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放課後。帰る準備をすませた本多に急き立てられるように俺は教室を後にした。今日は特に生徒会の用事があるわけでもないので、時間自体はあいている。本多の調べものにどれくらいの時間がかかるかは分からないけど、付き合うくらいの余裕はあるはずだ。それが終れば、あの喫茶店に向かうつもりで居る。
連れ立って生徒会室に行くと、中には会長だけがいた。いつもの通り、待ち合わせをしていたらしい。文庫本を開いてぼんやりしているところに人を連れて入ると、随分珍しそうに視線を向けてきた。
適当に理由を付けて、中等部の名簿を借り受け隣の部屋に移動する。そうして椅子についてさぁ調べようとした時、誰かがまた部屋に入ってくる音がした。隣の部屋の会長と二言三言、話している声がする。
「俺は帰るから。施錠は責任を持って。いいね」
会長の後ろには俺と同じく書記をしている役員の姿が見える。待つ相手が来たので、会長も帰るのだろう。鍵を預けて会長は彼と連れ立って出ていく。
「あー……あの二人、本当だったんだよな。なんかちょっと変な感じだったけど」
最近噂も落ち着いていたが、生徒会長が書記の少年を追いかけていた話はわりと有名だった。一応うまく行ったのだと言う事になっていたが、そのよそよそしさに本多も気付いたらしい。
「うん。まぁ、それはね。それより、どう調べたらいい?」
隣の部屋に誰もいなくなった事で、おれたちはもう一度部屋を移動して名簿を前にした。結構な量の書類を前に、本多が明らかなため息をつく。
「そういえ十二クラスあるんだっけ? かける三学年の、一クラス四十人だから……」
暗算をしていて、頭が痛くなったらしい本多は、大げさにうめいてみせた。それでもやめる気はないらしく、一番上に置かれた一年A組の名簿を自分の前に引き寄せる。
「悪いな、手伝わせて。あいつの恋人の名前はコウジって言うらしいんだけど……」
それしか分からないと本多は呟いた。だから、とりあえずコウジの名の少年をリストアップしたいと言う。
そのまま名簿に目を落とした本多を前に、俺はまさかという思いが吹き出してきた。素性を調べるなとまで言って、やっと付き合う事を了承したと言う明蘭学院のコウジという名前の生徒。それはもしかしたら……。
「……字は分からないの?」
聞いた俺に本多はただ肩をすくめた。分からないらしい。
一枚、二枚。本多も俺も黙々と名簿をくっていく。コウジという名前だけを探すのであれば、そう大変な作業でもない。一時間もたたず、全ての作業は終っていた。
「……それで、これをどうする?」
助かったと頭を下げて礼をいう本多にクラスと名前を書いたリストを渡してやりながら俺はついついそんな事を聞いていた。まさか、と思う。だけどこの作業中はそんな事を考えないようにただ名簿の上の文字を追った。そうして見ると中等部には随分とコウジと言う名前の少年がいた。本多のいとこの好きな相手と言うのは、きっとこの中に居るのだろう、と思うほどに。
「ああ、これね。あいつに渡すわけにはいかないから、俺が中等部を回ってみるよ。だいたいの外見はなんとか聞き出してるから、分かるかもしれないし。智の名前出せば、ひっかかるだろうから」
何と言っても素性を探らない約束をさせられてて、あいつそれちゃんと守るつもりらしいから、と笑顔で答える。その笑顔につられて俺は言われた名前を聞き逃しそうになっていた。
「実家のサ店手伝ってた時に一目惚れしたんだって春先からずっと聞かされてたんだ。何とかなってくれたらいいんだけどね」
言われる言葉にじわり、と汗が浮かぶ。
「……智って、男みたいな名前だな」
「男だよ」
しまったな、と苦笑いしながら、本多はすぐに認めた。ばれてしまって困ったと言うような思いはあまりないのか、小さくため息をついただけだ。
「一年の、藤井智って知ってるか? あれが俺の従兄弟。最近なんか噂が飛び交ってるだろ? あれもあいつが嬉しくてつい口を滑らせたのが原因らしい」
……本多が探していたコウジはやっぱり俺だったのか。とするとこの名簿、まるっきり無駄になるなと、ふと名簿に視線が落ちて苦い笑いが漏れる。そして胸の奥に何かあたたかなもの。彼は俺以外の誰かと付き合っているのではなかったのだと。
