<3-3>
風呂から上がってきた藤井と交代に、本多は部屋を出ていった。ドアを閉める間際に投げていったウインクは、さっきの無理矢理取り付けた約束を忘れるなと言う事に違いない。
だけど。
藤井の顔を見て、落ち着いてさっきの事を考えてみてやっと分かった。あれは随分と分かりにくい本多の優しさ。そうでもしなければ絶対に本音を言えない俺の背中を、無理矢理押してくれたんだと思う。……思いたい。
「……って、いつもあんあの?」
藤井がじっと俺の事を見ている。子供みたいに大きなクッションに懐いているけど、その程度で体が隠れるわけがない。だんだんと居心地が悪くなってきて、俺はついそんな事を聞いていた。
「だから。人の都合も聞かずに、考えた事ぽんぽんじっこうするだろ?」
いつもって、と聞いてきた藤井に、俺はそう言葉を重ねた。彼のあの傍若無人なお節介さに救われる事がある事は認める。後でその真意を知って、ありがたく思う事もあるだろう。だけどペースを乱されるということに変わりはない。予定など、一気にふっ飛んでしまう。
「ああ。だけど、絶対相手の事を真剣に考えてるんだ、祐一は。だからまぁ、しょうがないかで済ませちまうな」
でも後輩だと振り回されるだけで大変だよなぁ、などとのんきに笑う藤井を、少し複雑な思い出俺は見ている。本当は後輩じゃない。それを言う事も出来ない。だけど、藤井が言いたい事はよく分かった。分かっていた。
そうして話しがひと段落つくと、また沈黙がやってくる。
「コウ、少しは落ち着いたか?」
「うん、ごめん」
沈黙が痛くなってきた頃、藤井がそう尋ねてきた。本当に悪かったと思っているから、とりあえず素直に謝ってしまう。だけどそうして話が途切れると、また沈黙がやってくるのだ。
藤井は俺と話をするのをあきらめたのか、本多が足下に転がしていった漫画本を拾い上げてぱらぱらとページをめくる。本多が戻ってくるまで、それで間を持たせるつもりなんだろう。
だけど、今日本多は戻ってこない。
クッションを抱えて上目遣いに伺うようにじっと藤井を見ながら、俺はさっきの脅しをどうしようかと考えていた。本多の事だから、俺がキスもせず、好きだとも言わなかったと知れば、ある事ない事並べ立ててくれるかもしれない。あるいは、何もしないかもしれない。どちらになるのか、本当に読めないのだ。
俺が一人頭の中でぐるぐる考えていると言うのに、藤井は本に集中していてこちらを向く事はない。まるで俺の事なんて忘れ去ったかのように本に集中している。そう思うとなんだか寂しくなってきた。
だけど。真剣に本を読んでいる目、ページをめくる手、時々おかしそうに笑う口元。ただじっと見ていて、藤井のそれらすべてを好きだと思っている自分に初めて気付いた。気付いてしまって、初めて疑問に思う。両親がいなくても大丈夫だと思えるようにはなったけど、はたして俺は藤井がいなくても大丈夫と言えるのだろうかと。
自嘲が浮かぶ。多分、無理だ。
だけど、仕方がない。俺が最初に間違いを訂正しなかったからこうなった。あんな女々しいところを見られたのが恥ずかしくて、学校では会いたくなくて。自分の事は何も言わなかった。そうして時間が経つ毎にどんどんと口が重くなっていって、どうしようもなくなっていた。
でも。
「……智」
意を決して、呼びかけてみる。初めて口に乗せる名前なのに、どう言うわけか口に馴染んでいる。今までずっとそう読んできたみたいに。
蚊の泣くような声だったはずなのに、それまで真剣に本を読んでいたはずの藤井がものすごい勢いで顔を上げた。その勢いに押されてさっきまでの姿勢で固まってしまった俺の方に、藤井はゆっくりと膝で歩いてくる。
