<2-5>
なんだかんだと言っている間に、試験が近付いてきた。試験開始まではあと三日。今日は金曜日で、明日、あさっての土日が休み。休み明けの月曜日から試験が始まる。
俺は藤井の成績を詳しく知っているわけではないけど、あまり思わしいものではないらしいと言う事は想像できた。家の手伝いを休んでまで勉強をするような事を言っていたし、わざわざ人に頼るような事も口走っていた。迷惑をかけてはと思って、ここ二日ほどは会いにいっていない。そのせいだろうか、藤井の声を聞きたいと思っている自分にすこし愕然とする。いつの間にか、こんなにも藤井にのめり込んでいる。
とめなければと思っていてもなお、その思いは留まる事を知らない。自分では既に、どうする事も出来ない。
「顔だけでも見に行こうかな」
そんな事をしているから思いきる事が出来ないんだとも思うけど。だけど、それでも自分の行動を止める事が出来ない。
「幸司」
ここ最近で聞き慣れた声が、下から俺を伺う。びっくりしてぼけた焦点を合わすと、やはりそこには本多がいた。おどけるような笑みを浮かべて、机に張り付いて俺を見上げている。
「何、用事?」
それほど多いわけでもないけど、本多はあれ以来学校でもよく俺に声をかけてくるようになった。だからといって何が変わると言うわけでもないけど、いつの間にか俺と彼は親友だと周りは思っている。彼が唯一俺だけを名前で呼ぶせいだろう。この頃は本多がどこにいるかと言うような事まで聞かれるようになった。
「今日から日曜まで、あいてるだろ? 泊まれる準備して来いよ」
この場合、どこに、とは言わない。それは分かっている事だから。だけどそんな誘い方をされたのは初めてだった。誘われていると言うよりも、来いと強要されている。
確かに特に用事があるわけではないから、あいていると言えば、あいている。藤井の声を聞きたいと思っていたのも事実。だけど顔だけ見て大人しく帰るだけのつもりだった。うかつに頷いていいものかどうかが悩ましい。
「俺、この休みあいつの一夜漬けに付き合う事になってるんだよねえ」
本多はうまく名前を隠してそう言った。助かる。ここは二年の教室だけど、藤井はここでも十分に有名人だった。名前が出ただけで、人の視線を集めるほどには。そして本多と言う男も、彼が話をしているだけで人の耳が向くように出来ている。
「幸司、手伝えよ」
不遜な物言いとは対照的に、態度は随分と下手だ。両手を会わせてすこし下げた頭の上まで挙げている。拝み倒すようなその態度にあきれて物も言えない俺に、駄目か、と片目を開けて聞いてくる。そんな姿はこの男を妙に可愛く見せた。口にすれば、多分俺には言われたくないと言うだろうけど。
「俺、手伝えないよ」
俺には人に教える事なんて出来ない。ましてや俺を年下だと思っている藤井に教えるなんて事は、出来るわけがない。
「あ、いいんだ、それは。いてくれるだけであいつ張り切るから。それにさ、ここ数日元気がないんだよ。誰かさんが来ないから」
嘘か本当か分からないようなふざけた言葉に、俺は驚いて視線をあげた。俺自身にそんな効果があるのかどうかは疑問だけど、本多がそれで助かると言うなら手伝ってもいいかもしれない。俺だって藤井に会いたいとは思っているのだから。
「サンキュー。助かるよ」
そう言いながら、本多は藤井の部屋でするようにポンポンと頭を叩いて自分の席に向かう。子供扱いするなと言いたかったけど、ここで叫ぶつもりはなかった。
家に帰った俺は、正直浮かれていた。試験勉強に必要と思われる教科書とノートを鞄に詰め込み、寝間着代わりにしている藤井にもらったシャツと、パジャマのズボンを引っ張り出してくる。それらをリュックに詰め込んで、それだけで準備は終わりだった。
そう言えば、藤井は俺が押し掛ける事を知っているのだろうか? 本多に誘われてついうかうかと乗ってしまったけど、迷惑ではないのだろうか? 泊まる用意をして来いとも言われたけど、藤井の部屋で、三人ごろ寝と言うのはちょっと窮屈な気もする。
