<1-3>

 風呂を出て脱衣所を見渡すと、きちんと畳まれたシャツとズボンがあった。どちらも藤井のものだろう、目の前で広げてみるとかなり大きい。
 風呂を出た頃には俺の頭の中は大分元通りになっていた。ちゃんと考える事もできるし、もちろん眼鏡がないせいで視界はぼやけているが周りも見える。さっきまでがおかしかったのだと言えばそれまでで、多分藤井は変なやつだとでも思っている事だろう。だけど、それはそれで良かった。
「やっぱり、でかい……」
 袖を通したシャツは随分と大きくて、半袖なのに肘の辺まで袖が来ている。ズボンはウエストがゴムなのでずり下がる事こそなかったが、どう考えても緩い。おまけに裾は何度か折らないと引きずってしまう。
 今さら言っても仕方がない事なのだけど。これを自分よりも年下の男が普段来ているのだと思うと、ため息すらもれる。それ程貧弱な体をしているつもりはなかったのが、目の前に事実を突き付けられた様なもの。世の中、不公平だ。
 鏡の中の自分をもう一度覗き込み、目が赤くなっていない事だけ確認してから俺は外にでた。
 道順はちゃんと覚えていないけど、確か喫茶店は下の方だったと思う。階段をのぼった覚えがあった。適当に礼を言って、傘でも借りて今日は帰ろう。服はまた今度、洗濯をしてから持ってくればいい。そう思って数歩歩いた先に、藤井が立っていた。下を向いたまま歩いていたから、危うくぶつかりそうになる。
「やっと出て来たか。あんまり遅いから、溺れてるかと思って見に行く所だった」
「誰が風呂場でなんか」
 きちんと礼を言おうと思っていたのに、気付くときつい言葉を返していたのが自分でも不思議だった。俺はもともとこんなに好戦的な人間ではなかったはずなのに。
 藤井はちょっと苦笑いしただけで俺を手招きした。そのまま黙って前を歩いて行く。ついてこいと言う事らしい。
 何を考えているか分らない背中に、駄目だと思いながらもやはり俺は何かを期待している。彼を信じる理由など、何処にもないというのに。
「なぁ、お前、名前は?」
 口調から判断するに、藤井はやはり俺を年下か、少なくとも同年だと思っているようだ。彼の噂は種々聞いているが、上級生に対する礼儀を知らない、という話は聞いた事がない。これで彼が俺を知る機会はさらに少なくなると、都合のいい勘違いにほっと息をついた。年下に見られる事はもう慣れっこで、すでに憤る理由にもならない。それでもさてなんと答えようかと思案する。
「……聞こえてる?」
「あ? ああ」
 考え込んでいるのがまたぼうっとしていると思われたらしい。俺の顔を覗き込むようにしながら、本当に心配そうに尋ねてくる。近付く顔に一瞬ぎくりとしたが、返事をするとそれ以上近寄っては来なかった。
 その状況でもう一度思案する。名前を教えたいとは思わなかった。こんな醜態をさらした相手と、学校で会いたいとは思わない。だが、だからと言ってどうやって誤魔化せばいいのか。そう、ほんの少し前に会ったばかりだけど、俺はこの男が嫌いじゃない。嘘をつきたくなかったのだ。
「名前、なんて言うの?」
「……幸司」
 名前だけを答えたのは、苦肉の策。それだけならきっと誰だかなんて分らない。それに藤井が俺を探したりするはずがないのだから、本当はそこまで気を使う必要だってないのかも知れない。
「ふぅん……コウくんって呼んでいい?」
「どうぞ」
 今までにそんな呼ばれ方をした事はなかったけど、別に今日だけのこと、どんな呼ばれ方をしようと変わりない。気にする程の事ではなかった。
「あの」
「なに?」
 それよりも。一応礼ぐらい言っておかなければいけない。そう思って声を出すと、藤井は振り返った。人好きのする笑顔は、俺の喉でつまる言葉を素直に引き出してくれる。
「その、ありがとう。風呂と、服」
