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朝の六時。
高野がナイトの営業を終え、片付けを終えるのがだいたいこの時間だった。店は五時に営業を終わっているはずだから、この時間に客がいるはずもない。だから直樹は安心してナイトに荷物をとりに戻ったのだ。
昨日、酔いをさますために外に出た直樹は、ぶらりとその辺りを一周散歩して、それで戻るだけのつもりでいた。ほんの十数分の散歩。その間に酔いもさめ、頭も冷えて、冷静になった思考回路で、それでもやっぱり平田のところに行こうと自分で結論付けたところだった。そんなものさえ見なければ、ナイトに戻って荷物をとるとそのまま平田のところに向かっていた。
それをしなかったのは、向かうべき相手が家にいないと知ったから。誰かと親し気にナイトに入っていくのが見えたから。自分が行ったら、きっと邪魔をすると思ったから。
雑居ビルの五階にあるナイトへとエレベーターに乗ろうとホールに入った時、二人が目に入った。平田は後ろ姿でも分かる。そして、その腕に腕をからめる平田よりも小柄な誰か。それが誰かは分からない。だけど、それは平田がそうすることを許す誰かだ。
平田は直樹に恋人はいないと答えていた。だけどそれは数カ月前のこと。状況は変わっているかも知れないし、あの隣の人物はその候補なのかも知れない。そう思うと直樹は後をおって平田に声をかけることをためらった。彼のところに行こうと思っていたことも、ナイトに戻ることさえ。
「尚志さんは優しいから、相手を放っておいて俺の面倒を見てしまうかも知れないし」
立ち尽くし、言い訳のように呟く。実際、戻るとそうなることは十中八九確実のようにも思えていた。優しいかどうかは置くとしても、平田はこの数カ月ずっと、何よりも直樹を優先していた。約束はただ久志の前で恋人の振りをすることだけなのに、いつの間にか、友人のように、恋人のようにと付き合いが広がっていった。毎週末を共に過ごし、きっとこの数カ月で直樹の心の一番近いところに寄り添っていた。心地の良い錯覚すら覚える程に。もしかすると、好かれているのかも知れないと言う………。
エレベーターに乗って五階まで昇り、ナイトのトビラをそっと押して覗き込むように細い隙間から中の様子を探る。ライトはすでに控えられ、椅子はテーブルの上にあげられている。床を掃き清め終わったところだったのか、高野はロッカーに掃除道具をしまっている所だった。
「……ナオ?」
開く扉に気付いた高野の声が、扉の前の直樹に届く。びくりと体を震わせた彼も、そうしていても始まらないと扉をおしあけ、常よりも暗い店内に足を踏み入れた。
「ごめん、高野さん。荷物置いたままで。友達にあって、さっきまで話し込んじゃって……」
嘘の言い訳をしながら、自分が座っていた辺りの席を見回す。そこに直樹の荷物はなく、どこに置かれているのかと彼は店内をぐるりと見回す。そうして目に入ったのは、そこにいるはずのない人。平田が恐ろしくきつい眼差しで、立ち尽くす直樹を睨んでいる。
「……尚志さん、あの……」
その視線にためらいがちに声をかけては見るけど、結局何を言っていいのか分からない。ここで荷物を持って、笑って彼のところに行くつもりだった直樹も、思わぬ平田の出現に言葉を無くし、行動を凍らせる。視線の先の平田が立ち上がるのにさえびくりと肩を震わせた。
「行くよ」
直樹の荷物を鷲掴み、平田は彼の背中をおすようにして店を出ようとする。扉のところで一度立ち止まり、高野に軽く手をあげて礼をしてはいるが、一言の言葉も発しない。直樹は振り返るようにして平田に文句を並べるしかできなかった。
「ま、まってよっ。俺、ここの支払い、すんでないっ。ねぇ、まってったらっ」
平田の視線の向こうの高野は、手をふって見送っている。直樹が縋るような視線を向けても、つけにでもしておこうと言うのか返事もしない。
