<8>


 こんなことを望んでいたわけではない。 
 直樹は天井を睨みながらひとりごちる。
 金曜の夜平田がきた日。何度も久志に蹂躙され、動く体力も気力も根こそぎ奪われて翌日はベッドで一日過ごした。その間にも久志は何度も訪れ、自由の効かない直樹をいいように扱う。それでもその間、一度も目をあわさず、言葉に返事すらかえしていない。いないかのように無視をする。今の体調ではその身ごと逃げることはできないから、それが精一杯の抵抗だった。
 久志がやっとそばから離れたのは、翌々日、日曜の昼過ぎ。それまではほんの少し離れることがあっても、十分以上姿が見えないことはなかった。玄関のカギをかける音がする。しばらくは帰らないのだろう。そのすきをつくように直樹はまず平田に電話をすることにした。
 本来なら昨日から平田の所に行っていたはずだった。そうすることができていれば得ていたであろう安らかな時間を思うと涙が浮かびそうになる。それをぐっと飲み込むと、ことさら明るめの声で熱を出して寝込んでいたのだと伝える。
 昨日の昼ごろ、ほんのちょっとした隙をついて平田に携帯でメールはうっておいた。いつも過保護なぐらいに直樹にかまう平田だから、それだけではきっと心配しているだろうと思っていたら案の定で、様子を見に行こうかとまでいう。
「ただ会いたいだけなんだけどね」
 そんなふうに言ってもらえるのは嬉しかったが、直樹は今平田に会いたくはなかった。会う覚悟がなかった。
 平田が帰った後で起こったことを、うまく説明できないのが分かっていたから。感情だけが渦巻いて、自分自身ですら納得させることができない。平田にあって不信感をもたれたくなかった。一番会いたいと思っているからこそ、今は会うことができない。
 だから曖昧にしか断ることができなかったのだけど、平田は取りあえずそれで納得したらしい。直樹は受話器を置いて小さく息をついた。
 そうしてそれから直樹は鞄に当座の荷物をつめはじめる。着替えと、小遣いですべての簡単な荷物だ。そうして出来上がった荷物は、普通の時であればたいした重さではないのに、今の直樹には引きずる程に重い。その鞄を持って直樹は家をでて鍵をかける。
 書き置きすら、残さなかった。






 直樹は行き先をナイトに決めていた。今日、日曜日は営業日で、五時になれば高野がやってくる。そうしたら入れてもらって、奥の部屋で休ませてもらおうと言うのが直樹の計画だった。その後も、できれば高野に泊めてもらおうと思っている。部屋に押し掛けるのがダメなら、そのままナイトに泊めてもらえないかと画策していた。とにかく平田に頼らず、家に戻らずでどこかに泊まるとなると、情けないことにここしか思い浮かばないのだ。
 いつもよりも時間をかけてナイトに辿り着き、雑居ビルのエレベーターに乗る。ナイトの扉の前について、さすがに疲れを感じて荷物を置いた。その上に痛む腰を恐る恐るおろす。ただ立っているのが辛かった。同じようにただ座っているのも辛い。これでよくここまで来れたものだと自分でも感心する程だ。そうして痛みにたえ体をしっかり抱くようにして座り込むこと数分。時計を見るとまだ昼を少し過ぎたころだった。またも体を抱き、目を閉じて時間を過ごす。痛みに耐えかねて時計を見ても、やはりまだ十数分たっただけ。
 ダメだ、と思ってももう耐えられない。直樹は痛む体を動かして携帯電話をとった。今までかけたことはなかったが、空で覚えている番号。かけると自分の背中の扉の中から呼び出し音がして、そのまま転送のメッセージが流れる。受話器からと、扉の奥から。二重で聞こえる音が一つになったのは、相手が出た瞬間からだった。
『はい、たかの……』
 少し眠た気な声が受話器から聞こえてくる。そこで始めて相手が夜の仕事をしているのだと言うことを思い出した。悪いと思っても、今さら切るわけにも行かない。
「ごめんなさい、こんな時間に。俺……ナオです」
『かまわないよ。今起きたところだから』
