<3-2>
藤井にもらった奴を寝間着代わりに使う理由の一つは、それが俺が普段着るには大きすぎるということだ。大きめの服をゆったりと切るのがはやった時期があるとは言え、俺にこの服は大きすぎる。おそらく藤井が着ても少し大きめだろう。これを来て外を歩く勇気は俺にはなかった。
そして多分誰にも言う事の出来ないであろうもう一つの理由。それは寝間着ならうまくすれば毎日着る事が出来るという事だ。今思えばあの最低の誕生日にもらった唯一の優しさを、手放したくなかったのだと思う。
この服を見て何かを言われたら、大きかったからだと言えばいい。気まずさを必死で隠しながら藤井の部屋の扉に手をかけると、中の二人はすっかり寝床の準備を終えていた。もう勉強をする気はこれっぽちもないらしい。いっそ清々しいほどだが、本当に大丈夫なんだろうか。
「じゃぁ。次、俺いってくるわ」
気軽に手を挙げて、部屋に入った俺と交代に藤井は出ていった。残された俺はどうする事も出来ずに、同じく部屋に残って布団に転がっていた本多を見る。なにか本を広げているからてっきり参考書かと思ったら、漫画本らしい。
「幸司、大丈夫か?」
俺の視線に気付いたのか、本多は本を置いてこちらに向き直った。座れと言うように目の前を指差され、何も言えずに底にしゃがみ込む。この家で藤井と本多を前にしている時はどういうわけか彼等よりも年下になったような気がするのだ。実際にはそんな事はないはずなのに、彼等の前に居るときはまるで保護者と一緒に居る子供のように安心できる。彼等の方が、人間的に大人なのかもしれない。
本多はそこに座った俺を見たまま、それ以上何も言わない。沈黙が重たくて、妙に気まずい。
「いい加減、黙ってるのしんどくなってきたんだろう?」
唐突にそう告げる本多に、俺は慌てて視線をあげた。
それだけではないけど、確かにもう黙っているのは辛い。彼を騙しているのだと言う事実に、たえられなくなってきていた。それにもう、騙している必要もなくなっている。
「だから言っただろう。お前みたいな奴が嘘ついてるのは無理だって」
黙っている俺に、肯定と取ったのか本多はさらに続けた。うん。確かに最初にそう言ってくれていた。その時はどう言う意味なのか分からなかったけど、今ならそれも分かる気がする。かすかに頷くと、本多はため息をついたようだ。
「家の方で何かあったか?」
俺は頷いた。弾みを付けるために、一度本多に話してしまおうか? 家の方の事情は言って歩くような事ではないけど、必死で隠さなければいけないような事でもない。近所に住む人なら十分に予測できる範囲の事だ。彼は俺がどうして藤井と付き合う事にしたのかを気にしている。はっきりと口にした事はないけど、それは態度を見ていれば分かる事だ。彼は藤井の事をとてもかわいがっているから、彼が傷付く可能性を排除したいのかもしれない。
「うち、離婚するんだ」
ぽつりと言うと、本多が居住まいを正すのが分かった。逆に俺は一つ口にして勢いがついたのか、足を崩して楽な格好に座り直す。そう、二人がそれを口にして、いつか来るものから目の前の現実にした事からすべてが始まった。
「昔から時間の問題だったんだけど。分かってたけど、いざその時になると結構ショックを受けるものなんだって、実感した」
何が最も衝撃だったかは、さすがに言えなかった。あんな事をされてきたといっても、俺はやっぱり父さんも母さんも好きなのだ。そして自分がいらないものとして扱われたと言う事を口に出すのはほんのかすかしかないとはいえプライドが許さない。
「誰も信じられなくて、それでも一人でいたくなくて。そんな時に藤井が付き合おうって言ってくれた」
何も考えられなくなって、雨の中を当てもなく歩き回って。そうして藤井が拾ってくれた。
「あいつも知ってるのか?」
慎重にそう聞いてくる本多がなんだかおかしい。俺が話すのをやめてしまわないように、すごく気を使っているのが分かる。
「一人でいたくないから、それでもいいなら付き合うって答えた。それ以上は知らないはずだけど」
そうして、藤井が勘違いしているのをいい事に、俺は自分の事を何も教えなかった。本の少し、俺自身が落ち着くまで付き合うだけのつもりだった。それを告白した時、さすがの本多の表情も少し揺らいだ。多分、怒っている。だけど、それだけじゃない?
