全部覚えてる〜忘れたくないU〜(4)今日何度かめの全力疾走。息も胸も苦しくて、足も重くて、それでも。 身体が、心が、僕をせかす。もっと、もっと、目一杯走れ、大佛はずむ! 見慣れた建物に僕は飛び込み、階段を駆け上る。かすかに僕の耳に届く音色が段々とはっきり したものになる。重い扉を開ける。 目に飛び込むのは一面の濃い緑。僕に親しい植物達。その中央にいる人は。 柔らかな黒髪を風になびかせて。誰よりも優しい音楽を奏でる人。 僕はその音色に心響かされ、言葉をかけるのすら忘れ、そのまま目を閉じる。あの日のように、 初めて彼女の音楽に触れた日のように…頬を涙が伝う。 やがて演奏が終わり、ゆっくりと目を開ける。僕に柔らかな笑顔を見せながらその人は言った。 「はずむ君……やっぱり、来てくれた」 涙を見られたのが急に恥ずかしくなって、慌てて涙を手の甲で拭いながら言う。 「明日太から留学の事聞いて、やす菜ちゃんのお家に行ったんだ。そうしたら、お礼をしに行くっ て言ってたって教えてもらったから…ここかなって」 「……聞かせたかったのは本当だけど、怖くて一寸言い訳してたの。もし、はずむ君が来なかっ たとしても『私はここの草花達に音楽を聞かせに来たんだ』って」 愛しさに僕は目を細め、やす菜ちゃんを見る。 「ここで私は初めてはずむ君に会えたから……ここの草花達とおしゃべりするあなたを。今まで 他の男の人達と同じ筈だったのに、あの時、草花への言葉が私の中にも入ってきてくれたの」 そこまで言ってから、はっとした様に僕のほうを振り返り、不思議そうに僕の顔を見ながら聞 いてくる。 「お礼にって…私、この事、言ったことあったかしら」 僕は首を横に振りながら答える。 「無いけど、何となく。僕もね……」 僕は周りの植物達をぐるりと見回してから言葉を続ける。 「ここの皆が最初に僕にやす菜ちゃんの事を気付かせてくれたんだ」 何の事だろうと不思議そうな顔のままのやす菜ちゃんに僕は笑いかけながら言う。 「この子達が元気が無い時に、音楽室から聞こえてきた音色を聞いて、皆が元気を取り戻したん だよ。僕の心にも沁み入って来る様な素敵な優しい音色で。誰が奏でてるんだろうって気になっ て、こっそり見に行ったんだ……そこにはやす菜ちゃんがいた」 僕はやす菜ちゃんの方に歩きながら言葉を続ける。 「ひとりで無心にフルートを吹いているやす菜ちゃんがいたんだ」 やす菜ちゃんもまた、僕に一歩近づきながら言う。 「ここの草花達は私たちの月下氷人ね」 「月下……?」 疑問顔の僕にやす菜ちゃんが教えてくれる。 「月下氷人。仲人さん。二人を結び付けてくれる人をそう言うんだって」 「そうなんだ……月下美人って植物なら知ってるけど…年に一度だけ、夜に開く花なんだよ」 僕はつい、そっちの方に話が脱線する。やす菜ちゃんがくすっと笑って、それから言った。 「向こうで日本に無いような珍しい植物見つけたら、写真に撮って送るね」 「あ……」 僕は言葉に詰まる。そう、やす菜ちゃんはもう自分で決めている。大切な夢を実現するた めに。 「留学も、やす菜ちゃんの夢のひとつだったんだよね」 行くな。なんて言っちゃいけない 「だから…ううん、だけど…」 駄目だ、引き止めちゃ、それに、きっと引き止めたって、変わらない。 ためらう僕にやす菜ちゃんが言う。 「はずむ君、私はここから逃げるつもりではないの」 「う、うん。わかってる、わかってるよ」 「私ね、男の人の姿がちゃんと見えなくて、そのせいかわからないけど、よっぽど集中しな いと声も聞き分けにくかったりするの」 「大変だよね」 それぐらいしか言えない自分が歯痒い。 「でもね、音楽は違うの……同じオーボエでもこれは内田先輩の、今のは里見先輩のって ちゃんと聞き分けられるの。だから、音楽が何かのきっかけになってくれるんじゃないかと 思うの」 「…そうなんだ」 「それにね、私が行くニューヨークにはね、有名な良い精神医学の先生がいて、その人に診 察してもらえることになったの」 でも、それは日本でじゃ出来ない事なのかな。