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「おや、今日はお一人ですか?」
ナイトのドアを開けてカウンターについた平田に高野の声がかかる。その声に顔をしかめた平田だが、言われたことが事実であるには違いない。ただ小さく肩を竦めていつもの通り、酒をオーダーする。
平田がここに来ようと思ったのはほんの気紛れからだった。直樹に会えない週末を、一人部屋で過ごす気になれなかったのだ。おまけに彼は何か隠し事をしている。電話口の声は明るくふるまっているようでも憂いを含んでいて、追求するのが痛々しい程だった。顔を見に行こうとしても拒否されるようでは、手の施しようもない。
あおってしまった彼の弟のことが気掛かりで仕方なかったが、それすらどうすることもできない。直樹がきっとうまくやると信じることしか平田には出来ない。
「ナオはどうしました?」
「風邪を引いたらしい」
他に答えようがあるだろうか? 平田はそう聞いているのだ。
だから、その後に続けられた言葉には目を剥くしかない。いや、いっそ食って掛かって胸ぐらを掴み、揺さぶってでもその意味を吐かせるか。
「確かに、熱を出して寝込んでますね」
「高野さん?」
聞き返す声も剣呑なものになる。まるで見てきたかのようなその言葉は、どうすることもなく電話を切った自分に対する怒りでもあったかも知れない。
「大丈夫です。うちでアキがちゃんと世話をしていますよ」
まるで楽しむかのように情報を小出しにする高野を、平田はぎろりと睨む。それでたじろぐ相手でないことは分かっていたけど。
「アキ?」
「我が家の居候ですよ。病人の面倒ぐらいはちゃんと見れます」
二杯目のグラスを平田の前に出しながら、高野はすまして答える。直樹の状態はそんなすましていられる状況ではなかったが、何も知らずにこんなところにのみにくる男には嫌味の一つも言いたくなるというものだ。
「……どうしてあんたの所に?」
二杯目に出された酒よりも先に水をあおって頭を冷やす。やっと状況の異常さを理解した平田は、静かに問いかけた。
相手が冷静になったと知るや、高野も悪戯を仕掛けるような表情を沈めた。そうしてあらわれるのは、いつもの冷静なマスターの顔。
「一人では対処できなかったからでしょうね。初めてのことで体が吃驚してしまった、というところでしょうか」
熱に一人で対処できないとはどう言う意味か。発熱が初めてだなどと、あの年令でそれはないだろう。意味深な物言いにまたも平田が焦れてくる。相手の口調、態度からあおられているのが分かるのに、怒りをとめられない。
「高野さん? いい加減焦らすのは止めてくれないか? はっきり言ってくれると有り難いんだがね。それとも口止めされてる?」
「そうです。あなたには知らせてくれるなと」
口止めの意味もないようなことをするりと口にして、高野は笑みを浮かべる。焦り、力を抜かれ、また焦る。その繰り返しは常以上に気力体力を消耗する。いっそ突っ伏してしまいたくなるのを堪え、それで、と平田は続きを促す。
「熱は明日の朝には下がるでしょう。ようは慣れの問題ですし」
そこまでくり返されて気付かぬほど平田も鈍くはない。初めてのこと、体が驚いた、慣れの問題……。それらを合わせて出る答えなど、たかが知れている。
「相手はあなたではなかったようですね」
とどめのごとく言葉に、平田の目がきつい光を帯びる。つまりはそう言うことだ。
まず最初に平田の頭に浮かんだのは直樹の弟。直樹があの男の隣で嬉しそうに笑っている姿。積年の想いを叶え、嬉しそうな……。
ぎり、と唇を噛んで、グラスに手をのばす。その思いのほか冷たい感触と、からりと解けて崩れる氷の音にふと意識を引き戻される。
直樹はなぜ高野のところにいるのか。