「俺が済ませた。今日は朝一番でうちにくるんだろう?」
先日の約束を形に、平田は直樹の体を抱くようにして店を出た。そのままタクシーを捕まえ、始発が出てすぐぐらいの寂しい町中を飛ばしていく。その間もひとときも抱き寄せる腕の力は緩まず、直樹はタクシーの中にいる間中、居心地の悪い思いをさせられた。
平田に触れられていること自体は心地よくても、それを誰かに見られていることには慣れることができない。
しかも、平田はタクシーに乗り、彼の部屋につくまでの間、終止無言だった。それが居心地の悪さに拍車をかける。直樹も、この状態でかける言葉などなかった。怒ったような平田。彼がなぜそんな調子なのかも分からないのだ。そもそも、こんな時間までナイトにいるとさえ思っていなかった。
「尚志さん、昨日、どうして……? ひさしぶりに空いた週末だし、会社の人とでも飲みにいってたんじゃ?」
重苦しい沈黙の後、直樹はぽつりとつぶやいた。そう、昨日誰かを伴ってナイトに来ていたのを直樹は見ている。あれが誰かは知らなくても、かなり親しいことだけは確かだ。でなければあんなふうに寄り添ったりはしないだろう。
「残念ながら時間があいてしまったからね。ひさしぶりにナイトに行ったんだ。高野さんにナオがきていたと聞いたから待っていたのに、帰ってもこない。……待ちくたびれたよ」
『残念ながら』を強調した平田は直樹をソファに腰掛けさせて、その隣に座り少年の肩に腕をまわした。もう片方の手はひざの上の手をそっと握る。その、包み込む手の暖かさにほっとしながらも、直樹の脳裏には昨夜の情景が焼き付いて離れない。
「どうして連絡をくれなかった? 会いたいとは思ってくれなかった?」
「友だちとばったり会って、話し込んでたから……」
ぼそりと、高野に言ったのと同じ言い訳を呟いた直樹の答えを平田は信用したりはしなかった。
直樹だってもちろん、会いたいとは思っていた。だからこそ家を抜け出した後の行き先にあの場所を選んでいたのだ。それでも口に出すことができなくて、直樹はただ両手を握りしめ、唇を噛んだ。唇を開いた後、何を口走ってしまうかに自信がなかったから。平田はしんぼう強く、そんな直樹を促すように背中を、包み込んだ両手の甲を撫でる。
「……誰かと……、一緒だったから。迷惑かと思って……」
出てきた言葉に、平田は大きく息をついた。それはつまり、昨日姿を見かけられていたということだ。そうしてそれが何を意味するかというと……。
会社の後輩だと口でいうのは簡単だった。だけど、直樹がそれを信じるかどうかというと平田にはとんと自信がない。だけど、裏をかえせば……。
この状況を見れば、平田と誰かが一緒にいたという事実に直樹がショックを受けていることは分かる。ただ、義弟に恋人の存在を納得させるためだけの相手であれば、そんなことは気にしないはずだ。つまるところ気にしているのだ。平田のことを。その隣に、恋人と呼べる存在がいるかどうかということを。
「週末はいつもナオといるためにあけてる。そういってなかった? あれはただの後輩だよ。それも、誘ったわけでもなくついてきた、ね」
平田がこんなことで嘘をつかないのは分かっている。だから直樹はただ素直にその言葉にうなずいた。意味も分からずに。
そんな調子の直樹を、ただ平田は抱き締めた。確かに、高野のいら立ちが分かる程直樹の様子はおかしい。こんな状況の直樹を見た後で、平田がのんきに遊びにくれば----しかも、人を連れて----嫌味の一つも言いたくなろうというものだ。
「……好きだよ、直樹」
はかったわけでもなく、ただ自然に出てきた言葉だった。だがその言葉に直樹は激しく反応して、体をはなして振り仰ぐ。その目はまるで信じられないものを見るかのように驚きに満ちあふれていた。
「うそ」
