕は顔を上げる。 「やす菜が私達に自分の…病の事を話してくれたのは君のおかげだ」 「僕の、ですか」 お父さんは小さく頷いて、話を続ける。 「やす菜は子供の頃から他の子とは違っていた…と言っても、異常な行動をしていたとかじゃな くてね、人との対応も知能も普通だった。けどね、常に自分の周りにバリアというか、薄い膜を 誰にも触れられないように張っているようだったんだ、あの子は。私達相手でもね」 話に頷きながら、僕は出会ったばかりの頃のやす菜ちゃんを思い出す。 孤高な美しすぎる人。山の頂に咲く一輪の百合のような。 あの時の僕はそんな彼女を遠巻きに見やるのが精一杯だった。 「私達も何度か医者に調べてもらおうと思った事があったんだよ。でも、そのたびに『私は大丈 夫、信じて』と笑顔で言われて…何もできなかった。けれど…」 その時のやす菜ちゃんは独りで、でも、きっとそれが当り前で。自分の病だけを道連れに生き ていこうとしていたのかもしれない。 「いつからか、話の中に君の名前が出るようになってから、あの子は確かに変わったんだ」 「ぼ、僕の話…」 とまどう僕の方に小さく笑いかけ、お父さんは言う。 「やす菜は君と君のお友達の話をする時、心底楽しそうだった。本当の笑顔だった。それを見ら れれば私達は満足だったよ。それが私達に向けられる笑顔でなくてもね……」 お父さんが後ろのお母さんの方をちらっと見る。 お母さんが目を潤ませながら言葉を続ける。 「でもね、やす菜は全部私達に言ってくれたんです。病の事も自分の夢も…自分の世界を広げた いと。やす菜は……」 涙声になるお母さんの後をつぐように、お父さんが言う。 「それでね、私達にもいつか本当の笑顔を見せたいと思ってくれたんだ」 そうして僕のほうをもう一度見ると、にっこり笑って言ってくれた。 「後はやす菜に直接聞いてみるといい。君に話したい事が一杯あるみたいだったよ」 「はい」 「さっきも学校に転校のための手続きの書類をもらいに行っててね、帰ってくるなり『お礼をしに 行かなきゃ』って制服のままフルートを掴んで飛び出して行ったんだよ」 顎に手を置き、考えるような格好でお父さんが呟く。 「てっきり君の家に行ったのかと思ったんだけれど……」 お礼に……僕の心の中に、ある風景が浮かぶ。 「…わかりました。心当たりがあります、そこに行ってみます」 二人に一礼すると、僕は再び走り出す。
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