<11>


『直樹』
 受け取った受話器からひさしぶりに聞く声がする。それでもそれは実際に聞くのは久しぶりの声ではあったけど、ここ数日ずっと耳について離れない声だった。直樹は呼吸を整え、なんとか声を出そうとする。掠れる声でもしもし、と言ってはみたけど、それ以降が続かない。
『やっぱりそこにいたんだな』
「……え?」
 かけられた言葉の意味が分からなくて、直樹は問い返す。
『いないなんてずっと嘘だったわけだ。居留守使う程俺と話したくなかったか?』
 そこまで言われて、はたと気付く。そう言えば久志はずっとここに電話をしてきていたのだと。もちろん今日まで直樹はいなかったのだから、平田はいないと取り次ぎを断っていただろう。今日来たばかりだと知らなければ、居留守と思われても仕方がない。
「違う。ここにはほんの一時間前に来たばかりだ。尚志さんは……どこにいるかだって知らなかった」
 事実とは言え、思わず平田をかばうその言葉は久志をいらだたせる。だが、ここでいらだっていては話にならない。
『……帰って来いよ』
 その言い分をどこまで信じたのかは分からないが、久志はただそれだけを伝える。謝罪をすることはできなかった。やり方が間違っていたかも知れないが、それが彼の気持ちで、取り消すことはできなかったから。
「……帰るよ」
 今じゃないけど。
 平田に背中を支えられ、心を支えてもらって直樹はなんとか答えを出す。だけど、それだけじゃない。それ以上にちゃんと言っておかなければいけないことがある。
「だけど、俺は……尚志さんが」
『それはいい。直樹の気持ちは分かったから。俺のことは好きでもなんでもない、だろう』
「……っ」
 自虐的に言う久志にそれは違うのだと言いたかった。久志のことが好きだった。好きと言う感情が平田の方に向いてしまった今でも、決してなんとも思っていないわけではない。だけど自分の気持ちと、その変化を直樹はどう説明していいか分からない。
 久志のことが好きだったのだと今言ったところで、話がこじれるだけなのではないか。
『俺がお前を傷つけてたって、何?』
 ふいにかけられた問いに、直樹の息が止まる。彼の気持ちは、久志に知られているはずはないと思っていた。だが、少し考えてみれば知られてた訳ではないのだ。何、と聞くからには本質は分かっていない。
「あ、俺だ」
 会話がもれ聞こえていたのだろう、平田がぼそりと声をあげる。直樹を傷つけているとついうっかり漏らしたのだ。少年は律儀にそのことを覚えていたらしいと直樹の背を抱く男は苦笑を浮かべる。
 俺だ、じゃないだろうと思っても、すでに久志がそれを知っているのであればどうしようもない。なんでよけいなことをと平田を睨んだところで受話器の向こうの相手は答えを待っている。いっそ、顔をあわせた状態で一人で返事をしなくていいのを幸いと思いなおし、直樹は息を飲んで受話器を掴みなおした。今なら視線に射殺されるような思いをすることもないし、すぐ後ろには平田がいてくれる。
「今じゃないけど……」
 わざわざ言いおいてしまうのは、今のことだなんて思われては困るから。直樹はつまる言葉を必死で押し出すように、口を開く。背中から抱き締めてくれる平田の腕に縋るような気持ちだった。
「ずっと、久志が好きだった。だから……」
 そこまで言えば久志にも分かっただろう、息を飲む音が直樹にも届く。そのまましばらく重苦しい沈黙が続き、もう一度久志のため息がもれた。
『昔、なのか?』
「そう、昔。今じゃない」
 それでも問うてくる言葉に直樹は素直にうなずく。そう、今のことではない、昔のことだ。平田にあって、彼と過ごす前のこと。
『分かった。分かったから……。とにかく、もう帰ってこいよ』
 なにか気力すべてが抜けてしまったような声に直樹はうなずいて、日曜には帰ると約束して電話を切った。






