(あ、危なかったぁ)
その女性は社長室に向かうエレベーターの中でドキドキする胸に手を当てながらホッとため息をついた。
(三森ちゃんと通君がいるなんて思わなかった)
そしてハンドバッグの中から手鏡を取りだし、自分の顔を見て、クスッと笑った。
もちろん、その女性は百合の変装した姿であった。
(危険はどこに潜んでいるか、わからない、っと……)
そして、つい1時間程前の出来事を思い出す。
それは陽の光が注ぎ込む無人のビルの中。
埃が散り積もる廃墟には似つかわしくない、二人の少女の姿があった。
一人はセクシーマジシャンスタイルの星音ニーナ、もう一人はメガネをコンタクトに変えた、私服姿の四阿百合である。
「百合ちゃん、準備はいい?」
「はい」
ニーナと百合は、互いに顔を見合わせる。
そしてニーナは両手を前で合わせ、祈りを捧げるようなポーズを作り、言葉を発した。
「聖なる星の聖なる音。今悠久の時を超え、星々の旋律を奏で、漆黒の薔薇に誓いし乙女に力を与えん。いざ天に舞え!ホーリースター!!」
百合の全身が不思議な光に包まれていき、服装が変わっていく。
手には腕まで覆う黒の長手袋が。
足には太ももまである長い黒のソックスと、膝下の高さの黒いブーツが。
目には表情を隠すマスクが。
上半身には胸元が割れ、やたらと胸元を強調した黒いローレグのレオタードが。
やがて光が収束し、 怪盗黒薔薇が姿を現した。
「……って、ニーナさん!いつもとコスチューム違いませんか!?」
変身を終えた百合は、恥ずかしそうにしながら、股間を隠すように両手を当てる。
しかしニーナはチッチッチッと指を振った。
「なーに生娘みたいなこと言ってるのよ百合ちゃん。愛しの通君と相思相愛となった今、羞恥心を捨てて積極的にアタックできるくらいの度胸を身につけないと!」
「だ、だからその件は誤解だと!!」
「誤解も六階もないわ!これはあたしからの愛の鞭だと思って!」
「思えません!」
「……まぁ今回は、昼間に乗り込むから流石にそんな目立つ姿じゃ行けないから、変装してってもらうけど」
そしてニーナはぺろっと舌を出す。
「……このお仕事が終わったら、覚悟してくださいね?」
百合は大きくため息をついた。
出した予告状には「本日」としか書いていない。
しかし、いつも深夜になって盗みにはいるため、誰もが怪盗黒薔薇は夜になると現れるものだと思いこんでおり、結果として昼間は比較的警備が手薄になっている。
百合とニーナはその心理的盲点をつくことにしたのである。
(さて、気を引き締めなくっちゃ)
百合は手鏡をしまってエレベーターを降りると、廊下を歩いて行き、社長室の扉をノックした。
中から「どうぞ」と言う厳かな声が聞こえてくる。
百合は「失礼します」と言って中へはいった。
そしてぺこりと御辞儀をして扉を閉める。
「よく来て下さった。私が社長の山羊村功司郎です」
「フェレス通信のポーレル=アルカネットです。本日はお忙しい中、ありがとうございます」
「いえいえ。ささ、どうぞ。そちらにおかけになってください」
名刺交換が終わると、見るからに若そうなその社長は、百合をソファへ腰掛けるように勧めた。
百合もそれに応じてソファへと腰掛た。
「すみませんが目が悪いもので、このままサングラスを着用したままで、失礼させていただきます」
「構いませんよ」
「早速ですが社長、電話でお話したように今話題の『マジカル・シュガー』の特集を組みたいのですが」
「ええ。こちらこそよろしくお願いします」
「それで社長、この商品はいったいどんなところに魅力があるのでしょうか?」
「それはですね、食べながらやせることができると言う、まるで魔法のような食べ物なんですよ」
「それは凄いですね。でも、食べながらやせられるなんて、ちょっと信じ難い話なんですが……」
「確かに皆さん、最初はそうおっしゃいます。しかしこの商品を食べてからは信じられないくらい痩せられたと、全国から喜びの声が届いてますよ」
山羊村は雄弁にそう、語った。
まるで罪悪感のかけらもない。
しかし百合の瞳がサングラスの奥底で光ったことに、山羊村が気がつくはずがなかった。
「そうなんですか……こんな普通の砂糖を食べ続けるだけで、痩せられるものなんですね」
「!!」
その言葉に山羊村の顔色が変わった。
「な、なにがいいたいのかね、君は……」
「つまり、こういうことですよ」
百合は隠し持っていた黒薔薇を一輪、山羊村に向かって投げつけた。
黒薔薇は山羊村の頬をかすめて、壁に突き刺さる。
山羊村の頬から血がつーっと滴り落ちた。
「なっ……!」
山羊村は絶句しながら、百合を見る。
「クスッ……駄目ですよ山羊村さん。人々を騙すようなことしては」
そして百合は冷たく笑うと、指をパチンと鳴らし、変装を解いた。
「怪盗黒薔薇……参上」
「き、貴様……!!」
山羊村は驚きのあまり立ちあがろうとして、体の制止がきかなくなってることに気がついた。
まるで自分の体が自分の体でないような、そんな信じ難い感覚が体中を支配する。
「駄目ですよ山羊村さん。黒薔薇には毒があるって、ご存じなかったんですか?」
「な、なん……だと……!」
「予告通り『マジカル・シュガー』頂きます。……もっとも、もうすぐ何の価値もないものになるでしょうけど」
「くっ……!!」
悔しがる山羊村の顔を見て、百合は冷たく微笑んだ。
「黒薔薇の棘のように、あなたも茨の道を歩み続けるべきだったんです。人生、そんなに甘くはありませんから」
そしてガクッとうなだれたまま動かなくなった山羊村を見届けると、百合はカードを置いてそのまま社長室を後にした。