 時間はちょうど昼を過ぎたころ。ふた言目にはいつもの調子を取り戻した高野に少し安心して、直樹はつまる言葉をなんとか絞り出す。
「いきなりで、面倒なことで申し訳ないんだけど……」
 何度もつまりながらも、優しく促す高野の言葉に支えられるように直樹はゆっくり息を吐いた。
 家を出てきた。しばらく置いてほしいと言ったところで、結局どう説明していいのか思い付いていない。そのまままた言葉につまってしまう。
『かまわないよ。今すぐくる?』
 まるで遊びに行こうとでも言うかのように軽い返事がかえってきて、直樹はそれだけで肩に入っていた力が抜けるような気がした。高野の声で、すくわれる。電話をして良かったと思わせてくれる。
『………動けない?』
 今すぐにでも行きたかった。だからその言葉にすぐにうなずくことができなかったのは、ひとえに自分の体調のせい。きっと駅前まで歩くことすら出来ないだろう。口籠る直樹にかぶせるように的確な質問を発する高野に直樹はうなずく。その様子だけで、高野は何かを察したらしかった。
『……ごめん、今ちょっと動けないから、変わりを迎えによこすよ。どこにいる?』
 ナイトの前だというと、車ですぐに行かせるからと告げられた。高野の指示にただうなずき、直樹も携帯電話をおろす。電源はそのままに携帯を鞄のポケットに突っ込んで、迎えがくるのをまつことにした。
 そうして高野にどう説明しようかと考えながら起こったことを思い返していていると、自嘲気味な笑みが浮かぶ。先日起こったことは、ずっと昔から自分が望んでいたことではないか。ずっと焦がれて、それでも手に入らないと分かっていたもの。それが思いがけず転がり込んできたと言うのに、いざことが起こった時には別の男の名前を呼んでいた。心にはすでに別の男が住んでいた。
 自分は女ではないのだから、気にする必要はない。何度もそう言い聞かせた。好きでもない男にいいようにされるのは屈辱以外の何ものでもなかったが、それでもまるで反応を示さなかった直樹に久志の方も冷静でいられなかったはずだと無理矢理自己を納得させる。
「ただ俺が会いたいだけなんだけどね」
 待っている時間がずいぶん長く感じて、軽く目を閉じるとそれだけで平田の顔を、声を思い浮かべることができる。先程聞いた声がそのまま耳に残っていた。
 だけど、平田は知っているのだ。直樹が久志に思いを寄せていたことを。その想い今だ断ち切れていなかったことも。だから何があったのかを知られたら、平田はきっと合意の上のことなのだと思うに違いない。風邪だと嘘をついてしまってもいた。それはきっと事体を悪くする。直樹にはそれがたえられなかった。そんな誤解をされたくなかった。
 そう。誤解。
 直樹の中で久志と合意の上でああいった行為に及ぶことは、すでに考えられない。以前なら容易く想像することができた。正直に言えば、夢に見たことすらある。だけどそれは今の話ではない。
 久志に押さえつけられ、そういった状況を望んでいたはずなのに直樹に喜びと言う感情は浮かんではこなかった。思い浮かんだのはただ平田の声と顔。あんまりな移り気に自分でも吐き気がしたが、それが現実だった。
 エレベータの到着を告げる軽い音に直樹は思考をとめられた。待つ間もなく扉が開き、足音が響く。顔をあげると、大きな壁が立っていた。
 正確には壁ではない。壁かと思う程の、大きな人。座っている直樹だから見上げるのではなく、立ち上がったとしてもかなり見上げなければいけないだろう。そしてのどをそらすようにして、背を走る激痛に眉をしかめる。
「ナオくん?」
 姿から想像するよりは優し気な声がその男から発せられ、直樹は瞬間きょとんとした。何を言われているか一瞬理解できなかったのだ。もう一度声をかけられて、やっと自分が呼ばれているのだと気付いて慌ててうなずく。そのせいでまた腰が痛んだ。
「はい。あの……そうです。高野さんの……?」
「そう、かわり。じゃぁ行こうか。荷物かして。動ける?」