ぽつりとつぶやき、顔をふせるようにして平田の肩にもたれ掛かり、力なく首をふる。
「芝居につきあってくれるだけだって、だから……」
「好意も持ってない相手の、こんな芝居につきあうようなこと、すると思ってたの、本気で?」
それは、直樹だって考えないではなかった。何故これほどまでによくしてくれるのか。週末を全て潰し、高校生のお遊びにつきあって何が楽しいのか、と。いや、お遊びとすら言えない。ただの気晴らしだ。平田にはなんら得になることもない。
「最初から気になってた。だから、部屋にもつれてきた。毎週会う約束もしたし、できもしない我慢もした」
言いつのる平田の言葉を、直樹はまだ首をふって否定する。それが聞いてはいけないことであるかのように。そうしてぼそぼそと、抵抗を始める。
「……何も、言わなかった」
「今言っただろう?」
「名前だって……。ずっとナオって。ちゃんと教えてたのに……」
「今呼んだよ。聞いてなかった?」
「……何も、しなかった」
「無理矢理我慢してた。そう言っただろう? それに、キスくらいならしてるよ?」
「……同じベッドに寝てたのに……」
「修行僧のような日々だったよ。あとは睡眠不足とね」
「……最初の時だって……」
「あれだけで終わりにする気はなかったから」
「……っ」
うてば響くように答えが帰ってくる。直樹はそこで何を言っていいか分からなくなってしまった。
「もう終わり?」
終いには質問をかえされ、やはり答えに窮してしまう。
何か聞かなければいけないことはあるはずなのに、そうして改めて聞かれても、系統立てて質問を並べられる程思考がまとまってるわけでもない。
「じゃあごめん、ちょっと眠い……」
「……尚志さん? ちょっと、ちょっとまってよ」
そのまま、まだ何かを言われるかと身構えていた直樹にふと重みがかかる。
目を閉じた平田は、自分よりも小柄な体にもたれ掛かるようにして寝息をたてはじめてた。広いリビングの中、上掛もない。このままでは風邪を引く。寝室まで運ぶのは無理だから、せめて何か掛ける物を……そう思って直樹が体を少し動かすだけで平田は今にも目をさましそうな風情で眉を寄せる。そうすると起こすのも可哀想で、直樹はそこを立ち去ることもできない。仕方なくなんとか体をずらしてソファに常備されているひざ掛けを平田の肩にかけ、彼のコートをさらにその上に掛けると、ホッと息をつく。そうして結果的に徹夜明けになって疲れた目を閉じると、知らずの内に眠っていた。
直樹が次に目を覚ました場所は、居間のソファの上ではなかった。いつの間に眠っていたのだろうと首を巡らすとそこは移動した覚えのない寝室のベッドの上で、眠ってしまっていた間に平田が運んでくれたのだろうと想像できた。目に入った時計はすでに十二時をさしていて、きっと隣で眠っていたであろう平田の姿はすでにない。
立ち上がり、ふと見ると昨日のままの格好であることに気付いて、直樹はあてがわれた引き出しの中から着替えを引っ張り出し、そのまま着替えずに浴室に向かう。
今朝眠るまでの間。なんだかいろいろなことがあったように思う。だけど寝ぼけた頭ではまともな思考に向かない。考えるのはシャワーでも浴びて、頭を醒ましてからにすることにした。それに、平田に頼まなければいけないこともある。
「おはよう、直樹。今朝は悪かった。風邪、引いてない?」
目がさめた時間にそう違いはなかったと言うことか、直樹が向かった浴室からちょうど平田が出てきた。下半身にタオルを巻き、肩にかけたタオルで髪から落ちる雫を拭っている。裸の上半身が目に入って、直樹は知らず顔があつくなるのを感じた。ふいに、今朝程言われた言葉を思い出す。
『好きだよ』
『あれだけで終わりにするつもりはなかったから……』
