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『直樹をお願いします』
受話器をあげると、少しいらだったような若い男の声がする。聞き覚える程よく知っている声ではない。だけどここにこんな用件で電話をかけてくる相手は一人しかいない。平田は小さくため息をついて、いないよ、と答えた。
直樹の義弟の久志から電話がかかってくるようになったのは月曜日の夜からだった。それから毎夜、十時を過ぎた頃にその電話はかかってくる。最初の時には口論になるかとも思えるようなやり取りまで繰り広げたのだが、二日目からはそれで終わる。いないと答える平田に、久志はただ一言、遅くに失礼しましたとかえして受話器を置く。どれだけ憤っているのか平田には想像することもできなかったが、まだ二十歳にもならない少年が必死に自分の感情を押し殺して電話をかけてきていることは分かった。
「信じてないんだろうな」
平田は一人ごちる。相手が平田の言を信じていないことなど声の調子をきけばすぐに分かる。そして信じられないだろうことも想像はつく。だが実際直樹はここにはいないのだし、居場所を知っているとはいえそれをわざわざ教えてやる程の親切心は持ち合わせていない。それに直樹がわざわざ隠しているのかも知れないと思うと、やはり教えるわけにはいかないだろう。
あの二人の間に何かがあったことは確実だ。それは平田にも分かっている。それが歓迎するようなことでないことも。
はたして自分が帰ったあの後、何がおこったかなど想像することしかできないが、高野の思わせぶりな口調からしてあらかた想像がついていた。もちろんその時の当事者達の気持ちなど分からない。事実が想像できるだけだ。
そうしてそんなことになったと知って……いや、想像して、平田は自分の行動を深く悔いた。あれ程まで思わせぶりなことをしなければ、こんなことにはなっていなかったかも知れない。もちろん全て結果論だし想像ではあるのだが、ことの起こりの理由を平田は久志の嫉妬だと解釈した。勝手な推論ではあったそれはほぼ事実と相違なく、平田がそれに責任を感じるのも仕方がない。たとえ直樹の頼みでそうしていたのだとは言え、その行動を彼自身が望んでいなかったかと聞かれれば、否と答えるしかない。久志に直樹と仲が良いことを見せつけるのは子供じみた優越感を満足させてくれたから。
コーヒーを入れてソファに座る。テレビはつけない。微かな物音すら聞き逃したくなかったから。平田はこの数日の夜をそうして過ごしている。日曜にナイトで高野に聞いたから。直樹が自分でこちらにくると言っていると。それならせめて、彼がここにきた時にちゃんと迎えてやれるようにと待っている。それでも週も半ばにきたが、未だ音沙汰がないことに平田もそろそろ焦れはじめている。この週末まで待っても直樹があらわれなければ、自主性を重んじようなんてことを言っていられない。きっと高野のところに押し掛けるであろう自分を平田は自覚していた。
「早くおいで……」
場所を用意して待っているから。平田は今はまだいない直樹にそっと呟いた。
凶行が行われたのは金曜の夜から、土曜一杯。日曜日、さすがにさぼるわけにも行かず部活動に出席するために学校に出かけている間に、久志の大事なものは消え失せていた。
動けはしないだろうと高を括っていた部分がないとは言えない。自分の脳天気さをどれほど呪ったことだろう。久志は誰もいない家の中を何度も歩き回り、何の痕跡も残されていないことを確認して呆然とした。
自分がこれほどまでに直樹を傷つけ、怒らせていたのだと言うことに、久志は迂闊にもその時初めて気がついたのだ。もちろん傷付いていることも、怒っているのだということも分かっていた。直樹はあれ以来、決して目をあわせようとしなかったし話もしようとはしなかったから。それでもいきなり、何も言わずにいなくなる程だとは思っていなかった。あるいはあんなことをしてしまっても、直樹は許してくれるとどこか心の奥底で思っていたのかも知れない。
「………っくそっ」