 別に気にする程の事じゃない、とだけ言って、藤井は前を歩く。彼に連れられて、喫茶とは別の部屋に入った。勉強机と本棚とベッド。ラジカセにたくさん並んだCD。一目で男の部屋だと分るそこは、多分藤井の部屋なんだろう。
 中に入れられて座るように言われる。部屋のまん中に出された折り畳みのテーブルには、グラスに入った琥珀色の飲み物が二つ。色から見て、お茶だろう。
「服は今乾かしてるけど、ちょっと時間がかかると思うよ」
 どうぞとお茶をすすめられて、俺はそっとグラスを手にとった。あまり世話になる気にはなれないのだが、不本意にも涙と風呂で体内の水分をかなり失っている。単純に体が水を欲しがっていた。
 さて、どうしよう。確かにあの服が乾くまで待つのはかなり時間がかかる。シャツの方はすぐ乾くだろうが、問題はジーンズのズボン。はっきり言って、梅雨時に家の中に干していて乾くものではない。
「コウくんってさ、時々下の喫茶に来てたよね」
 時折グラスに口を付けて茶をすすっていると、藤井はニコニコと声を掛けてくる。確かにオレは時々来ていた。学校帰りに、制服のままで。
 つまり藤井は俺が同じ明蘭学院に通っていると知っている訳だ。中等部も高等部も制服自体は一緒だから、この話し方からして俺を中学生だと思っているのだろう。それよりも藤井が店に来ている俺を知っている可能性など、考えても見なかった。俺の方は、一度も見た覚えがないのだから。
「ああ、さっきのことは誰にも話さないから」
 俺が一瞬身を固くしたのを見て、藤井は明るくそう言った。さっきのこと、とはつまり、泣いていた事だろう。
「あんなずぶ濡れになって、雨の中で泣いてたなんて何があったのか本当は聞きたいんだけど、嫌だったら聞くのも止めておく。そのかわり、一つお願いしたい事があるんだけど……」
 理由は聞かない、と言ってくれたのは凄く有り難い。あの激しい感情……あるいは恐ろしい程の無感情が何処からきたかなんて、俺には自分でも説明できない。憶測をたてる事は出来ても、それは自分の暗い部分。人に話したいような事ではない。
 そう、だから聞かないと言ってくれたのは本当に有り難かった。その代わりのお願いなら、できる限りは聞こうとも思った。だが、続けられた言葉は……。
「コウくん、俺とつき合ってくれない?」
 藤井は机に乗り上げるようにして俺の顔を覗き込む。今一つ意味が読み取れずに聞き返すと、やはりもう一度同じ言葉が帰って来た。ここは何処まで、などとぼける所ではないのだろう。どう考えても買物につき合えとかいう類いではない事は、目を見れば分る。
「……俺、男だけど?」
 姉妹もいないよと付け加え、取りあえずお約束の反論を試みる。これでも中等部の時からすでに四年と半分、男子高なんてものに通っている。疑似恋愛とでも言うようなものを男同士で築き上げる者が周囲にかなりいるのを見て来てはいたし、それが高じて本当に恋愛をしてしまった人たち、果ては将来を誓い、その誓いを果たしている人たちもいる事を知っている。そんな話を聞いただけで逃げ出す程純情にもできてはない。だけど。
 ……こんなことが自分の身に降り掛かってくるとは思っても見なかった。自慢ではないが生まれてこの方、もてた試しなどないのだ。異性はもとより、同性からでもそんな申し出は初めての事だ。
「分かってる。制服姿も見てるしね。四月に下の喫茶で見て一目惚れ。バイトしながらずっと様子見てた」
 にこやかに笑うその顔は、確かに嘘を言っているようには見えない。だけど、だからといって簡単に信じられる話でもなかった。特にその時の俺は自分に対する愛情や好意に酷く懐疑的になっていたから。
 うーん、と唸って考えるふりをしながら、俺は必死でこの男の噂を思い出そうとしていた。やっと働き出した頭は、なんとか藤井の情報を紡ぎ出してくれる。あまり世事に明るくはない俺が知っている程、彼が有名であった事が幸いした。