 しゃがみ込む直樹に心配そうな視線を向け、なんとか立ち上がった直樹の下から荷物をとる。そのまま足がほとんど動かないのを見ると、男は黙って腰をかがめ、直樹の前に背中をさらした。それがおぶされと言う意味だとは直樹にも分かる。だけど、本当にそうしていいのかが分からなかった。
「遠慮しないで」
「……すみません」
 重ねて言われて、遠慮するだけの体力もない直樹は男の背に縋った。それなりの重みもあるはずの直樹を男は軽々と背負い片手で直樹をささえ、片手にバックを持つ。気にするなと笑いそのまま車まで歩く。あたたかな背中に縋るのもつかの間、すぐに助手席におろされ、車はゆっくりと走り出す。
「すぐつくよ」
 ハンドルを持ちながらの男の言葉通り、車はほどなくマンションの駐車場に入った。そのまままた男の背に負われ、エレベーターで七階まで。部屋数は少なく、どこも表札は出ていない。その一室の前で男は立ち止まり、窮屈そうに扉をくぐる。いくつかの扉を無視する形でまっすぐ進み、広いリビングに入った。
 大切なモノを扱うように直樹をおろし、男は少し待っているようにと言って部屋を出る。直樹の足下には、彼の荷物も置かれていた。そうして男の背中を見送ってから、名前すら聞いていなかったことを思い出す。
「……お礼もいってないな」
「お待たせ」
 呆然と呟いたところで高野が入ってきた。寝間着に上着を引っ掛けただけの高野は、するりと向いに腰をおろす。その動作はいかにも緩慢でだるさを感じさせる。
「高野さん、ごめん……。時間のことまで頭回らなくて……」
「いいよ、気にしないで。一番に頼られるのは嬉しいしね」
 そうして笑って、一番に頼ってくれたんだろう? と確認をとる。一番も何も平田をのぞけば頼る相手が他にいなかったのだが、さす何それは言えずに直樹はただうなずいた。そして目の前の姿が妙に色を帯びていて、思わず目をそらす。店ではついぞ見ることのできない表情。それを見ただけでも、なんだか悪いことをしたような気分になる。高野が動けなかったと言う理由を、邪推してしまいそうで。
 迷惑をかけるのだから、せめて事情くらいははなさなければいけない。そう思っているのに、先程考えたと言うのに。直樹は結局どう説明することもできず、ただ膝の上でこぶしを握る。何度も口を開きかけては結局何の言葉も出せない。自分のふがいなさに歯噛みしたい気分だった。
「平田さんに連絡はした?」
 そもそも週末にいつも会っていることを知っている高野は、まず平田でなく自分のところに来た直樹を不審に思っていた。だからといって歓迎しないわけではない。ただ本来は平田と会っているであろう時間。こんな憔悴した様子であらわれれば心配するなと言う方が無理だ。
「……尚志さんには…あとで連絡するから」
 うつむいたまま唇を噛む直樹に、そう、とだけ小さくうなずいて高野は次の言葉をまつように沈黙するが、やはり次は訪れない。しばらくは様子をみて大人しく待っていた高野も、これでは埒があかないと、少し前屈みになるようにして膝の上で両手を組み、先に進むことにした。
「言いにくいなら、俺がが聞くことに答えて。それなら出来るね? うなずくか、首をふるだけでいいから」
 迷惑を掛け通しであると言うのにここまで優しくされることに居心地の悪い程の嬉しさを感じながらも、直樹は小さく頷いた。
「家出してきたんだね」
 動きを見のがすまいと見ている高野に、小さな頷きが帰る。最初に聞いていたことだから、これはただの確認だ。
「喧嘩でもした?」
 次の問いには少しのためらい。
「喧嘩じゃない? でも何かあった」
 断定的な言葉にも、また頷きが帰る。そう、直樹が逃げ出すような何かは確実にあった。そんなもの、高野でなくても直樹の思いつめた表情を見れば誰でも分かる。
「彼の恋人のことで」
 違うだろうと思って出された質問には、やはり否定が帰ってくる。
「平田さん」
