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 バケツをひっくり返し、ぶちまけたような酷い雨だった。アスファルトの道路にはねた雨は足元で薄く曇っていた。運動靴には水が浸透して、歩く度にグチャグチャと嫌な音がして気持ちが悪い。雨に濡れたジーンズは足に張り付いて歩き辛く、同じく体に張り付いてしまったシャツは痛いくらいに冷たい。ほうけてしまった頭ではそんな感覚的な事実を並べ立てる事しか出来ず、俺はただ黙々と足を交互に動かしていた。
 この雨はもしかしたら泣きたい俺の気持ちを代弁してくれているのかも知れない。そんなセンチな事を考えてしまうのは、多分に気弱になってしまっている今のこの状況のせいだろう。
「もう、どうとでもなればいい」
 俺自身がいくら悩んだ所で、きっと何も変わらない。変わる事が出来るのであれば、今までに何かが変わっていたはずなのだ。むしろこうなるのが遅すぎたのだとどこか冷静になっている頭の隅では思っている。
 つい数時間前、俺、林田幸司(はやしだ こうじ)の両親は自分達が離婚する事を俺に告げて来た。
 大体おかしいと思ったのだ。普段はめったに家に寄り付かない二人が、珍しく揃って家にいる。特に何か話すでもなく、難しい顔を突き合わせてお茶を飲むだけ。嫌な予感を臭わせるには十分なシチュエーションだった。
 そうしてその嫌な予感と言うのは当たるもので、二人は急に離婚を切り出して来たのだ。いや、二人の間ではもう話は済んでいたらしいから、あちらにとっては急と言う訳ではなかったのだろう。得に慌てるでもなく淡々と、すべて決定事項として語られた。
 二人にそれぞれ恋人がいる事は、昔から知っていた。お互いに隠しもしなかったから、例え小さな子供にだって分かった事だろう。だからいつかこういう日が来る事も十分予測していた。多分お互いに嫌っている訳ではないせいと、他にもいろいろな事情でここまで話がのびていたのだろう。それが動きだしたのだからとうとう決心がついたか、なにか心変わりを起こす事が出来たか。
「幸司はどっちとくる?」
 ただ決まっていなかったのは俺をどうするかだけ。 だけど自分達で決められなかったからと言って、どうしてその決定権を俺にふるのか。どちらを選んでも角がたつ上、俺にはそんなことは決められはしないと言うのに。
 俺は二人が好きだった。小さい時は仲の良い両親が自慢で、そんな二人の外泊が多くなった時にはそれがどうしても理解できなかった。だが今なら少しは分る気がする。要するにこの二人は恋人や夫婦と言う訳ではなく、仲の良い友だちなのだと。
 そしてその友人たちは、俺が答えを出せないでいると目の前で譲り合いを始めた。お互いの事を思ってか、自分の事を思ってかなんて、俺は知らない。ただ一つ分かっているのは、俺の事を思ってではないと言う事。
 それに無性に腹がたって、俺はついどちらでもいいなどと口走ってしまった。正直に言えば、どちらも嫌だと思っていた。二人が別れたあと、それぞれの恋人と一緒に暮らす事は分りきっている。例えば俺を引き取ったからといって、遠慮する事はあり得ないだろう。二人が幸せになれるなら、離婚も再婚も反対は出来ない。だけど一緒に暮らす事だけはごめんだった。だのについ、ずっと前から言おうと心に決めていた言葉は、その奥底に飲み込んでしまった。
「お互いに大事な人がいるんじゃ、コブはいらないだろうけどね」
 父の恋人には確かすでに小学校に上がろうかと言う子供がいるし、母の方も妊娠をしてしまったらしい。俺にとっての祖父母が離婚にうるさかった事も有り、最初は俺が成人するまでは、と思っていたらしいが、自分達の事情が優先してしまったようだ。理性ではそれが分かっていても感情が分ろうとはしなかった。あの二人が……あまりにも俺をいらないもののように扱うから、つい言い出す事が出来ずにいたのだ。
 俺はこの時が来たら一人で暮らすつもりでいた。そのために家事でも何でもして来た。確かに俺はまだ未成年で、何ごともなく二年後に大学に受かったとしても学生である事に代わりはない。稼ぎが有る訳ではないから、完全に自立できる気ではないけれど、それでも一人で暮らそうと思っていた。学費と、部屋代だけは申し訳ないが面倒を見てもらって、生活費はバイトでもして自分で稼ぐ。大変なのは目に見えていたが、彼等だってせっかくの水入らずの生活を邪魔されたくはないだろうと思っていたから。なのにあの二人は、俺がそれを言い出す気力すら奪い去ってしまったのだ。
「何も、こんな時、こんな日に……」
 ふと目についた公園にふらふらと入る。雨の公園になんて誰もいない。いいかげん歩き続けるのも辛くなって来ていて、まず目に入ったブランコに腰を下ろした。ブランコは濡れていたけど、全身ずぶぬれになっているからもうこれ以上濡れることなんて気にはならない。