「……素性、探らない約束なんだろう?」
名簿をしまって鍵を閉めて、生徒会室を出る時に俺は聞いてみた。あの名簿から俺の事が分かる事はないだろうけど、本多が藤井の従兄弟だと言う事でなんだかすこし興味が湧いた。普段なら自分からこんな事を聞いたりはしなかっただろう。
「智はね。俺は何も約束してないから。からかわれてるんなら早めに分かった方がいいだろうし」
そうだね、とうなずきながらも、胸が痛む。自分の気持ちが落ち着いたら離れようと思っている俺の考えを責めるdように、そうとは知らずに本多は言葉を紡ぐ。なんだかいたたまれなくなってきた。
「時間、あるだろう? お茶でもおごるから付き合えよ」
そういわれた言葉に俺はただうなずくしか出来なかった。
本多はまず、俺の家の場所を聞いてきた。それを確認してからお茶を飲む場所を決めたらしい。電車に乗って、目的地だという喫茶店にたどり着くまで本多はしきりに俺に話しかけてきた。たわいもない世間話なのに、本多が話しているとやけにおもしろおかしく聞こえるのが不思議だった。思わず笑みを浮かべていた俺に、彼は時々意外そうな顔を向ける。
「林田が笑っているところって、初めて見た気がする」
本多は途中で問いかけた俺にそういった。彼に取っての俺は、随分と話しかけにくい相手だったらしい。いつもただ静かに机についているだけというのは、彼には全く理解できない行動なのだそうだ。そういう相手には、どう話し掛けていいか分からないのだという。実際話してみると何でも静かに聞いてくれるからいいよなと、随分都合のいい解釈をしてくれる。俺はただ、自分から話しかけるだけの話題がなかっただけなんだけど。
人の話を聞くのは好きだった。特に驚いたりした感情が顔に出るわけではないから、つまらなそうに聞いているように見えるらしいけど、実際はそんな事はない。本多はそれを分かってくれたようで、俺が聞きたがるようなクラスメイトのちょっとしたうわさ話をいくらかしてくれた。
「林田はさ、話すのは苦手でも聞くのは平気だろ?」
だからうるさくなかったらこのまましゃべっててもいいかと聞く本多に、俺はただ頷いた。何もいわなかったのに俺の考えている事を分かってくれた事が、なんだかとても嬉しかった。
本多につれられて駅をおりる。そういえば学校そばの駅前だと思っていたのが、いつの間にか電車に乗っていた。そこはいつも利用する駅よりも二つほど手前で、あの藤井の店に近い。ざわざわといやな予感が背中を這い上がったけど、本多と一緒に居る手前、逃げ出す事も出来なかった。急な用事、と嘘をつくにも、俺はそういう事になれていなさ過ぎる。話し続ける本多に、口を挟む事が出来ない。
黙って話を聞いていると、いつの間にか藤井の思い人の話になっていた。藤井は本多によくその少年、つまりは俺のことを話していたらしい。あの、土曜日に会う前に何度か中等部の校舎を回って探したというような事まで教えてくれた。
そこまでしてどうして藤井が俺を探そうとしたのかは、あまり分かりたくないような気がした。あの雨の中で会ったのは偶然だけではなく、店の前を傘もささずに通る俺を見かけた藤井が不振に思い、追いかけてみていても立ってもいられなくなって連れてきたのだとまことしやかに教えてくれる。彼は藤井のコウジを探すのに手を貸した俺に、出来る限りの事を教えてくれているようだ。関係ない俺にそんな事を教えていいのかと聞くと、お前口が堅そうだし、と軽く答えてくれる。
「智のやつさ、すげえ嬉しそうにその子の名前呼ぶんだよ。コウてさ。そう言えば……」
話がまずい方向に流れている。そんな風に聞かれると、答えないわけにはいかない。それに黙っていたところでどうせ家に帰って名簿でも見れば、簡単にばれてしまう事なのだ。
「林田って、下の名前なんて言うんだ?」
「……幸司」
呟くように答えたけど、本多は眉一つ動かさなかった。その無反応さに思わず胸をなで下ろす。ちょっとしたためらいの意味も、渦中の名前と同じだったからだと取ってくれたようだ。
「幸司って呼んでもいいか? 俺の事も祐一でいいから」
その事自体には特に文句はない。ただ、ほんのすこし疑問が湧く。それはとても単純な疑問だ。
「いいけど、どうして?」
