<5-3>

 すごい勢いで駅まで連れていかれた。定期券も、財布すらをも教室においてきてしまった俺に切符を握らせると、藤井はまた俺を引っ張り出す。切符の金額は、俺が家に帰るのに必要な金額よりも少ない。それがどこまでのものか確認する必要も無い。連れていかれる先は分かっていた。
 電車の中で隣に座った藤井は、ずっと不機嫌そうに黙っていた。前をにらみ付けたまま俺の方を見ようともしない。ただ右手だけは、痛いほど強く握られたままだった。
 藤井は怒っている。一言も口をきいてくれないし、俺の方も見ない。本人からハッキリ怒っているとも言われた。ここでいきなり文句を言い出さないのは、こんなところで喧嘩など初めては周りに迷惑がかかるからで、俺の事を考えてくれているわけではないに違いない。先ほどキスをしてくれたのだって、そうすれば俺が驚いて大人しくなると思ったからだろう。
 逃げたかった。だけどしっかりと手を捕まえられている。藤井はきっちり文句を言うまで、きっと俺を逃がしてはくれない。いくらでもやり方はあったはずなのに、もう立ち直ったから会わないのだと言えばきっと藤井は納得してくれただろうのに、自分の都合であんな卑怯な事をした。すんなり終るつもりなら何もしなければ良かったのに、往生際悪くあんな事をしたから、今藤井ににらまれる。
 自分が悪いのは分かっているのだけど……。
「コウ。先に部屋に行っててくれ」
 引きずられるように、いつの間にか喫茶店まで連れてこられていた。まるで周りが見えていなかった。あまりにあっさりここまで来てしまったことに自分でも驚く。電車に揺られて、ゆっくり歩くと切符を買ったところから半時間はかかるというのに。いつの間にそれだけの時間が経っていたのか、俺には分からなかった。
 それでも、部屋に行っていろと言われたからただ黙って頷き、ふらふらと二階に上がる。何度も来た場所だ。迷ってたどり着けないなんて言い訳は出来ない。
 藤井の部屋にたどり着いて、ぐるりと中を見回す。たった数日しかたっていないのだ、当然だけど中の様子は何も変わっていない。お気に入りだったクッションを見つけて、それを抱えるようにして座り込んだ。
「……ちゃんと、言わなきゃ……」
 今更遅いのは分かっていた。無駄なことも分かっている。帰ってくるだろう拒絶の言葉が、死ぬほど怖い。
 だけど。藤井はあんなにも怒っているのだ。二年の教室に乗り込んでくるほどに。俺があんな無責任なことをしたから、この数日間藤井はあんなに怒ったままの状態で過ごしたのだ。
「ごめん。待たせたな」
 藤井はいつも俺がここで待っていたときと同じように、盆にココアを乗せて持ってきた。この季節でもいつもホットを飲む俺のためにわざわざ彼が作ってくれるココア。喫茶店のメニューにはのっているけど、この時期にこれを飲むのは俺だけだといつか笑っていたそれは、そっとテーブルの上に置かれる。
「そんな隅っこにいないで、来いよ。ココア好きだろう?」
 確かに好きだけど、今の俺は何かを口に入れるような気分じゃなくて……。
 それでも無視するのはまずいだろうから、とりあえず俺はテーブルに近寄った。カップに手を伸ばしては見るけど、口に運ぶでもなくその持ち手を持ったまま、動くことが出来ない。
「あの……」
「コウ」
 本当に息苦しくなってきて、とにかく何か言おうとして顔を上げたのと、藤井が俺を呼んだのが同時だった。そのせいで俺はまた固まって、何も言えなくなってしまう。
「……俺からいいか?」
 しばらく俺の出方を待ってくれていた藤井も、何も言わない俺にじれたのかそう聞いてきた。俺はただ、頷くしかできない。
「聞きたいことがいくつかある。正直に答えてくれると嬉しい」
 随分と固い声が宣言する。俺は顔を上げることも出来ずただ頷いた。ここまで来て逃げるわけにはいかない。藤井を怒らせたままにした責任は、やはり取らなければいけないように思う。
「名前は?」
「林田幸司」
 これは残した手紙にも書いたことだ。あれを嘘だと思っていたのだろうか? きっちり俺を捜し出せたのだから、嘘じゃないことは分かっていると思ったけど。
「生年月日」
 俺が一つ年上だといことはもう分かっているくせに、そんな事を聞いてくる。いったい何の役に立つのかと思いながらも俺は素直に答えた。生まれ年は彼の一年前。月日は……。六月三日。俺たちが初めて話をしたその日。
 それを口にしたとき、藤井の表情が少し動いた気がする。その日だと、気づいただろうか?
