<5-2>

 終業式の前の日、母さんは荷物の片づけを済ませて帰っていった。本多が言ったような俺を心配しているようなそぶりはまるで見せず、涼しい顔をして。父さんはこっちに来たり向こうに帰ったりを繰り返している。昨日は向こうの親子がやってきて、美味しそうに俺が作った夕食を食べていった。小さな子供もその母親も、特に含む事はないらしく、これなら俺もなんとか一年半を過ごせそうだと思う。
 そうして悩んでいるうちに、ついに終業式当日。俺は重苦しい気持ちで鞄を抱えて家を出た。藤井に会いたくないと思ってるせいか、かなり早くに家を出てしまう。そうして本多の脅しのせいでつい正門を避けて裏から学校にはいった。そのまま教室に行って鞄だけ置いて、生徒会室に逃げ込む。
 誰も来ていなかった事に、藤井に会わずに済んだ事にほっとした。このまま夏休みに突入してしまってくれれば、本多は多分俺の事を言わないでいてくれるだろうから。そうすれば藤井だって俺と話そうなんて事も忘れて……。
「おや、早いね林田」
 机に突っ伏すようにして、それでも未練がましく藤井の事を考えていた俺に、後ろから声がかかった。その聞き覚えのある声に振り向いてみると、生徒会長が入り口に立っている。その顔にはかすかな笑みが浮かんでいた。
「どうも何かから逃げてきたみたいだけど、居るからには仕事してもらうからね」
 にこやかにそう言う彼の後ろから見覚えのある顔、聞き覚えのある声が聞こえる。
「ここにいたのか、幸司。鞄だけ教室に放り投げてるから、どうしたのかと思った」
 本多はそのまま、ちょっとの間だけだよと席を外してくれた生徒会長に礼を言って中に入ってくる。
「いったい何時に来たんだ? 智の奴、正門の前でまだ張ってるぞ」
「……七時半ぐらいだったと思う。裏門から入ったから」
 時間を聞くと、それは正解だったなと本多は肩をすくめた。どうもその時間にはもう正門前に藤井がいたらしい。
「クラスの方は教えなかったけど、お前姓名きっちり教えたんだろう? 誰かに聞かれりゃ一発で分かるぞ」
 そんな事は分かっていた。それでもまさか、終業式をすっぽかすような事はしないだろうと思っている。そう言うと本多は曖昧に笑ってごまかしてきた。まさか、すっぽかすと思っているのだろうか?
「ま、逃げなかったんだから偉いけどね。心して智の恨み言を聞いてやりなさい」
 本当はそんな覚悟なんて出来ていなかった。今すぐにだって逃げ出したいのだ。だけど、俺には頷く事しか出来なかった。