まあいいかと家を出ようと思ったちょうどその時、電話が鳴った。嫌な予感がしたのに、体は条件反射で受話器を持ち上げる。
「……母さん」
電話の相手は母さんだった。今日の夕食を一緒にどうかと言ってくる。珍しい事をと思っていると、二組のカップルと、小さな子供が一緒だと言う。つまりは両親と、その新しい家族候補だ。
「いいよ。何時にどこに行けばいい?」
嫌だと思っても、俺には断れない。断る理由もない。せめて内心の動揺を悟られないようにと愛想よく答えて、返事を聞いて電話を切る。
受話器を置いた時には、体中の力が抜けていくのを感じた。なんだって、こんな……。
仕方ないと思いつつ、俺は部屋に戻ってクラスの名簿を探し出した。その中に本多の名前があるはずだ。行けないと、連絡をしないと……。
ため息をつきつつ、今度はかけるために受話器を取り上げる。今調べたばかりの番号を、何も考えないようにとただ押していく。まだ家に居ればいいのだけど……。
「あの……」
はい、本多。そう言って出たのは多分彼本人。何と言おうかと迷っていると、向こうからどうしたんだと聞いてくれた。あの、と言う声だけで俺からの電話だと分かってくれたらしい。
俺は安心して、事情を話した。細かい話は置いておいて、今日は家族と夕食を食べにいく事になってしまったから、行く事が出来ない、と。言ってみてすこし笑いたくなった。一言で終る程度の事なのだ。
「幸司、どうしても来れないのか? そんなに遅くまでかかる? 泊まり掛け予定だったんだから、別に何時に来てもいいんだぞ?」
暫く黙っていたから、じゃあと電話を切ろうとすると、いきなりそんな風に聞いてくる。とっさの事に俺は声を出す事が出来なかった。本多の声は、どう言うわけかひどく優し気だった。
別に遅くなるわけじゃない。ただ、その後普通の精神状態でいられる自信がないのだ。二人に、藤井に会いたくないだけだ。だけどまさかそんな事を言う気にもなれなくて黙り込んでいると、なだめるような声が耳に流れてくる。
「俺達がいても、気が紛れたりしないか?」
まるで心情を言い当てられたかのような優しい言葉。思わず声がつまる。
「相談に乗ってやるとか偉そうな事は言えないけどな。愚痴ぐらいだったら聞いてやるから」
「……俺の声、そんなに分かりやすい?」
ちょっと聞いたくらいで落ち込んでいるのが分かるほど、ひどい声をしているんだろうか?
そう思って聞いてみたけど、本多はそれを笑い飛ばした。
「違うよ。声じゃ分からない。普通だったら終ってから来るって言うだろう? それなのに来ないなんて言い出すから、何かあるのかなぁ、ってね」
察しがいい奴を嫌な奴だと思うのは、きっとこう言う時なんだろうなと思う。
「ごめん、きと迷惑かけると思うから、やめておく」
理由は言わずに、正直にそう言うと本多は大きなため息をついた。それはもう、電話を通して俺にまで聞こえるほど盛大に。
「幸司がどう思っていようと、俺は幸司の事を友達だと思ってるんだ。そんな声出されて放っておけるか。いいな、何時になってもいいから、絶対に来いよっ!」
最初はゆっくりとさとすような口調だったのに、最後には怒鳴りつけるように叫ばれて、鋭い音がして電話が切られる。思わず受話器から耳を引きはがしてしまった。
通話を切られた受話器をじっと持っていても、電子音が聞こえてくるだけ。暫く呆然とそれを握っていたけど、ふっと息を吐いて本体に戻す。
声じゃ分からないと言っていたわりに、そんな声などと言う本多がなんだかおかしい。怒鳴られたにもかかわらず、思わず笑みが浮かんできた。
嬉しかった。あんな風に言われたのは初めてで、本多が本当に俺の事を考えてくれているのがよく分かる。
……分かるのに。
そんな本多すらをも、俺は信じられない。自分がひどく情けない人間に思えてきた。
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