<4-1>
机に本棚、ベッドと部屋一面に広げられた二組の布団。そこはまぎれもなく藤井智の部屋の中で、俺はぼんやりと入り口のドアにたたずんでいた。
布団は使われていない。いや、片方には使われた形跡があるけど、今その中には誰もいない。部屋をぐるりと見回すと、ベッドの中に人が二人いた。
「……さと、る」
声が出たかどうかは分からない。藤井は彼よりも小柄な誰かを抱き寄せて、随分しあわせそうに笑っていた。彼の腕の中の人影も、安心しきったようにその中におさまっている。
二人は何かを話していた。何を言っているかなんて聞こえていないのに、俺には何故過話の内容が分かった。まるで見てきた事でもあるかのように、俺はそれを知っている。
知っているはずなのに、藤井の腕の中に居るのが誰だか分からなかった。分からないのにそれを見ているだけで無性に腹が立つ。あれは、俺の場所なのに。
……俺の、場所?
自分の腹立ちの意味が分からなくなった時、藤井の腕の中の小さな体が動いた。彼の首に腕をまわし、伸び上がって唇を重ねている。それを藤井は嬉しそうに目を細めて見つめ、その小さな体を抱きしめる。
目の前が真っ暗になった。どうしようもないほどの怒りが込み上げてくる。そこは俺の場所だと叫びたいのに、声を出す事すら出来ない。
俺にはそんな資格がない事が分かっていたから。
嫌な夢だった。背中にべっとりと汗が浮かんでいるのが分かる。だけどうっすらと目を開けると、目の前にあたたかな腕と胸。俺は逃げ込むようにそこに潜り込んだ。そうすると、そっとあたたかなものが俺を包み込んでくれる。
「……前、…………だした……?」
頭の上でぼそぼそと話しているのが聞こえる。聞き覚えのある声だった。誰?
「出してない」
むっつりと答えた声も、聞き覚えのあるものだ。
「お前、寝れたのか?」
「……いや」
だんだんと会話がハッキリしてくる。
…………? 誰が寝れてないって?
「おはよう。起きたか?」
もそりと動いてうっすらと目を開けると、すぐ前に藤井のアップ。驚いて後ろに下がろうとしたけど、腕に抱きとめられていてほとんど動けない。笑いかけてくる藤井の唇に、どうしても目がいってしまう。あれは昨日俺が、そして夢の中で誰かが口付けた場所……。
「おはよう……」
思い出しただけで頭の中が混乱してきた。あの夢は、俺? だけど俺は外からそれらを見ていた。そして、そうしている人間に焼け付くほどの嫉妬を感じた。
恥ずかしくて顔が赤くなる。それを隠すために小さく挨拶を返すと、藤井に背を向けた。彼の顔を見ないためには顔をそらすか、藤井の胸に潜り込むしかなかったから、俺は迷わず前者を選んだ。そして、思いきり後悔するはめになる。いや、別にこの時藤井の胸の中に隠れたとしても、どうせこうなったのだとは思うけど。
「おはよう、幸司」
振り返った先で床に膝をつき、ベッドに顔の高さを合わせた本多と目が合ってしまった。からかうような瞳が、俺を見ている。
さっと顔に血が上るのが分かった。腰にまわされたままの藤井の手が妙に意識される。離して欲しいと思ってそこに手をやると、逆に腕をつかまれてしまってさらに身動きが取れなくなった。
「もうそろそろ起きろよ。昨日切り上げた勉強はじめようぜ」
本多はほんの少し笑っただけでそれ以上は何も聞いてこなかった。それをありがたく思いつつなんとか平静を取り戻そうとしていると、暫くして赤くなった顔がおさまってくるのが分かる。それでもなんとか剥がそうとしている藤井の手が、どうしても離れようとしない。それどころかさらに体がくっついてきて、首筋に顔をうめられる。
「いい加減はなせよ」
「もうちょと」
必死に抵抗しても腕を押さえられているから動けない。じたばたと動いてもてんで気にしないし、俺達を見ていても仕方がないと思ったのか本多は使わなかった布団を片付けはじめている。
なんとか藤井から逃れたのは、それから数分経ってからだ。その頃には本多も布団を片付け終わっていて、既に小さな折り畳み机が用意されている。そこには珈琲が三つ乗っていた。
「……俺、顔洗ってくる」
本多の前だと言うのにキスを迫ってくる藤井を振り切り、部屋を飛び出す。顔を洗って目を覚まして戻ってくると、藤井も本多ももう普通の状態に戻っていた。少なくとも何かを企んでいると言う様子はない。
「飯食って、十時過ぎから昼までとりあえず勉強するか。幸司も教科書とかもってきてるんだろう?」
その食うと言う飯は、いつの間にか机の上に並んでいる。トーストと卵、ミニサラダ。それは多分喫茶のモーニングだろう。本多はもう家で食べてきたとかで、用意されているのは俺と藤井の二人分だった。
俺が顔を洗っている間に藤井もすっかり身繕いを整えていて、交代で洗面に向かい、座って待っている俺の隣に当然のように座ってくる。その動く姿に、思わず見惚れてしまう。
まずい。今日は勉強にならないかもしれない。
食事を済ませるとそのまま少しくつろいで、勉強をはじめる。藤井と本多が昨日と同じように床に広げた小さな机を占拠し、俺は藤井の勉強机を奪い取った。どうせそのうちばらす事だとはいえ、俺が本多と同じ年だと言う事を、今暴露するつもりはない。本多と二人で机を使っても良かったのだけど、そうしようとすると藤井がすねたのだ。
午前も、食事を挟んだ午後も、今日はすんなりと勉強が進んだ、ようだ。というのも俺自身はほとんど何も出来ていなかったから。時々背中に刺さる藤井の視線が気になって、まるで集中する事が出来ない。
藤井は昨日の話しをどう思ったんだろう。俺の事をどう思っているのだろうか。そんな事ばかりが頭を回る。多分嫌だとか、嫌いだとかは思っていない。そうでなければあんな風に優しき抱きしめてくれはしないだろうと思う。だけど、だからといって楽観する事も出来なくて、疑り深い自分に嫌気が差す。本当の事を言ったらどうなるかと思うと、さらに気鬱は増した。
かなり大げさなため息が落ちた。本来の予定だと今日も泊まって、明日の夜帰る事になっていたけど、もう今日帰った方がいいかもしれない。この調子では勉強にならない。
藤井も本多も、俺に気を使っているのがよく分かった。昨日あんな話しをしてしまったからだろう、昨夜ほど露骨ではなく、それでも二人は俺を気づかってくれているのが背中に感じる気配で分かる。
このままでいたいと思う。藤意に優しくされて、本多に気にしてもらって。俺が嘘をつき通す事が出来たら、そんなものが手に入るんだろうか? いつも手に入らないとあきらめていた、暖かい思い。でも駄目だ。嘘で塗り固めて手に入れたものはいつかどこかにいってしまう。俺が手に入れられる温もりなんてものは、どこにもないのだから。
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