日曜日家に帰ってきてから、久志はずっと直樹から連絡が入るのを待っていた。夜も寝ずに。実際に連絡があったのは月曜の朝、もう家をでなければ学校におくれると言う時間で、言われた言葉はとても久志が待っていたものとは言えない。それでも連絡があったことにはほっとしたものだ。
どこにいるかを直樹は言わなかった。だけど、どうせあの男のところにいるに決まっている。そう思うとムカムカと苛立ちが走る。
直樹を、我が物顔で抱き寄せる男。抱き寄せられて、直樹が幸せそうに笑う男。思い出すと、それだけで胃が悪くなるあの男の連絡先はあっただろうかと考えながら、久志は仕方なく学校に向かう。直樹が帰ってこないと分かった以上、いつまでも待っていても仕方がない。もちろんずっと待っていたいのは山々だ。だけど自分は学生でしなければいけないことがたくさんある。残りは全部家に帰ってから片付ける。久志はそうして学校に向かった。そうしたところで、授業に集中できないことも、部活動でぽかをくり返すことも想像できていたとしても。
「直樹をお願いします」
直樹が電話のそばに置いていたメモからあの男の電話番号を見つけた。住所があれば押し掛けてやったのにと憎々しいと思う。久志は嫌々ながらも受話器を取って、その番号をダイヤルする。すました声が平田と告げ、少年の感情を押し殺した問いに「いないよ」と返してきた。その答えが信じられなくて、久志はもう一度同じように問う。相手の苦笑が聞こえた。
『うちには来ていないよ』
「………そうですか。夜分に失礼しました」
相手が本当のことを言っていると久志には思えなかった。あの電話の向こうに直樹がいる。男の失笑に苛立ちを覚え、それでもいないと言うものをどうすることもできない。また翌日にかけてやるとしかたなく受話器を置く。
直樹には好かれていると思っていた。もしかしたら、自分が好きなのと同じような意味で。だけど久志のその主観はただの願望でしかなく、直樹はすでに別の男が好きだと言う。
「あれ……?」
そう言えばこの間きた時、あの男はなんと言ったか。一から十まで気に入らない男だと思いはしたが、余りにも腹が立って、言われた台詞は妙に久志の頭に残っている。
『俺も君が嫌いだよ。君は直樹をひどく傷つけた』
『……自覚がないのは分かってた。だけど、本当に何も分かってないなら、やっぱり腹が立つ以外の何ものでもないね』
その言葉の真意を知りたくて直樹のところに行ったのが今回のコトのはじまりだ。そう思うと直樹との仲違いのもとを作ってくれた平田に、久志はまたも怒りを覚える。
だがここで怒っていてもなんの解決にも繋がらない。あの言葉を言われたのは、久志が直樹を傷つけたと思っているよりも前だ。いったい自分の何が直樹を傷つけていたと言うのか。
分からない。
分からないけど、今は考えるしかないことぐらいは久志にも分かっていた。
平田の部屋の扉を前に、直樹は何度目かのため息をついた。何度も通った部屋だけど、ベルをならすのにこれほど躊躇したことはない。平田にハッキリと告白されてからこの部屋を訪れていなかったからかも知れない。何もなくても、あんなふうに言われた後に部屋を訪れるのは少し勇気がいった。事実、次はどんな顔をして行こうかと悩んですらいた。だけど実際には……。
もっと悩まされる事態に陥って、ここにたつなんて思いもしなかった直樹は、結局その悩みによって先の答えを見つけている。平田が、それをすんなり受け取ってくれるかどうかは別として。
「……!」
なんだかんだと言いながらもドアを開けることができなくて、ぐずぐずと前で悩んでいた。その直樹の目の前でいきなり扉が開く。
「いらっしゃい」
あまりにも何ごともなくいつもと同じように声をかけられ、直樹は固まる。平田は本当にいつもと変わらないように体は玄関の中に入れたまま、ドアの取っ手に体重をかけるようにして扉を開く。入らないのか、と問うような瞳が向けられ、直樹は慌てて頷いて中に招き入れられた。
「こんばんは、あの……お邪魔します」
何かを言おうとしていたのに、結局何も言えなくて、間抜けな挨拶になってしまう。何を今さらと言うように平田は直樹の頭を抱えるようにして中に導く。それは本当にいつもと同じで、直樹は泣きたくなる程嬉しかった。
「お茶でも入れようか。座ってていいよ」