 講堂に生徒が集められている。俺はそれを舞台の裏から眺めていた。書記と言う事で、普段壇上に上がる必要がなく、記録を取る事が仕事の俺は、いつもなら役員席に座っている。だけど今日は運良く人手が足りなかったため記録用のノートを片手に二階の放送室にやってきていた。万が一のための連絡係なので、基本的にする事はない。そうして幸運なことに、ここからだと講堂の中が一目で見渡せる上、向こうからは見えない。
 藤井は、自分のクラスできちんと列に並んでいた。きょろきょろと落ち着きなく周りを伺っているのは、俺を探しているせいかもしれない。遠くても分かる。その表情には焦りと苛立ちが見えた。
 あんないい加減とも言える手紙を残すだけでなく、やはりちゃんと話をするべきだったんだろう。そうしていれば、今みたいに散々な思いに悩まされる事もなくきっぱりと吹っ切れる事が出来たかもしれない。……無理かもしれないが。藤井のあの焦りが、もしかしたら俺のことを好いていてくれるせいかも知れないだなんて都合のいい事を考える事もなく……。
 気付くと式は終っていた。放送委員に指摘されて、真っ白なノートを前に呆然とする。後で会長に頼んで今日の挨拶の原稿をもらわなければ行けない。無ければ無いで、てきとうにごまかしてかけるけど、自分のぼんやりぶりを後々に残すようでなんだか嫌だ。
「幸司、教室に戻れるか?」
 生徒が帰っていくのをぐずぐずと見ていると、本多がやってきた。その声に頷きながら、藤井が講堂から出ていくのを目で追いかける。その俺の視線の先を見て、本多は深いため息をついた。
「幸司、お前ね。そんなに好きならちゃんと言えよ」
 言われてぎょっとした。俺は口に出してそのことを言ったた事は無いはずだ。俺は本多が勘付くほど露骨にその様子を見せていたんだろうか? だけどよく考えてみたら、俺はこの間の電話でとんでもない事を口走ったと暴露している。それで藤井の事をたいして好きでもないと思われる方が、問題があるようにも思う。
「あのな……。智だってもう気付いてると思うぞ? こないだすごい事言ったんだし。ただ、ちゃんと口に出して言わなきゃいけない事だってあるだろう?」
 分かっている。でも、言えない。俺が欲しいと思ったもので手に入ったものなんて、今までに一つだって無いのだから。欲しいと言った途端んいそれが消えてしまうのが分かっていて、口にする事なんて出来るわけが無い。
 結局教室に戻っても、俺は机にほおづえをついてぼんやりと外を眺めていた。本多がそんな俺を気にして、前の席を陣取り様子を見ていてくれる。彼がそうしてくれているのが分かるから、俺も安心してぼんやりしていられる。
 あとは担任教師が帰ってきて、成績表を配るのを待ったら帰る事が出来る。俺は生徒会の方の後片付けがあるから、すぐには帰れない。だけど、もしかしたらそれを理由に藤井を振り切れるかもしれない。
 そんな事を考えていたから、教室のざわめきに気付くのが少し遅れてしまった。本多が肩を叩くのに視線をあげると、『来たぞ』と何やらにやにやと笑って教室の後ろの入り口を指差す。うっかりとつられてそちらに視線を向ければ、さっき高い位置から見送った背中の持ち主が肩を怒らせて俺に向かって歩いてくるところだった。
 動く事も出来ずに呆然とその様子を見ていると、俺がずっと聞きたいと思っていた声が冷たい響きで俺の名を呼んだ。
「コウ。話しがあるから、ちょっと来いよ」
 返事も出来ず、ただ呆然と見上げるだけでいると脇の下から手を入れられ、肩を支えるようにぐっと引き上げられた。
「覚えてろよ、祐一。何が全然知らないだ。同じクラスで連絡先が分からない分けないだろうが」
 藤井はきつく本多をにらみ付け、俺を引きずるようにして教室を出ようと移動しはじめる。俺はどうしていいか、どうしたいのかも分からなくなってきて、すがるように本多に視線を向ける。そうするとまた藤井に腕を強く引かれた。
「話があるって言ってるだろ、コウ。祐一なんか頼るなよ」
 苛立たしげにそう言って、じろりと俺をにらむ。
「離せよ。俺には話なんて無い」
 恐かった。連れていかれて何を言われるか分からない。殴られるくらいいくらでも耐えられるけど、軽蔑されるのにはきっと耐えられない。嫌われても仕方が無いと思っていても、その口でハッキリと言われたくはない。
 だから俺は必死で逃げようとした。だけど体格でひとまわり違い、腕力だって確実に負けている俺が少々もがいたところで、その拘束から逃れられるわけも無い。
 何がどうなってそう言う事になったのか分からない。いつの間にか俺は腰を抱き寄せられ、藤井の腕の中におさまっていた。ぎょっとして今日初めて真正面から藤井の顔を見ると、彼の顔が近付いてくる。
 藤井の唇を感じた瞬間、どこかさめた頭の片隅で、誰かがひゅっと口笛を吹く音が聞こえた。一瞬静かになった後、どよどよと教室がざわめく。
「言っとくけど、俺怒ってるんだからな。あんなこといったくせに、ふざけた手紙残して消えやがって」
 唇が離れたすぐ後、藤井は俺にだけ聞こえる程度の声でそう言ったと後で聞いた。だけどその時の俺にはほとんど聞き取れていなかった。
 その俺と言えば、起こった事に呆然として目を見開いたまま、動く事も出来ずにいた。今、不意に与えられたのは、俺が自分で振り切ったもの。もう二度と手に入るわけが無いと思っていたものだったから。
 教室のざわめきも何もかもが、どこか遠くでの音のように聞こえる。
「クラス委員にでも言っておいて。これ、借りてくから。早退したとでも」
 そんな俺を抱き寄せるようにしながら、藤井はしらっとそんな事を口にする。やっと何があったかを整理できた俺は、顔から火が出そうなほど恥ずかしかったと言うのに。
「クラス委員はお前が抱えてるよ」
 後ろから、誰かが口をはさんできた。みんながなんだか面白そうに俺達の様子を見ている。だめだ。その様子が分かるから、いっそう顔を上げる事が出来ない。
「じゃぁ、誰でもいいから」
 藤井はそう言って殊勝にもぺこりと頭を下げると、また俺を引っ張った。その口調はなにやら焦りを含んでいて、俺を見る目には苛立ちが混じっている。まだもらうべきものはもらっていないし、生徒会の方の後片付けもあるからこのまま帰るわけにはいかないのだけど、とにかく俺はこの教室に残っているのが嫌だった。だから、仕方なく黙って藤井に引きずられて教室を後にする。あんな事をされて抵抗一つ出来ずにいた上、嬉しいとまで思ってしまった俺は、顔をあげる事すら出来なかった。
「祐一。帰りにコウの鞄、もってこいよ」
 教室を出る間際、藤井はそう指示をだしていた。


TOPに戻る

STORYに戻る

5-1へ戻る

5-3へ