 中等部から明蘭学院に通っていた藤井は、年下年上構わずもてていた。特に運動をしている訳でもないのに背が高くがっしりとした体をしていて、顔も整っている。中等部には未だファンクラブが残っているはずだ。噂自体は俺自身が中等部にいたころから知っていた。だけど接触する事などなかったからもちろん直接には知らないし、向こうだって俺の名前も知らないだろう。
 告白される事は数多くあったという。近隣の学校の女生徒や、時には校内でも。だけど誰か特定の人物とつき合っていると言う話は聞いた事がない。
「俺なんかじゃなくても、相手は幾らでもいるだろう?」
 それこそ、掃いて捨てる程。藤井とつき合いたいと言う者は、校内で募集をかけても列をなすだろう。周りで何件か見ているだけあって、俺も頭ごなしにそれを否定するつもりはないが、だからといって自分が同性に引かれる人間だとは思っていない。いきなりつき合おうなどと言われても、はっきり言って困る。
「俺が惚れたのはコウくん。幾らでもいるような相手じゃ嫌なんだ」
 見事にそう言い切る目はまた真剣そのもので……。そんな目で俺を見ないで欲しい。思わず何かを期待してしまいそうになる……いや、期待してしまう。
「もしかしてさっきの、怒ってる?」
 あ、っと思い出したように尋ねてくる。
 さっきのって……ああ、あれか。そりゃぁ、怒らなかったと言えば嘘になる。だが行為自体を怒っていたと言うよりも、それによって呼び覚まされた自分の感情に腹を立てていた。だからこそ忘れてしまえと思っていた事を、わざわざ掘り返さないで欲しい。
「別に、気にしてない……」
 気にしていないと言う事にして、この話すべてにケリをつけるつもりだった。俺はこいつにも、他の誰にも何かを期待したくなどないのにっ!
「俺は気にして欲しくてしたんだけど?」
 藤井はひょうひょうとそんな事を言う。
「俺はコウにキスしたいと思ったから、キスした。本気だからな」
 いつの間にかコウくんがコウになっている。藤井の目は恐ろしいまでに真剣で、痛い程に真摯だった。思わず信じて気持ちをゆだねたくなるのは、今弱っている心のせいだけとは言い切れないかも知れない。
「俺とつき合えよ」
 不適に笑うその男は、確かに少しどころではなく格好いいのだと思う。同性に引かれた事のない俺でさえ、ぐらぐらと引かれる気がする程だ。今引かれるのは弱った心故、誰かに側にいて欲しいのと望んでいるからだと言い聞かせておかなければ、大変な事になってしまいそうな気さえする。
「……なんで、俺なんだ?」
「一目惚れだって言っただろう? いつも寂しそうにしていたから、笑った顔が見たいってずっと思ってた」
 俺は、そんな一目で分る程に暗く沈んだ顔をしていたのだろうか? だけど、弛んだ心のすきは試しに一緒にいるくらいは、などと思ってしまう。いきなり恋人顔をされても困るだろうけど、友人としてつき合ってみるのはおもしろそうだと思う。もちろん、気晴らしとして。でなければどうして一目惚れしたからつき合おうなどといきなり言ってくるような相手と、しかも男とつき合う事ができるだろう。
「今はヤなことがあって、一人でいたくないんだ。だから、気晴らしだって分かってて、それでもいいって言うんならつき合ってもいい。ただし、友だちとして」
 そう、これは取り引き。藤井が俺とつき合いたいと言う理由はやはり理解する事は出来ないけれど、それを事実として考慮し、利用する事は俺にでも出来る。とにかく俺は今一人でいたくなかったから。一人でいるときっと嫌な事ばかり考えてしまう。その辛さに耐えられそうにないし、自分を好きだと言ってくれる相手が側にいれば、両親にずたずたにされた自尊心をなんとか回復できるかも知れないから。
「いいぜ、それでも。俺に夢中にさせてやるから」
 ニッと笑った藤井は、契約成立とばかりに俺の唇を奪っていった。





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