大きな荷物を持っていることをとがめることもなく、平田は台所に消える。それはいつもよりも少しよそよそしい態度であったかも知れない。だけど直樹は気付くことができなかった。あるいは高野から事情を聞いていて、非難の目で見られることや、不信の目で見られることを想像していたのだ。そうした暗い想像から比べれば、ずっといつも通りの反応だったから。
よく考えれば、問わない方がおかしいのだ。いつもなら平日のこんな時間に訪れることはなかった。とがめられることなどないことは分かっていても、何の疑問も持たないはずがない。それを尋ねないということは、何を意味するか。ほんの少し考えるだけで、その答えは出るはずなのだ。
「風邪はなおった?」
コーヒーカップを渡しながら直樹の隣に座って、平田は様子を伺うように顔を覗く。それだけで、直樹はいたたまれないような気分になった。なにせ嘘をついていたのだ。熱が出たのは嘘ではないけど、それは風邪を引いたからではない。ちゃんと言わねばと思うのに、たくさん考えたと言うのに、何から言っていいのか分からない。
「尚志さん、今日はちゃんと言わなきゃって思って……」
何をどう言っていいか分からなかった。だから切れ切れで、分かりにくいかも知れない。そう前置きをして、直樹はひざの上で握りしめた自分のこぶしを見る。その手に平田の手がのせられ、肩にあたたかな温もりを感じる。見上げると自分が平田に抱き込まれているのだと直樹にも分かった。優しい目に見つめられて、何やら気恥ずかしく、申し訳なくて視線をそらす。
「風邪をひいたっていうのは嘘で……熱は、あったんだけど」
だけど言わなければ。促すようにゆっくりと手を包む平田に励まされ、直樹はぽつぽつと言葉をこぼす。
そうしてなんとか、途切れ途切れに金曜の夜からあったことを話していく。事実をきちんと伝えるために、できるだけ感情を交えないようにして。事実だけ並べれば、そう長い話ではない。だけど思い出したくないことがまず最初に出てくるその話は、なかなか簡単には進まなかった。久志に蹂躙され、逃げ出して。なんとか高野のところに逃げ、今日ここに来たところまでを話し終えた直樹は、まるで審判を待つかのような神妙な面持ちで平田を見上げる。
それでも、平田は何も答えない。当然だ。それは事実を羅列されただけで、平田がどうこう言えることではない。殊に、彼はただの共犯者で、直樹のなんだと聞かれればただの友人と言うことになる。少なくとも、今は。友人として久志の行動を責めることはできなくはないが、直樹がそんなことを望んでいないことは分かり切っていたし、平田もしたくはなかった。友人としての言葉など、かけたくはない。
「それで、気付いたんだけど……」
次を促す平田の視線に、直樹はふいと目をそらして呟く。ここからが、ある意味本番。この先はちゃんと答えをもらわなければいけない。
「………尚志さんのこと、好きだって……」
直樹が必死に口にした言葉にも、始め何の反応もなかった。余りの反応のなさに恐る恐る視線をあげた直樹の目に、少し当惑したような平田の顔がある。ゆっくりと自らを落ち着かせるように一つ息をついて、直樹の頬に手をやる。その目は痛い程真剣だった。
「失礼を承知で聞くけど」
そして先ほどの直樹と同じように、平田も自分を落ち着けるようにもう一度小さく息をつく。
「その「ひさし」は俺のことでいいんだね?」
ああ、そうか。ひさしは平田の名前でも、義弟の名前でもあるのだ。直樹は今さらのようにそのことに思いいたり、ハッキリとうなずいた。彼が今好きなのは平田だ。
「直樹が?」
確認する声に、もう一度うなずきかえす。そんなことを確認しないで欲しいと思っても、今までの言動を考えればこの確認も仕方ないと納得が行く。そうして確認がそれだけで終わったことに、直樹は安堵した。うなずいた途端、かたい腕の中に抱き込まれる。
「好きだよ。今さらだけどね」
優しい声が耳もとで囁いてくれる。久志とあんなことがあったと告白したあとでも同じように言ってくれるのが嬉しくて、直樹は目頭があつくなるのを感じた。だから、申し訳なくて仕方なくなる。どうしてもっと早くに気付かなかったのだろう?