好きだとは言えない。絶対に、言えない。強迫観念意も似た思いで、そう思い込んでいる。だけど、だから、もう一つの方なら。そう思って声をかけてみたけれど。
だめだ。
藤井が近付いてくるだけで、緊張して動けない。その固まってしまった俺に藤井は嬉しそうに笑って唇を寄せてきた。いつもよりもずっと優しく、唇が触れてくる。びっくりして、もう一度名前を呟くとぎゅっと抱きしめられた。そうしてまた優しいキスが降ってくる。
「やっと名前で呼んでくれたな」
ひとしきり抱きついてとりあえず気が済んだか、体を離しながら藤井はそう言ってきた。本当に嬉しそうに笑って。
もう一度呼んで、とニコニコと笑いながら頬を、髪をゆっくりと撫でる藤井を見ていると、どうしていいか分からなくなってくる。頭の中が、藤井で一杯になってしまう。
「……さと、る……」
抱いていたクッションを脇にのけて、声の引っかかる喉を振り絞って囁くと、藤井がまた少し俺のそばに寄ってきた。その肩に手を乗せて体を支えて伸び上がり、驚いている彼の唇にかすめるように触れてからベッドからは遠い方の布団に頭から潜り込む。
なんて事をしてしまったんだろう。顔が熱い。まともにものが考えられなくて、顔から火が出るって言うのはこんな状態なんだと頭のどこかで考えている。
「コウ! こら、顔見せろよ」
すごく嬉しそうな声が、かぶってしまった布団を剥ごうと近付いてくる。だけど、とてもじゃないけど動く事なんて出来ない。顔を出すなんてもってのほかだ。だからさらにきつく布団をかきあわせて、体を隠す。
なんて事をしてしまったんだろう。顔が熱い。まともにものが考えられなくて、顔から火が出るって言うのはこんな状態なんだと頭のどこかで考えている。
「コウ! こら、顔見せろよ」
すごく嬉しそうな声が、かぶってしまった布団を剥ごう土地あづいてくる。だけど、とてもじゃないけど動く事なんて出来ない。
俺はいったいどうしてあんな事をしてしまったんだろう? 本多との約束? いや、違う。そんな事が関係ないのは最初から分かっている。藤井と二人になってから、彼の事しか考えられなくなっていたのだから。あの約束は本多が俺の願望をそう言う形で口にしただけ。
俺の願望……。だめだ。恥ずかしくて絶対に顔を出す事なんて出来ない。
「コウ。何もしないから顔を出せよ。息苦しいだろう?」
………………。確かにその通りだったので、俺はおそるおそる顔を出した。良かった。藤井は俺の背中側にいて、顔を見なくて済む。
ふっと息をつく。何かもう、どうしていいのか分からない。
「俺がどんなに嬉しかったかなんて、お前分かってないだろう?」
俺の頭を撫でながら、藤井はうっとりと呟いた。
「名前を呼んでくれたのだって初めてだってのに……」
言われなかった先にある言葉は、考えるだけでまた顔が熱くなるほど恥ずかしいものだろう。藤井が言いよどんだのはどんな理由かは知らないけど、恥ずかしいからではないと思う。その証と言っては何だが、声が随分と嬉しそうだ。まさか感極まってってことはないと思うけど。
「……今日は、帰ってこないって言ってた」
誰が、とは言わなくても分かるだろう。藤井が後ろで頷いているのが分かる。
「好きだよ、コウ。お休み」
こめかみにそっと唇がおりてきて、優しく触れていく。藤井はそのまま電気を消し、自分のベッドに入ってしまった。
時間はもうすぐ十二時になる。眠るのに早い時間でもない。なのに、眠気は全くやってこない。
どうしたらいいのか、自分がどうしたいんかさえも分からなくなってきていて、俺は結局布団の中でゴロゴロと寝返りを打ち続けていた。
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