初めてのことで、一人でうんぬんは置くとする。いや、置く必要はないのかも知れない。もし本当に直樹があの男の横で笑っているのであれば、高野のところに行く必要はまるでないのだ。それが、あの男とはきっとまるで縁がないであろう高野のところに逃げ込んだと言うことは……。
「……そう言うことか」
悟れば、平田の行動は早い。小さく呟いた声は高野にも十分聞こえていた。
「迎えに行く」
「ダメです」
それは直樹の本意ではなかったのだろうと結論付け、だからこそそばにいたいと思った。それを高野はたった一言で切って捨てる。
「高野さん」
「ちゃんと正解に辿り着いたことはほめてあげます。でも、ダメですよ」
まるで幼子にいい聞かせるような口調が勘に触らなくもないが、面白くもないことにそれが正解だと言うのだ。
「自分でちゃんとあなたのところに行くと言ってますから。まってあげて下さい」
言い返そうにも、そう言われてしまっては何もかえせない。大人しくグラスの残りをあおり、平田は立ち上がる。どうもここにいてものんびり酒を飲む気分にもなれない。さっさと家に帰って、ふとんに潜り込んでしまうのがよさそうだ。
「おや、お帰りですか?」
立ち上がり、財布を出す平田に高野が顔を向ける。
「帰るよ。ここにいても虐められるだけだしね。直樹に待ってるって言っておいてくれ」
出ていく平田の背中に分かったと伝え、高野はまた仕事に戻った。
「ナオは?」
「寝てるよ。今何時だと思ってるんだ?」
午前六時、仕事を終え、店を片付けて家に戻ってきた高野は、留守番をしていた諸岡に声をかける。何時だと思うと言いながらも諸岡はきちんと着替えも済ませていて、エプロン姿で台所に立っていた。
「はいはい。早朝からごくろうさま。で、ナオの具合は?」
朝食用に作られただし巻卵をつまみ食いして、高野は上着を脱ぐ。そのままシャワーを浴びて諸岡の用意した簡単な朝食----高野に取っては夕食だが----を食べて眠る。そうしてまた昼頃に起き出して朝食と言う名の食事をし、家事を済ませて夕方に店に出て食事をして仕事をする。高野の一日はそうして進む。
「まだちょっと熱があるかな。傷も痛むみたいだけど、さすがに俺が見てやるわけにもいかないし。まぁ、熱の方は今日一日休んでりゃ大丈夫だろ。ほら、シャワー浴びてこいよ」
それは直樹の傷の部位を考えれば。具合を見るなんてことをすれば平田に呪い殺される。いや、殴り殺されるか。高野は数時間前にあった男の顔を思い出して小さく笑みを浮かべた。
投げられたタオルを受け取り、浴室に入る前に眠る直樹の顔を見に部屋を移動する。上掛けを体に巻き付け、安らかな寝息をたてる直樹の額にかかる髪をかきあげてやりながら、高野は小さく息をついた。楽しい夢でも見ているのか口元にはうっすら笑みが浮かんでいる。目がさめるとこの笑みもなくなくなるのかも知れないと思えば、良く見ておこうと言う気にもなる。
もう一度くしゃりと髪をかき混ぜ、部屋を出た高野は、シャワーを浴びて諸岡の朝食を食べるため、リビングに向かう。
「良く寝てただろ? こっちが直樹の飯な。どうせ今日は休みなんだ、できたら起きるまでベッドに入るなよ」
エプロンをはずし、きちんとスーツの上着を着た男は、
そう言いおいて家を出ていく。いつの間にか住み着いている。許可をした覚えはないのだが……。
嫌ではないのだから仕方ないし文句も言えない。いや、むしろ望んでいると言っていい。
「それよりもナオの方か」
諸岡がわざわざ高野のために用意した軽い食事をもそもそと口に運び、コーヒーを飲む。確かに諸岡の言う通り、直樹が起き上がるまでは起きていた方がいいだろう。本当を言えば起きている間はそばにいないまでも、声をかけられれば返事をできるようにしていた方がいいのだとも分かっている。明日が休みだと言って、一週間働きつめたのちの徹夜はさすがに辛いのだが……。
「……高野さん……。いつもこんな時間?」
諸岡が用意したのだろうトレーナーに身を包んだ直樹がリビングに顔を覗かせる。食後のコーヒーをすする高野の前に遠慮がちに座った。その動作はどこかまだ緩慢で、見ているだけで痛々しい。