「……ごめんなさい………」
何を謝ると優しい声がするけど、直樹はその言を引くことができなかった。
「ごめんなさい………」
それでも平田の腕の中は暖かくて、すべてから守られたような優しさが直樹を包む。
「本当は、もっと前から分かってたんだ。ずっと尚志さんに引かれてた。だけど、そうしたら今までの自分、全部を否定するみたいで……」
「直樹、いいから……」
辛い目にあったのはこの腕の中の少年なのだと平田も分かっている。それでも傷付いた少年が自分の腕の中にきてくれるのなら、それで満足すべきなのだと分かっていた。もちろん、山ほどの憤りはあるが、それらすべては胸にしまうしかない。この少年が可愛ければ。
「もっと……早くにちゃんと自覚してればこんなことにならなかったのに。自業自得だね」
本当にそう思っているから、するりと言葉がもれる。それも今、すべてを告白したこの状態で平田が受け入れてくれているから言えることなのだと直樹も分かっている。
「ありがとう」
許してくれて、待っていてくれて。様々な思いを込めて呟く言葉にも、平田はただ優しく背を撫でる。その柔らかな暖かさに心地よく目を閉じている直樹を現実に呼び戻したのは、そう言えば、という平田のつぶやきだった。
「直樹、家に連絡をしていないね?」
緩く抱き締めていた少年の体を離し、目を見る様にして平田が言葉を続ける。それは直樹には不思議な程の断定口調だった。いつもの態度から、家に連絡すら入れていないと思われているのかと少し寂しくなる。こんな事態でなければ、連絡ぐらいちゃんと入れるのに、と。だがようよう考えてみれば、最初にこの部屋に泊まった時も家への連絡は事後連絡だった。
「弟君から毎日電話があるよ。ここにいると思ってるみたいだね」
ぐっと言葉につまった直樹に、平田はするりと種を明かす。直樹を信じていないとかそう言った理由ではなくて、ただ単に事実からの推測だ。
「……しばらく帰らないとは連絡したよ」
言い訳に力が入らないのは、それが所詮言い訳でしかないと本人が分かっているからだ。平田の視線から逃れるように先ほど出されたまま手付かずになっていたコーヒーカップに手をのばし、さめた中身をすする。
「いいけどね」
そっちの家の事だし。平田は息をついてたばこに火をつける。彼自身も直樹がここにきたことでやっと落ち着いた気分になっていた。お互いの気持ちも確認した。あとはゆっくり、疲れと傷を癒すだけだ。
いや。直樹にはもう一つあるなと平田は息を尽きコーヒーをすする直樹に言葉を続ける。
「いつもこのぐらいの時間だよ。電話がかかってくるの。………ほら」
言っているそばから、呼び出し音がなる。直樹の体が、それと分かる程びくりと震えた。縋るような視線が平田に向けられるが、男はそれにはただうなずくだけで答えた。その電話が誰からのものかなんて、分かり切っている。平田にはあいにく、この時間にかかってくる電話の主を一人しか思い付かない。
「はい、平田です」
出るな、といっそ言ってしまいたかった。だけど直樹が制止をする前に平田は受話器をあげてしまう。穏やかな声が会話をするのを直樹は息を潜めてみていた。早く、切ってほしい。
「ああ、少しまって」
電話口で話をしていた平田が、ふと受話器に手のひらを当てて直樹に振り返る。それを見ただけで直樹がぎくりと震えた。
「直樹」
静かな声が呼ぶ。直樹はしきりに首をふって拒否したけど、やんわりと首をふって平田は直樹を手招く。もうすでに、いると言う返事はされてしまっているのだ。なら、ここでごねても仕方がない。
「………もしもし」
背中に感じる平田の体温に励まされるように、直樹はやっとのことで声を出した。
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