「おつかれさま」
 直樹の手から受話器を受け取り、平田はそれを片付ける。そうして腕の中の少年をしっかりと抱き寄せた。
「そんな顔するなって。出ないわけにはいかなかっただろう? 居留守なんて使わせたくなかったし、俺も嘘をつきたくなかったんだよ」
 心地の良い腕の中で、それでも恨みがましく見上げる直樹に苦笑を漏らし、平田は腕の拘束を緩める。ふぅっと息をついた直樹の様子を伺うように見ながら、落ち着いたと見たのか頭をひと撫でして台所に立つと、コーヒーを入れなおす。直樹の好きなそれを入れて戻ってくると、少年はソファで体を丸めてクッションを抱え込んでいた。
「尚志さん……」
 隣に腰掛けカップを手渡す平田に、直樹は伺うように声をかける。なんだと目線だけで問いかけてくる平田に、直樹は言いにくそうに口を開いた。
「本当に、俺で……。俺、ここにいていいの?」
 今さら何を言うかと力の抜ける思いを味わいながらも、平田は手招きして直樹を引き寄せる。
「好きだよ」
 抱き込み、囁きとともに平田は直樹の顔中にくちづけの雨を降らす。
「…そう言ったのに、この耳は何を聞いていたかな」
「……っや…」
 耳朶をはみ、そのまま首筋をつたって唇をおろせば、直樹は甘い声をあげる。かすかに身を震わすのは、先日の恐怖を思い出すからだろう。それでも逃げようとはしなかった。怖がらないように、怖がらないように、平田は慎重に直樹の肌を辿っていく。
「尚志……さん……」
 確かめるようにのびてきた手の平に口付け、その腕を首にまわさせる。じっと、確かめるように平田は表情を伺った。
 直樹はほんの数日前、ひどい目にあっているのだ。本人はその時の様子を詳しく語ったりはせずただ事実のみを伝えたし、その後の様子を知っている高野にしても事細かに語ったわけではない。
 それでも何があったか聞いている平田にしてみれば。
 今彼がしようとしていることは腕の中の少年の義弟がしたことと、なんらかわらないのではないかという懸念がある。これきりで終わらせるつもりなどかけらもないから、自然行動も何もかもが慎重になる。
「……っ」
 反応はある。嫌がってはいない。そんなことをいちいち確かめ、ゆっくりと直樹の体を開いていく。平田自身が呆れ返る程の辛抱強さだった。
「尚志、さ……。やっ……」
 嫌悪を感じているのではないことは分かる。平田に組み敷かれた体はあつく熱を持ち、高ぶっている。瞳は期待に潤み、薄く開いた唇は誘うような風情ですらある。これで嫌だといわれても……。
 すでに今までの我慢が限度に達していた平田だ。慎重にと思っていても、そんな様子を見せられれば容易に止まることもできない。
「だめ……、まって…」
 拒むような言葉を口にしながらも、体はまるで拒んでいない。うっすらと汗ばみ、桜色に色付いている。第一そんな言葉を吐きながらも腕はしっかりと平田の首にからめたままではそれを拒否と取れというのが無理というものだ。
「ここじゃ、ヤだ……よ……」
 そんな様子で涙ながらに訴えられれば、高まった熱のままに押し通すこともできない。必死で体を引き剥がして一つ大きな息をつくと、平田は組み敷いた体を引っ張って起こす。そうしてこんな場所でことに及ぼうとしていた己の余りの余裕のなさに失笑がもれた。
「向こう、いくか?」
 移動すればもうきっと、止まってやることはできない。そう臭わせながら顎でしゃくるように寝室を示すと、直樹はこくんと小さく頷く。こちらも何やら決意したような、少しかたい、それでもすがすがしいものを備えた顔だった。
 了解を得ると平田は直樹を起こし、背を支えるようにして立たせて寝室に導く。本来なら抱えていければったのだろうが、さすがにそう体格差のない男を抱えるのは無理だった。半裸に剥かれた体を恥ずかしそうに隠し、足下のおぼつかない腰を支えながら寝室に入れば、そこで平田の理性の力が尽きる。ふらつく体をベッドに横たえてやって、その上に体をかぶせた。
 ゆっくりと、唇を重ねる。もう一度最初から、すでに開いている心と体をじっくりと開かせにかかった。