「まぁね。ナオこそ早くない? もっと眠っててかまわないのに。起こしちゃったかな」
ちなみに今日は月曜日。時刻はすでに七時を回っている。学生ならばよほど学校近くにでもすんでいない限り起き出している時間だろう。
「いつもはもっと早くに起きてるよ。二、三日は……さぼるつもりだけど」
出されたミルクを少し不服そうに受け取って、直樹は口をつける。二、三日。それで自分を落ち着けることができればいいのだけど。
「うちはいつまでいてくれてもかまわないよ。何もできないけどね」
柔らかな笑みをうかべて、高野は眠るために立ちあがる。そしてリビングを出ようとして、ふと思い出したように直樹に振り返った。
「昨日……平田さんがきたよ。」
声に少年がはっと息を飲んで振り返る。
「風邪引いたんだって? 心配してた。早くよくおなり」
答えは帰らなかった。
高野を見送って直樹はテーブルに用意された朝食に目を向ける。諸岡が用意したそれは十分にバランスを考えられたもので、それを見るだけでも頭の下がる思いがする。
「……手紙…?」
サラダをウエイト代わりに置かれた手紙には、綺麗な文字が並んでいる。曰く、ちゃんと食べるように。家に連絡を入れておくこと。
家に。思わず口に出して読み、ため息がもれる。高野には確かに家出をしてきたと言ったが、無断で出てきたなどと言った覚えは直樹にはない。それがしっかり読まれている。行動が分かりやすかったのか、それとも寝言ででも口走っていたのか。どちらにしても、確かに無断のままと言うわけにも行くまい。
せっかく用意された食事を済ませて食器を洗い、直樹は昨日から着信音量をオフにしていた携帯に目をやった。山のような履歴だ。自宅から、久志の携帯から。留守録にはなにも入っていないしメールも届いていないが、なんども電話をしてきたことだけは分かる。なんの言葉も残っていないのはきっと何も言えなかったからだろうことも想像はつく。
それでも。電話をかけようと携帯を持ち上げても。直樹の手はそこで止まってしまう。直樹とて、なんと言っていいのか分からないのだ。
時間を見る。八時を過ぎたところ。運動部に所属する久志はすでに朝練に出ている時間だ。家にかけたところで誰も出ないし、携帯に掛けても出れるわけもない。ならば久志への連絡は後にしてもいいだろう。
学校の事務局にかけ、風邪で欠席すると伝える。お大事にと言う言葉に簡単な礼をのべて、通話を切る。そうして携帯をしまいかけ、ふと、止まる。一応、かけてみるか……、と。
二度、三度。呼び出し音が直樹の耳の奥に響く。五度目の音に耐えきれなくて通話を切ろうとした、その時。
『はいっ、篁』
焦りを含んだ、疲れた声が直樹の耳に入る。一瞬で、直樹は声を失った。なぜ、こんな時間に家にいるのか。出るはずもないと思っているからこそ掛けられたと言うのに。
『直樹か? 今どこにいるっ』
切羽詰まった声。書き置きすら残さなかったのが、そうとう堪えているらしいことがその声だけで分かる。
「しばらく、帰らない。それと……」
ため息のように掠れる声。直樹にも電話の向こうで久志が息を飲むのが分かった。
「お前のこと、そんなふうには見れない。……じゃぁ」
『直樹っ』
縋る声を振り切るように直樹は通話を切る。そのまま携帯を鞄の奥にしまい込み、やっと息がつけた。
なぜこんな時間にいまだ家にいるのか。連絡を待っていたと言うのか。黙って出てきたのは悪かったのかも知れないが、久志はそれだけのことをしたではないか。思い浮かぶ言葉にいちいち自ら解答をつけながら直樹はなんとか自らの動揺を押さえようとする。
連絡も済ませたしと息をつくと、直樹はすることもなくテレビをつける。高野が起き出してしまわないようにと小さな音で流した朝のワイドショーを意味もなく眺めながら、ふと考えるのは平田のこと。
「高野さん、昨日会ったんだよな」