 ためらい。次々と効率良く出される質問に、直樹は驚きを感じながらも素直に返事をかえしていく。
「久志が……」
 ここにきて直樹の唇からもれた言葉に、高野は耳を寄せる。向いなどではなく、隣に座れば良かったと心の中で小さく舌打ちして。
「……俺のこと、好きだって。それで……」
「無理矢理」
 消え入るような声。唇を噛み締め、膝の上の手は白くなる程にきつく組み合わされている。それ以上を言わせたくなくて、高野は言葉をついだ。
「…嫌だったんだ、本当に。だけど、力じゃかなわなくて……」
 頷いて、泣き出すかと思うほどの声で細々と言葉を紡ぐ。発言を支えるように高野は席を移動し、直樹の隣に座ってそっと肩を抱き言葉を促す。
「……尚志さんが、好き、なんだ…。なのに……」
 実際、あんなことをされたいまでさえ直樹は久志を憎いと思いきることができない。それが今までと同じ愛情からではないことは分かっていても、なぜなのかは彼自信にも分からない。それが平田に対する裏切りのような気さえするのだ。
「まぁ。落ち着くまでここにいるのはかまわないよ。ゆっくりしておいで。でもまず……。アキ」
 そうして平田はなだめるように直樹の肩に置いた手もそのままにここにいない誰かに声をかけた。ほどなく先程直樹を背負ってここまでつれてきた男が顔をのぞかせる。腕まくりをして、ぬれた手をタオルで拭っていた。それで男の名が、アキと言うのだと直樹にやっと分かる。その名に直樹は一瞬首をかしげたが、それは高野の次の言葉で吹き飛んだ。
「ナオを運んで。風呂場に」
「高野さん?」
 色をなくす直樹に高野はただ首をふってその決定事項がかわらないことを示す。逃げることも出来ずに今度は男に横抱きにされ、大人しくしなさいと男にまでたしなめられ、風呂場につれていかれる。いやがる暇もなく服を奪われ、浴室に連れこまれる。高野はそこで男を追い出し、事務的に直樹の体を洗った。感情を交えたりすれば直樹が恥ずかしがると分かっていたのだろう、実に手際良く、隅々まで洗う。途中体のあちこちに残る赤いあとに痛まし気な目を向けたが、幸い直樹はそれに気付かなかった。
 洗われ治療までされてリビングに戻されると、直樹は体が少し楽になっていることに気付いた。もちろん痛みはあるしだるくもあるが、先ほどまでよりもずっと動きやすく不快感も少ない。食事をすると言う高野につきあい軽いものを食べさせられ、最後に出されたのはお茶変わりの白湯だった。
「しばらく、家にいない方がいいと思って。久志は……何か、俺に妙な執着を見せてたから」
 落ち着いたところで、やっと直樹が口にできたのはそれだけだった。高野も軽く頷きをかえす。それはつまり……。
「……久志くんが、好きだったんじゃないの?」
 先程平田が好きなのだと聞いてはいたけど、確認をするように高野は訪ねてみる。もしそうなら、他に出すべき答えがあるはずだからだ。責めるでもない高野の言葉に直樹は緩く首をふった。
「……尚志さんが、好き、なんだ…。だから……」
 だから家を出てきたのだと直樹は涙を拭う。久志が彼に妙な執着を持っているうちは、直樹自身がそれに答えることができない今となっては同じ場所にいるということは傷つけあう以外の何ものでもない。
 そして、平田に会うのをためらうのは、誤解されるのが恐いからだと直樹はぽつぽつと自分の不安を口にする。平田のことが好きだと言う気持ちを信じてもらえないのではないかと。
「この間まで久志の、義弟のことばかり言ってたのに移り気だって分かってる、けど…でも」
「平田さんはそんなの気にしないよ。ナオが好きだって言えば、それだけで喜ぶと思うけど」
 なだめるような高野の声にためらいながらも直樹は頷く。ただ、心から納得しているわけでないのは明らかだった。
「もう少し……マトモに動けるようになるまで、ここにいさせて……。ちゃんと、帰るから」
 尚志さんのところに。そう言った直樹の頭を、高野はゆるりと撫でた。