 受話器をおろして、しばらく久志は放心していた。今し方直樹とかわした会話は一つ残らず覚えている。だが、直樹はなんと言った?
『ずっと、久志が好きだった。だから……』
 聞いた瞬間には何を言われたか分からなかった。その言葉の意味を飲み込むのにずいぶん時間をかけた。そうして意味をえた言葉は、昔のことだとあっさりふるい落とされる。
 放心から解けて息をついて。ほんの少し落ち着いたところで、その意味を始めて冷静に考えてみた。
 ずっと久志のことが好きだったと言った直樹。今まで直樹のことを恋愛の対象に挙げていなかったから、いろいろな相手とつきあっているところを見せていた。確かにそれは好きな相手が自分のものにはならないと見せつけられているような物で、直樹を傷つけていただろう。終いには久志は男を恋人だと連れてきた。それまでは性別をを理由に諦めていたかも知れないものを、そうなれば……。
 そこまで考えて、久志ははたと止まる。それではあの、滝野を紹介した時、直樹の目が彼の方を向いていたと言うことになってしまう。
「まさか、な……」
 冗談ではないと言いたかった。だがきっとそれが現実なのだ。
「は……、は、は……」
 笑うしかない。それ意外に何もできはしない。
 だが笑っても、彼の逃したモノは決して手にはいらない。そのことも本人が一番よく分かっていた。





 過ぎる程の快楽はやはり苦痛に似ていた。
 直樹は目を開いて、自分の体がまるで動かないことを知る。目の前にあるのは男の平らな胸。いまだ寝ぼけてはっきりしない頭で、そこにすりよろうとして体中に痛みが走る。
「無理するな……って、させたのは俺か。取りあえず今日一日、大人しくしてろよ?」
 聞き慣れた優しい声が体を引き寄せ望み通りに抱き締めてくれるのを嬉しく感じながらも、その、ほんの少し体の向きを変えるだけのことに体が痛む。
 そうしてその体の痛みと平田の声に、直樹の脳裏に昨夜のことがさまざまと蘇った。まるで壊れ物にでも触るように体の隅々まで触れていった平田の動きと、その手の動きに呼び覚まされた官能。体の隅々までを探られ、あられもない声をあげ続けたことを思い出せば、知らず顔が赤くなる。狭い器官を指で開かれ、平田が押し入る頃には何がなんだか分からなくなっていた、
 思い出すだけで気が遠くなるようなことばかりだったけど、直樹はそれを後悔していたわけではない。逆にどうしてもっと早くにこうして素直に身を任せてしまわなかったのかと思う程の心地よさを与えられた。行為自体は久志にされたことと同じでも、気持ちが違う。
「せっかくだからそばにいてやりたいんだけどな。今日はどうしても仕事にでないといけないから……」
 なだめるように何度も口付け、すがりつく直樹の力が抜けたところで平田はベッドを出る。髪を撫で、ごめんなと呟く声に直樹は小さく首をふった。平日に押し掛けたのだから、仕方ない。
「僕こそ、ごめん。平日に……。でも……週末まで、いてもいい……よね?」
 確かめるように問うと当たり前だとかえされてほっとする。平田はそのまま会社に行く準備をして、戻ってくると今だベッドから動くことのできない直樹の枕元に腰をおろした。
「体は一応ふいたけど、起き上がれるようになったらシャワー、浴びておけ。今日は飯、作ったりしなくていいからな」
 髪を撫でながらの声に直樹はただうなずく。とてつもなく恥ずかしいことを言われたような気もしたが、この際聞き流すことにする。学校を休むつもりでいることもとがめられなかったしと直樹は会社に出ていく平田をベッドの中で見送って目を閉じた。
 いってらっしゃい、と。ここで見送ることが出来ることに限り無い喜びと幸せを感じながら。



<終わり>



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