「……騙してたって、何?」
 話が核心に近づいている気がする。俺は一呼吸おいて、それでも約束したとおり正直に答えた。
「年上だって事、ずっと黙ってた」
「それは……」
 俺の答えに藤井は大きく息をついた。そのため息のあまりの大きさに驚いてそっと前を伺うと、あきれたような顔がある。
「それは俺が勝手に勘違いしていたんだろうが。別にコウが騙してたわけじゃない」
「でも、ちゃんと訂正しなかった。勘違いしているのは分かってたけど、その方が俺にも都合が良いから、何も言わなかった」
 ちゃんと訂正しないといけないのは分かっていた。だけど、優しい声で『ガキ』と呼ばれて、頭を撫でられたりすると、嬉しくてそれを失うのが怖くなった。
「まぁ、いいか。騙してるはわかったけど。それがなんでもう会わないになるんだよ? 俺のこと、嫌いになったのか?」
 それはただ首を振るだけで答えた。嫌いになったわけでは、決してない。だけど。
「じゃあ、なんで?」
 真剣な目で問われる。答えないわけにはいかない。カップを持った手に力が入り、かたかたとふるえるのが分かる。
「最初に言っただろう? 俺はお前を利用するんだって。両親のことも一段落ついて、何とかやっていけそうだと思ったから。もう会う必要ないだろう?」
 ちゃんと全部説明するつもりだったのに、気づいたらそんなことを言っていた。藤井が息を飲んだのが分かる。険しい表情で俺を見ている。
 だけど。
 言ったのは本当のこと。両親のことでは気持ちに整理が付いた。だから、その意味ではもう藤井に会っている必要はない。俺の気持ちは別にして。
「分かった。じゃあ最後。お願いだから、これだけは絶対に嘘を付かないで欲しい」
 ここに来てからの俺は、何も嘘なんて付いていない。そう言いたかったけど、言えずにただ口をつぐむ。
 ため息混じりにそう言った藤井は、ふるえている俺の手からカップをはずし、その両手でそっと俺の手を包む。びっくりして顔を上げると、ほとんど表情を消した藤井が口を開いた。
「……俺のこと、どう思ってる?」
 思わぬ事を問われて、一瞬にして硬直してしまう。それをきちんと言うつもりだったのに、いざ問われると答え辛い。口ごもり、その視線が怖くて目をそらしても、痛いくらいに突き刺さるのを感じる。おまけに包み込まれた両手も、強く握られた。
「コウ。答えて……」
 唇をかみしめる。藤井はどうしてこんなに優しく聞いてくるのか? いっそののしってくれた方が楽だったのではないかという気までしてくる。
 でも、言わなければ。言わなければ。
「……すき、だよ」
 笑ってしまうくらいにかすれた声が、やっとそれだけを告げる。
 そう。俺は藤井が好きだ。何よりも、何物にも代え難いくらいに。その喪失に耐えられないだろうくらいに。
「じゃあ、なんで?」
 両手を取ったまま、藤井が俺の隣に移動してきた。何をするつもりなのか分からずに固まってしまった俺の後ろから、腕が回ってくる。思いがけないその出来事に身じろぎも出来ない俺を、どういう訳か藤井は後ろから抱き込むように抱きしめてくれる。
「なんで、もう会わないなんて言うんだ? そんなに俺のこと信じられない?」
 かすれ声に、返事をすることも出来ない。
 信じられない? そう、多分そうなんだと思う。本当のことを言って、その後も藤井が変わらないなんて思わなかった。
「答えろよ、コウ。そんなに俺のこと信じられないのか? コウが年上だってそんなこと関係ない。俺は今だってコウのことが好きだし、はなしたくないと思ってる」
「そんなのっ……」
 涙がこぼれるのが分かった。そんなこと、言われるなんて思わなかった。だけど、だからといってどうして簡単に信じられるだろう?
「嫌われるって分かってたのに、言えるわけないだろう? ずっと騙してたのに……! お前に嫌われるなんて、嫌だ。耐えられない。嫌われるぐらいならいっそ忘れられた方がまし……」
 忘れられるのだって嫌だったけど、俺に対して悪い感情を持って欲しくなかった。あの時点で切れてしまえば、少なくとも嫌われはないと思った。変なやつがいたと、忘れられるだろうけど。
「コウ。俺は騙されたなんて思ってない。好きだ。俺を信じてくれよ」
 分かっている。今、藤井が俺を好いていてくれているのは知っている。だけど、いつまで?
「いつまで? いつまで俺だけでいてくれる? 一度手に入れたら、もうなくしたら生きてなんていけないの分かってるのに。永遠なんて絶対にないって分かってるのに……」
 父さんと母さんみたいに。お互いに好きでもいつかは分かれてしまう。その時が本気だったとしても、それはもしかしたら勘違いかも知れない。
 そんな恐怖があるから、俺は多分誰かと深い付き合いをする事が出来ない。こんな俺が本多を友人として信じられたのは、きっと奇跡に近い。だけど彼は自分のことをおいて、いつも回りのことを考えていたから。だから、大丈夫なんだと思うことが出来た。
「いつまでなんて分からない。だけどコウがこんなにも俺のことを必要としてくれてるのに、よそ見するなんて出来ないよ」
 背中から抱きかかえられていたのに、いつの間にか正面を向かされていた。藤井の手が優しく俺の髪を撫でてくれる。
「ずっとそばにいる。そばにいられる間は、絶対に離れない。だから、俺の方を向いてくれよ」
 何かが、はじけた気がした。胸に抱き寄せられた耳に、何か暖かい物が触れた。暖かくて、しめった物。……涙? 藤井が、泣いている?
「好きだよ、コウ……」
 ささやかれた声が胸にしみる。嬉しくて、それを素直に嬉しいと思えた自分が嬉しくて。俺はぼんやりとおろしたままだった自分の胸をそろそろと藤井の背中に回した。力を煎れると、同じだけの強さで抱きかえしてくれる。
「……さとる、すき……。ごめんなさい」
 信じられなくて、ごめんなさい。実を言うと、今でも少し信じ切れてない。だけど、この手を失えない事が分かったから。この手がずっと俺を捕まえてくれると言ったから。
 信じた振りをするのも良いかも知れないと思った。そのうちそれが振りでなくなるかも知れないから。
 それに、俺が彼のことを好きなのは、紛れもない事実だ。
 藤井がそっと腕を放して、俺から離れようとした。それが嫌でさらにしがみつくと、なだめるようにして彼の後ろに回した腕をほどかれる。不満げに見上げると、優しく微笑んだ顔が俺の方に近づいてきた。
 キスだ……。
 そう思って、素直に目を閉じる。
「幸司、智。話、おわったか?」
 待ち望んだ物は、乱入者が出て行く間際まで俺の物にはならなかった。


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