 落ち着くまでいればいい。僕は、いつでも味方だから……。優しい声だけが、ただ直樹の心を支えた。





 夕刻になって高野は店に出て言った。残された直樹は何をできるわけでもなく、リビングを陣取っている。そのリビングにふいにあらわれた人陰に驚いて身じろぐと、困ったような声が聞こえた。
「ああ、大人しくしてな。俺は別に何もしやしないから」
 急の人陰に驚いた直樹に、男はやはり優し気な笑みを見せる。高野にアキと呼ばれていた男。そう言えばきちんとした挨拶すらしていなかったのだと直樹は頭を下げる。
「すみません、なんだか、御迷惑を……」
 そうして「篁直樹です」と自己紹介をして、高野に聞いているであろうがとここにしばらく置いてもらうことになったと挨拶をする。
「それならしばらくよろしく。俺は諸岡秋良(もろおかあきら)。今は一応ここの同居人ってことになってるんだ」
「あき……ら、さん?」
 やはりあの時聞き違えていたわけではないのだと直樹は固まる。その名前には聞き覚えがあった。高野に何度か聞かされていたのだ。よく遊びにくる、可愛い恋人、「アキ」の話を……。
 ………かわいい……。
 呆然と男を見上げながら、直樹は今まで高野が使った褒め言葉を思い出してみる。素直で、優しくて、可愛くて、かまってやりたくなる。他にもいろいろあったが、それは目の前の男とはどうしても繋がらない。もっと小柄な、小さな少年か何かを想像していた。
「俺のこと、なんか聞いてた?」
「アキちゃんって……」
 それだけですべてをあらわしている。かけられた問いにやっと我を取り戻した直樹が答えると、諸岡はまたかと失笑する。
「あ。ごめんなさい。御迷惑おかけします。よろしくお願いします」
 肩を揺らして息をつく諸岡に、直樹は慌てて頭を下げた。それでごまかせた訳もないのだけど、諸岡は大人しくごまかされたことにしてくれた。
「まぁいいよ。飯まで時間あるし、茶でも飲むか?」
「……お願いします……」
 妙にのどが乾いていた。腰も痛まないような感じではあったので、素直にお茶に呼ばれることにする。もっとも場所はこのままで、どちらかと言うと直樹がお茶の場所を占領していたのだけど。
 諸岡は直樹の言葉に立ち上がり、白湯を入れて戻ってくる。刺激物はまだ止めた方がいいと言う言葉に、直樹はただうなずくしかない。
「ありがとうございます」
 諸岡さん。相手の優しさがくすぐったくて軽く首を竦めて呟くとアキでいい、と柔らかな声が降ってくる。それはと口籠る直樹に、諸岡は小さく息をついた。
「あいつが広めてくれたおかげで、名字で呼ばれても他のヤツが分からないんだよ」
 苦りきった声に直樹は笑みを浮かべてうなずく。大きな体を小さくかがめた様子は、本当に笑みをさそう、ほっとするようなものだった。高野は彼のいうところの「アキちゃん」のことを手放しでほめていた。あれ程可愛くて、こころあたたまる人はいないと。一目見ただけではそれうなずけるものではなかった人物像も、今ならすっきりとあてはまる。今の直樹には高野の賛辞でもまだ足りないような気さえする。
 それから柔らかなクッションをいくつもあてがわれた直樹とそのちょうど前に腰を下した諸岡は取り留めなく話を始めた。話題はたいしたものではない。読んだ本の感想や、すきな食べ物、簡単な料理の作り方、そして、家での高野。
 どういうわけか一人で食事当番を一手に引き受けさせられているらしい諸岡は、簡単料理の話題は特に積極的だった。直樹はいくつかのレシピを教え、逆にいくつかの料理を習った。話すうちにどんどん遠慮はなくなっていて、秋良さん、直樹と呼び合うようになる。そうして時間がある程度過ぎたところで、諸岡は立ち上がった。
「さて、そろそろ夕食を作るか。もうちょっと休んでな」
 諸岡は言ってもう一杯の白湯を置いてリビングを出る。直樹は優しい言葉に瞳を閉じて暖かな白湯を含み、明日以降どうするかに頭を巡らせることにした。







TOPに戻る

STORYに戻る

7へ

9へ