俺なんかを名前で呼んで、いったいどうしようと言うのか。彼がいったのではないか。俺は話しにくい相手だと。ちょっとでも言葉を交わした相手とは名前で呼びあいたいと言うのなら話も分からなくもない。だけど彼はクラスの中で名前で呼んでいる人間などほとんどいなかったように思う。
「なんでって。俺が幸司の事気に入ったからなんだけど? これからいろんな事話したいと思うし、幸司の事もいろいろ聞きたい。……迷惑かな?」
「迷惑っていうか……」
分からないと素直に言うと、本多は俺を安心させるように頷いてくれた。
「幸司って、人付き合い苦手だろ? いつも一人で居るからそう言うの嫌いなんだと思ってたけど、そうじゃないって分かったから。友達になりたいって思った」
こう言うのは直感、と笑う本多の感覚はよく分からないのだが、彼に名前で呼ばれるのは嫌じゃない。そう言うと本多は嬉しそうに笑った。だけど、その顔を見ても俺は彼を名前で呼ぶ気にはなれないでいる。いつか彼が俺を見限った時に、それを元に戻すのが辛いから。
歩きながら、そんなたわいもない話をしていた。それでも俺は結局聞き役でしかなくて、本多はそんな俺に文句を言ったりしないでいろんな話をしてくれる。こんな風に楽しく人と時間を過ごしたのは随分と久しぶりの事だった。
ふっと目を上げる。見た事のある坂道の中腹だった。振り返ると、数日前ぼんやりと時間を過ごした公園がある。
「……ごめん、俺、帰る」
急だとは思った。分かっている。そのせいで彼が気を悪くするかもしれないとは思ったが、それでも本多と一緒にあの場所に顔を出すわけにはいかない。何も知らない本多はいとも簡単に俺の事をばらすだろうし、友達になりたいと言ってくれた彼に、本当の事を知られたくなかった。
まだ嫌だった。俺は自分の傷を治していない。勝手と言われても今の俺にはきっと藤井から得られる優しさが、本多から得られるであろうあたたかさが必要だった。
このまままっすぐ坂を昇っていくと藤井が居る喫茶店についてしまう。彼がここに連れてくるつもりだと言うのは薄々気付いていたのに、どうして俺はここまでついてきてしまったんだろう? あまりに驚く事を言われたせいで、注意力が落ちていた。こんなところまで来てやっと気が付くなんて。
「幸司?」
もおうほとんど坂を上りきっていた。目の前に店がある。そして店の中には藤井の姿が見えた。今のところ外には気付いていないらしい。足を止めた俺は次には数歩下がって方向を変える。必死で本多の手を振り切り、駆け出した。びっくりして本多が声を上げたのと、鈴の鳴る音とともに木の扉が乱暴に開けられた音がしたのは同時だった。
「幸司?」
「コウ!」
遅かった、と思うと同時に走り出した。だけど、ほんの数メートルで捕まってしまう。はじめは手をつかまれただけだったのに、引っ張られて後ろから抱きしめられる。
「……はなせよ」
「やっと来た」
きつく抱きしめられる。すぐそばで本多が見ていると分かっていたのに、それすらも忘れそうなほど強い力が抱きしめてくる。
「はなせって言ってる」
「……ずっと待ってたんだぞ」
俺の言う事なんて聞いていない。それどころか、腕の中でぐるりと向きを変えさせられて。ぎょっとする間もなく、唇がおりてくる。
「……っ」
深く舌が潜り込んできて、息が詰まる。身動きもできないほどに強く抱きしめられていて体が痛いのに、その痛みすら嬉しく感じてしまう。
「コウ……」
時々名前を呼ばれる。何度も口付けられている間に、体に力が入らなくなって、鞄が足下に落ちた。頭がぼうっとしてきて、何も考えられなくなる。
荒い息をついている俺を抱き寄せてゆっくり頭を撫で、何度もこめかみに唇を落としながら。藤井は繰り返し俺の名前を呼ぶ。そうされているうちにだんだん頭がハッキリしてきた。こいつ、俺の許可なくこう言う事しないって言わなかったか? しかも、こんな道端で。
「コウも約束破っただろう。だから、俺だって二、三回破ってもいいはずだ」
抗議の変わりににらみ付けると、しゃあしゃあとそんな事を言う。あまりの事に絶句していると、後ろから声をかけられた。俺が逃げようとした理由が、足下の鞄を拾ってくれている。
「二人とも何してる? そんなところでラブシーンしてないで、中に入れよ」
逃げたいと思ったけど、藤井は俺を離してはくれなかった。
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