 ぼんやりと上を見上げて真正面から雨を受ける。こうしていれば、泣いてもきっと分らない。その時の俺には雨の公園でブランコに揺られているのがいかに変わっているかと言う事には気が回らなかった。
 やっと涙が溢れてくる。多分最初に離婚の話を聞いた時から、ずっと泣きたかったんだと思う。それでもどうしてか泣く事が出来なかった。俺の事をもう気にもかけなくなった両親への怒りか、それとも分り切っていた結果にショックを受けている自分への情けなさか。きっとそんな所だろうと思う。
 受験まであと一年半。彼等はきっと、そんな事も忘れてしまっているのだ。あるいは覚えていても気にしていないのだろう。気にしているのは自分の子供がもうすぐうまれる事、そして、小学校に上がる事。今日が何の日であったかすら、彼等にはもう関係のない事なのだ。
 今年の六月第一土曜日、今日は俺の誕生日だったのに……。
 二人が昨日揃った時にはまさかと思った。この数年祝ってもらった覚えなどなく、書類で記入する事がなければ自分でも誕生日など忘れてしまっていただろう。
 そして何年かぶりで久しぶりに貰ったプレゼントは最低最悪。自分の事で浮き立った両親は、きっともう俺の事など眼中にはないのだと思い知らされる。女の人は確か離婚してから半年は結婚が出来ないから、子供がうまれる前に籍に入れようと思えば急ぐしかないのは分る。父さんの子供はもう物心がつく年令で、小学校に上がるのにいつまでも父親がいない状態では可哀想だ。そんなことは百も承知だった。だがもう何年も放ったらかしにされ、生活費が振り込まれても両親の顔を見る事も稀な子供は可哀想ではないらしい。年令の差、だろうか?
 でも、もういい。
 苦笑がもれる。二人が俺を押し付けあうのを見ていたくなくて家を飛び出して来たのに、気付けばじぶんからその様子を思い返している。傷口に塩を刷り込んでいるようでやるせない。
「簡単な話だ」
 二人は俺を必要としていない。いや、最初からいらなかったのかも知れない。なら、俺も必要としなければいい。そうすればこんなみじめな思いをしなくても済むのだ。
 きしり、とブランコが揺れた。
 分かっていてもそう簡単には行かない。自分がこんなにももろいとは思っても見なかった。いつかくることと分かっていたのに、思い悩んでしまう。どうするべきかが分かっているのに、それをする事が出来ない。不必要に悩む自分に腹がたつ。
「……明日には……」
 明日には、伝えよう。一人暮らしをしたいのだと、二人とは別に暮らしたいのだという事を、きちんと二人に告げよう。
 今は、駄目だ。まだあの中には帰りたくない。今日は週末だから、二人とも遅くても夕方にはきっとそれぞれの家族の元へ帰る事だろう。そのあとに家に戻って、電話でもして伝えればいい。
 それまでには少し落ち着いて……。
「いつまでそうしてる気だ?」
 不意に声をかけられて声の方向を見上げる。いつの間にかまた俯いてしまっていた俺に、傘が差し掛けられていた。眼鏡もなく、涙で歪んでしまた視界で、相手の顔が判別できる状態にはない。声の調子や、体格のシルエットからかろうじて同年代の男だろうと言う事が分る程度。
「考え事なら、もうちょっとましな場所でしろよ。風邪をひくだろう」
 呆れたようにそう言いながら、ぐいっと俺の腕を引く。その力は思いのほか強かった。抵抗する気がなかった事もあって、俺はあっさりとブランコから引き上げられてしう。まっすぐ顔を見ると俺より少し背が高い。微かに見上げる形になった。その顔をなんだか見た事が有るような気がするのだが、ぼやけた視界とほうけた思考では思い出す事が出来ない。
「来いよ」
 そのまま腕を引かれ、傘の中に引きこまれる。今さらほんの少し雨を避けたところでどうと言う事もないのだけども。
「家がすぐ近くだから、寄って行けばいい」
 何も考える事が出来なかった俺は、足を動かす気力さえ消えかけていた。ただ働かない頭で、一生懸命に目の前の男の名前を思い出そうとする。見た事はあると思う。それでもやはりぼやけた視界は記憶を呼び起こす邪魔をする。
「俺を疑ってるのか? 名前は藤井智(ふじい さとる)。明蘭の一年。なんなら生徒手帳出す?」
 言われて思い出した。そう、藤井智。高等部に上がって来たばかりの、人気者の一年生。
 それだけを納得すると、もう何かを考えるのが面倒になってしまった。俺は言われるままに相手について行く。分かっている事は顔と名前。ただそれだけだ。だけどこの男は俺の体を気遣ってくれた。
 それだけの事で、俺にとってこの男は「いい人」になっていた。





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