うらやましい、と思う。自分も会いたかったと。自らが行かなかったのだと分かってはいても、会おうと思えば今日の夜にも会えると分かってはいても、直樹にはそれが出来ない。
「……喋っちゃったかな」
ローテーブルにのせた腕に頭をあずけ、直樹はふと思い至る。喋っていない訳がない……ような気がする。読むことのできない高野の性格を云々するでなく、きっと直樹の保護者として扱われているに違いない平田に、今現在直樹がどこにいるかを言わない訳が無いように思うのだ。たとえ口止めされていたとしても。実際のそれが保護者への報告なんてかわいらしいモノではなかったことは、きっと直樹には一生知らされないけども。
平田に会って、まず何をすればいいのか分からなかった。今度の熱が嘘であったことの弁明か、それとも告白か。その告白にしても、ついには悟った気持ちか、それとも先日久志との間に起こったことか。それらすべてを平田に会うまでに考えなければいけない。どれだけ考えても、考え過ぎるということはないだろう。絶対に、平田と別れたくないのだから。
そして、直樹にはもうひとつしなければいけないことがある。それが、久志との和解。
和解とまでは行かなくても、理解してもらわなければ……。今回姿を眩ませたことで、どれだけ久志の頭が冷めているか直樹にも分からない。それでも少しは冷静になっていてくれればと思っている。
「どっちから……」
一般常識とかいうことを当てはめると、どちらを優先するのが正しいのだろう。考えても直樹は答えを出すことができない。それでも、彼の答えは決まっている。
平田だ。
「……体が動くようになったら……」
平田の所に行こう。週末に限ることなく、もっとまともに動けるようになったら、すぐに。
高野から何かを聞いたなら、今も待っていてくれるのかも知れない。いや、待っていてくれると信じたいと直樹も思っている。それでも今、久志に触れられたなごりの残るこの体で行くのが嫌だったのだ。
あと二日、直樹は高野の部屋で休ませてもらった。そうして木曜日の朝、早く起きて高野が帰ってくるのを待つ。諸岡には前日の夜、一緒に食事をした時に今日の夕方には帰ることを告げていた。すでに傷も癒え、なんとか気持ちも落ち着いてきた。そして何より……平田に会いたかった。
会うのが恐い気持ちはどうしてもある。会った時には、全て正直に話すつもりでいるから。それでも平田の顔が見たかったし、声が聞きたかった。たとえ話をしたことによって、どんな反応をかえされたとしても。
「高野さん、尚志さん、来てた?」
最初の日に平田がきていたと言うことを聞いてから、結局毎日平田が現れたかを聞いている。ほんの少しでも平田の様子が知りたいと言うその様子に高野は頬を緩めるのだが、かえしてやれる答えはいつも否だ。平田はあの日曜日から一度もナイトに顔をだしていない。
「今日も来てないよ。一応平日だしね。仕事もあるんじゃないかな?」
服を緩め、答えながらも高野にはなぜ平田がこないかの理由が分かっている。直樹が自分で平田のところに帰ると言った高野のその言葉を信じているのだ。毎日そそくさと部屋に帰り、少年が部屋を訪れるのを今か今かと待っている姿すら目にうかぶ。
「どうせ今晩には向こうに行くんだろう?」
ため息をついて残念がる直樹の頭を軽く撫で、くしゃりとかき混ぜる。年相応の表情を見せる少年が愛おしく、たった数日で体を癒し、心を強くしたその姿に感嘆すら覚える。
「行くよ。何を言われても恐くない……なんて言えないけど。多分ふられるんだろうね、僕は。そう思ってても、やっぱり尚志さんに好きだって……」
「そう言うことは、まっ先に本人に言いなさい」
言いかけた口を軽く押さえられ、言葉を遮られる。握りしめた指先にあたたかな手が添えられ、直樹は視線をあげる。
そこにある優しい笑顔に、少年はただ頷いて笑みを浮かべた。
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