「それで……? 落ち着いたのか」
感情を消した、抑揚のない声がそう聞いてくる。俺には苦笑いするしか出来なかった。落ち着いたんか落ち着いていないのか、自分でだってもう判断できない。
「……今日、両親と、その再婚相手に会ってきた」
今日の夕食はそういう事だった。それにしても、離婚の話の後にすぐ再婚の話。結構いい男だと目されている本多の顔が少し歪む。いったいどんな風に感じた事か。
「相手はすごくいい人で、俺は素直に良かったと思えた。だけど、そう思える事に、すごく驚いた……」
言いながらどう言うわけか涙が浮かんでくる。必死で奥歯を噛み締めたけど、にじんでくるものはもう止めようがなかった。
「良かったなんて、一月前には絶対に思う事が出来なかった」
そう、絶対に無理だった。でも今は素直に良かったと思っている。父さんと母さんは間違って結婚した友達みたいなものだった。それが本当に大切な人にあって、やり直す事が出来る。あんなにしあわせそうにしている二人を俺は初めて見たんだ。だから、本当に良かったと思っている。
「それで、智はもういらないのか?」
色気も何もない、さっきまで俺が使っていたバスタオルで涙を拭ってくれながら、本多はそう聞いてきた。
……答えられない。
最初の意味で言うなら、俺にはもう藤井は必要ない。
だけど。
「好きなんだろう、智の事」
本多に頭を抱き寄せられて、なだめるようにゆっくりと撫でられる。そうされていると、泣いてもいいと言われているようで、抑えがきかなくなってくる。
そう。多分俺は藤井の事が好きになっている。
「だったらそれでいいだろう? 言ってやれよ。智の奴、ずっと待ってるんだぜ?」
知っている。藤井は俺を夢中にさせるんだと最初に言った。その時はまるで気にもしていなかった一言。正直に言うと、聞き流していたといってもいい。だけどそれは本当の事になってしまっている。
だけど。俺はただ首を振った。駄目だ。好きだとは言えない。言うのは嘘をついていた事。それから、別れれの言葉。
「幸司は俺の名前も、智の名前も呼ばない」
本多が急に、ため息まじりに呟く。最初にそう呼んでくれたらいいと言ったのに、と。
そして、俺が二人の名前を呼ばないのはわざとだ。呼びかける時も状況と視線、呼びかけでごまかして名字すら出来るだけ呼ばないようにしている。一度名前を呼んでしまったら、それが出来なくなるのが辛いから。だから何でもないクラスメイトの名前は呼べたけど、この二人の名前はどうしても呼べない。だけど、気付かれているとは思わなかった。この分だと藤井の方も気付いているかもしれない。
「まだ言わないつもりなのか? 言えば学校でだって会えるだろう?」
分かっている。だけど、ずっと言えなかった。でも、それではいけない事も分かっているから、俺はただ首を縦に動かす。
「……試験が終ったら、言う」
その後はすぐに夏休みだ。逃げようと思えば、いくらだって逃げられるだろう。それに多分、逃げる必要はない。俺が会いにいかなければ、怒った藤井はきっと俺に見向きもしないだろう。顔を合わせる事もなくなるだろうから、夏休みの間に気持ちを整理してしまえば、二学期になって学校で不意に顔を会わせてしまってもきっと平静でいられる。
……きっと。
「幸司。智を見くびるなよ?」
言われた言葉に反射で頷きはするが、本多が俺に何を言いたいのかは分からない。
「だけど俺は、どうしたいのかも、どうしていいのかも分からないんだ」
いや、俺は多分自分がどうしたいのかは分かっている。だけど一番したい事が無理だと思うから、その次が分からない。
抱き寄せるようにしていてくれた本多からぐっと手をのばして離れ、後は言い訳めいたつぶやきを漏らしていた。
「そりゃ。……は俺を好きだっていってくれてる。だけど、そんなのいつまで続く? 男女でだって別れてしまうのに。俺は、……今までずっと騙してたのに」
だから見くびるなと言っているのに、と本多は言っているけど、俺にはそんな言葉は聞こえない。ただ、どうやって藤井に言おうか、それだけを考えていた。
うつむいて考え込んでいたから、反応が遅れてしまった。ぼうっとしている間に、いつの間にか本多の顔が近付いてきて、あたたかなものが唇に触れる。ほんのちょっと、羽が障るように唇が触れて、すぐに離れていく。
「っ! 何をっ!」
飛び退るように逃げた俺に、ちらりと舌を出した本多はしれっと「嫌がらせだ」と笑う。
「本多っ!!」
「祐一。幸司は物覚えが悪すぎる」
思わず叫んだ俺に、本多はしっかりと訂正を入れる。そうしてああそうだ、と付け足された内容に、俺は言葉をなくす。
「智に好きだって言うか、幸司からキスする事。期限は明日の朝だからな。これを無視した場合、幸司と熱烈なキスをした事を智にばらしてあげよう」
熱列って。ちょっと唇が触れただけじゃないか。いわば接触事故だ。それに、本多が無理矢理やった事なのに。
「でも、言われたくないだろう?」
恨みがましくにらんでいたら、言いたい事が分かったのか本多はにやりと笑いながらそうんな不遜な事を言う。図星過ぎて、俺には黙る事しか出来なかった。
「大丈夫、大丈夫。俺は明日の朝まででてってやるから。時間は一晩ゆっくりあるよ」
本当に、もう何も言えなかった。
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