出かかってる言葉を僕は必死に飲み込む。 やす菜ちゃんがもう一度植物達を見回しながら言う。 「ずっと独りで生きていけると思ってた。世界に色なんて無かった。自分以外の人たちが勝 手に動き回るのを、眺めていれば時間が過ぎると思ってた」 「でも、僕らは出会うことが出来た」 あの頃に戻ってしまう訳も無いのに何故だか、僕は少し慌てて言う。 僕に緩く微笑み、やす菜ちゃんが言う。 「そして私の祈りの通り、はずむ君が女の子になって。それで、今度は運命だと思ったの。 二人は対になれるはずと……貴方と二人だけの世界があればいいのにとすら思ってた」 かける言葉が見つからず戸惑う僕の顔をやす菜ちゃんが真っ直ぐ見る。 「……今は違う…の…」 「え、それって――」 僕の言葉を遮るようにやす菜ちゃんが言う。 「はずむ君が私の事を抱いてくれた日――」 ドキン。僕の胸が強く鼓動する。 「あの時はずむ君は確かに触れてくれた…身体だけじゃなく、心にも」 僕は俯く。やす菜ちゃんが言ってくれた事に頷く自信が持てずに。 そんな僕を見て、やす菜ちゃんが言う。 「本当よ。あの日に、あなたが自分の思いを伝えてくれたから、私もお父さんとお母さんに 自分の思いを、本当の事を伝えたいと思えるようになったの」 「そうなのかな、僕は自分がしたいように、しただけじゃないのかな」 僕は顔を上げられない。だって、それでも僕がやす菜ちゃんを汚してしまったのは、やっ ぱり事実だから。 「欲望だけなんかじゃなかった、はずむ君は愛してくれたわ…だって、私は感じられたもの あなたの腕の中から私の世界が広がっていくのを……」 僕は思わず顔を上げる。やす菜ちゃんと目が合う。 「それでね、思ったの、今まで自分は何をしてたんだろうって、うずくまったままで、勝手 に自分の世界を狭いものにしてたんじゃないかって……はずむ君、私立つね、自分の足で。 そうして自分の眼で世界を見渡すの」 「やす菜ちゃん……」 僕はまた一歩近づく。 やす菜ちゃんの髪の香りを感じるほどに。そして彼女を抱き締める、ぎゅっと。 伝わる思いが、伝えられる思いが、確かにここにある。 「ごめん。僕、また君から逃げようとしてた」 触れ合えばよかった。考えてるだけじゃなくて。恐れているだけじゃなくて。 「やす菜ちゃん、僕は君が好きです」 あの時はたどたどしいばかりだった告白を、今は自然と口にする。 「私もはずむ君が好き」 やす菜ちゃんもまた僕の背に手を回しながら言う。 「この病が治るかどうかはわからないけど、それでもこの世界で、二人きりじゃない…皆が いるこの世界ではずむ君と生きていきたい」 どちらからともなく僕らは手をそっと解き、見つめ合う。 やす菜ちゃんが言葉を続ける。 「今度会う時は、きっと今とはどこか違う自分を、新しい私をはずむ君にも、皆にも見せら れるはずだから」 僕の事を見つめる瞳。つらそうな眉の形で、それでも怯まず僕に告げる。 「だから、はずむ君は覚えていてね。あなたに告白されて逃げてしまった卑怯な私を、女の 子になってしまったあなたの事を密かに喜んでしまった醜い私を」 不安げなやす菜ちゃんの眼を見つめながら、僕もまた、きっぱりと言う。 「大丈夫。そんなやす菜ちゃんも僕の好きなやす菜ちゃんだから。前に君が言ってくれたよ うに僕も、やす菜ちゃんを忘れない」 そっとやす菜ちゃんの手を取り、自分の胸に押し当てながら僕は言う。 「僕は待ってる。大丈夫。ほら、ここに、僕の心の中に、いつもやす菜ちゃんがいるから」 「うん…信じる。私も同じだから」 そして僕らは指を絡ませて離れぬ心を確かめあい、口づけを交わし、変わらぬ愛を誓う。 植物達を公証人に。 僕の気持ちにもう迷いは無いから、いつだって君の全部を思い出せる。 君の全部を僕は覚えている。 だからもう。 忘れたくないなんて言わない。
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