<1-2>
いつの間にか、引きずるように連れられて俺は彼の家だと言う喫茶店を通り抜けた。看板にあった文字は、そこが何度か来た事のある店だと教えてくれた。学校帰りに、寄り道程度の時間で来れるお気に入りの息抜き場所。ここで飲めるほの甘いココアが好きで、気落ちした時に良く来ていた。とすると、俺は無意識の内にこっちに足を向けていたのかも知れない。
いくつかのドアを開けて、階段をのぼって、廊下を歩いて。なんだか分らなくなるくらいただ引きずり回されて、最終的には風呂場と思しき場所に辿り着いた。
「これがシャワー。こっちを捻ったら……」
服のままで中まで引っ張り入れられ、風呂の使い方を説明される。そうかこいつは俺を風呂に入れようとしているのかとぼんやり聞いていると、分かったなと念を押された。ただ反射で頷くと相手は怪訝そうに俺を見る。
どうも思考が上手くまとまらなかった。今までの俺なら、相手が下級生だと分かった時点で逃げていた事だろう。なのに気付くとこんな所にまでついて来てしまっている。もっとも私服姿で、眼鏡もかけていない今の状況では、よほど親しい人でないと俺だとは分らないだろう。自慢ではないが、年相応に見られた事など、本当に数える程しかないのだ。
そしてこの姿で俺の事が分るだろう相手は、ざっと考えても思い当たらなかった。学校では生徒会に所属しているが、仕事以上で誰かと話をした覚えはない。まるで眼鏡で年をごまかしているような冷徹な書記で通っている俺の姿は、きっとこの時の姿からは思い付かないはずだ。
そんなことを取り留めもなく、ぼんやりと考えていたから、相手にも俺が心ここにあらずだと分かったのだろうか? 一つ小さなため息をついて、それでも思い直したようにニッと笑う。この時のぼんやりした状態の俺が気付いたのだから、相当はっきり笑ったのだろうと思う。そうしてそれを怪訝に思って首を傾げている間に、顔が近付いてくる。
けっこう整った顔だな、などと本当にほうけていたのだろう俺は考えていた。頬に手があたって、そのまま滑って耳の下あたりで頭を後ろから支えられても、何をしているんだと思っただけで。唇に柔らかい、暖かな感触が触れた時も、それがなんだか分らなかった。ただぼんやりと、気持ちいいなと思っただけ。そうも言っていられなくなったのは、ぬっとりとしたものが俺の口の中にまで入って来てからだ。
いつの間にか藤井は俺を抱き寄せていた。気付いて逃げようとしても、身じろぎすることすらできない。何をしているのかと訝っていた手は、俺の頭をしっかりと支えて顔をそらす事すら許さない。抵抗する腕ごと押さえられて、どうしていいのかも分らない。相手が何を考えているのかはなお分らなくて、それでも何も出来ないと覚っていいかげん諦めかけていた時、舌を吸われた。
どういうわけか、ぞくりとした痺れが背筋を駆け抜ける。そこから先は、訳が分らなくなった。
気付いた時には、俺は藤井の腕にもたれるような状態で抱かれていた。息が上がっていて、さっきまでとは違った意味で何も考えられない。何があったかは分かっていたけど、なぜそうなったのかはいっこう分らなかった。そしてそのことを考える事を、頭が拒否する。
「おい、大丈夫か? あんまりぼけっとしてるからと思ったけど……逆効果だった?」
俺を抱き寄せている腕は優しいのに、からかうような笑いを含んだ声が上からふってくる。それで一気に目が冷めた。
思わず縋っていたくなるような優しい腕を振払い、思いきり突き飛ばす。口元を痛くなる程に手の甲で拭って、射殺す程の勢いで相手を睨み付けた。
「悪かったって。そんなに睨むなよ。さっきみたいに大人しくしてれば可愛いのに」
放っておいてくれ。男に、しかも年下に可愛いなんて言われても嬉しくなんかない。だからなんて事をする、なんて事を言う、と睨み付けるのは止めない。
「泣いてたんだろう? ガキが強がってないで、ゆっくり温もって、好きなだけ泣いてからでてこい。着替えは俺ので悪いけど、出しておいてやるから」
「誰が……!!」
ガキだ、と言おうとした言葉は、あまりの怒りのせいで声にならなかった。藤井は笑って振り返りもせずに出て行く。俺が泣いていた事を否定したとでも思っているのだろうか。それとも子供扱いされて怒ったとでも思っているのだろうか?
男が出て行ってから濡れて体に張り付く服を苦労して脱ぎ捨てて、俺は腹立ちまぎれに思いっきり風呂のドアを締めてシャワーのコックを捻った。
ガキ、か。あの物言いではきっと俺の事を年下だと思っているのだろう。暖かな湯を浴びて、体が弛むと頭も働くようになってくる。それでもどこか冷めたまま、他人事のように自分を観察し続ける部分でそんな風に考える。だとしたら好都合だった。俺があんな所で、あんな風にみっともなく泣いていた事を誰にも知られずに済むかも知れない。
藤井は俺の事を知らないようだ。それだけで少し安心できた。冷徹な生徒会書記、などと呼ばれて少しは知られているのかと思っていたが、自意識過剰だったようだ。あるいは藤井も冷徹な生徒会書記の俺は知っているのかも知れないが、その二人をつなぎ合わせる事までは思いいたらないとか。ならば、それでいい。私生活の混乱など、誰にだって知られたくはない。
もっともばれたところで藤井はきっと言いふらさないだろうとは思う。その程度の事は俺にだって分かった。ただ、俺が見られたくなかっただけなのだ。
「ちくしょう」
だけど、あいつは俺に何をした?
それは確かに俺はぼんやりとしていた。だけどあんな方法で正気付かせる事はないだろうと思う。この際俺がその時にどんな感情と感覚に支配されていたかは置いておくとして、だ。そうでなければそのことを思い出す事すら出来ない。一瞬で忘れ去るには、あの一時は俺には強烈すぎた。
「そういえば、もててたか」
お湯に打たれながらぼそりと呟いて、なぜそんな言葉がでてくるのかと自分ですら不思議に思う。藤井が言っていた言葉を信じて、あれはほうけた俺を正気付かせるためにした事なのだと自分に言い聞かせる。でなければ、その行為に何か意味を探してしまう。
手慣れた、キス。そうして本来なら特別なはずのその行為を、藤井は手段にしたのだ。俺を怒らせるための。
「……ばかやろう……」
なぜか涙が出て来た。両親の事とは別の所で流れる涙。あんなもの、犬に噛まれたとでも思っていればいい。女ではないのだから、泣いて悔やむ程のものではない。つい最前、あれはただの手段だと納得した所ではないか。
だけど。あれは本来好意を持っている相手に対する行為。
別に藤井に好かれたいと思っている訳ではないけど、俺の事が好きでもない人間にあんな事をされ、少しでも慰められている自分が情けなかった。両親の離婚は、自分で予測していたよりも衝撃だったらしい。一瞬誰かに縋りたいと思った。俺自身が好かれているような錯覚まで起こした。心の隙間とは、かくも恐ろしい。
結局は誰も俺を好きになったりはしないのだともう一度確認する。親すらいらないと言うものを欲しがるやつなんて、いない。いる訳がない。
そう、藤井は俺の事が好きな訳じゃない。俺を怒らせるためにあんな事をしただけ。だから、喜ぶな。期待するな。そうして傷付くのは、きっとまた俺なのだ。
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