いたたまれなくなって直樹は頷きながらふいと視線ごとそらしてしまう。その言葉を嬉しいと受け止めていた自分がいる。そうして、やはり同じところに義弟の恋人を疎ましく思う自分もいる。そして、それを許すことの出来ない自分も……。
直樹は本当にどうすることも出来なくて、身を固くして平田が通り過ぎるのを待つ。早くに水でもかぶって、頭を冷やしてしまいたかった。
「直樹」
呼ばれる名前に、心臓を鷲掴みにされる思いがする。そのまますれ違うこともできなくて。掴まれた腕から音が聞こえるのではないかと思う程、心臓は早鐘をうっていて。間近に迫った男の整った顔を見つめかえすこともできず、直樹はやはり視線をそらしていた。それでも男はかまわずに抱き寄せ、瞼や頬、耳もとにとくちづけを落とす。
「……尚志さん、シャワーを……」
浴びさせてくれ。
それを避けながら直樹は必死に言い繕う。こうして抱き寄せられ、自分を大事にしてくれているのが分かる状態と言うのは、決して嫌なものではない。むしろ心地よいくらいだ。しかし平田は長く直樹を拘束することなく、ことのほかすんなり解放した。直樹が物足りなさを感じるぐらいに。
「行っておいで。食事を用意しておくよ」
言いおいて去る姿に、直樹は我知らず見とれていた。
それから直樹がどうしたかと言うと。
シャワーを浴びて目をさまし、平田の作ったブランチに舌鼓をうつ。そのあとは美味しいコーヒーをもらい、ソファでくつろいでいた。
平田の部屋にくると、直樹はいつも自分の家にいる時よりもくつろいだ気分になる。この日も例外ではなく、そうして平田の肩にもたれ掛かりながら聞くともなしにコンポから流れる音楽を聞いていて、ふと思いいたる。
平田の所にくるのは、久志に恋人の存在を認めさせるためだった。先ほど言われたことを考えれば、そんなことを本人の前で口にしようものならどんな目で睨まれるか分かったものではないけど、直樹の本来の目的はそれだったはずだ。
「尚志さん、近いうちに……会ってくれる?」
やっと久志がその気になったのだから、これを逃すのはうまくない。分かっているのに、それを頼むのはなんだか妙に気が重くなる作業だった。直樹はコーヒーカップをぎゅっと両手で持ち、静かに目を閉じる。これを済ませてしまえば、いままでと同じ気持ちで気楽にここにくることはできなくなる。きてはいけないように思うのだ。
「かまわないよ。最初からそう言う約束だったからね。いつにしようか?」
直樹の緊張を知ってか知らずか、平田は簡単にうなずいて話をすすめる。そしてそれは月末、ほんの二週間ののちに実現することになってしまった。
「尚志さん、聞いてくれる?」
そのまま会話は流れ、またのんびりとした空気が戻ってくる。
目を閉じて、コンポから流れる音に耳を傾けているうちに、余りにもくつろぎ過ぎてするりと言葉が口からこぼれた。
「今日……昨日かな。久志の恋人に会ってきたんだ」
何も言わず、ただ静かに聞いてくれる平田に、直樹はぽつり、ぽつりと昨夜のことを話しはじめた。高野に話した上辺の話だけではなく、何があったか、その時どう思ったかも。滝野のことがひどく憎かった。自分が欲しかった場所で笑っている人間だから、と。自分を好きだと言ってくれた相手に打ち明ける内容ではなかったのかも知れないけど、好きだと言ってくれた相手だからこそ聞いて欲しいと思った。そして。
「嬉しかったんだ、凄く。尚志さんが好きだって言ってくれて」
嘘だ、とも思ったけど。直樹はさらに付け加える。久志の隣にいる人物に殺意にも近い憎しみを感じながらも、平田に好きだと言われて喜んでいる自分が嫌なのだ、とも。
「良かったよ」
両手で握りしめ、じっと視線を当てていたコーヒーカップをするりと抜き取ると、平田は小さな笑みを浮かべる。
「嫌われてないことは分かったからね」
笑いながら何度も髪を梳き、頬や額に唇を落とす。平田は何かのたがが外れたかのように接触過多になっていた。だけどそれを嫌だと思えない直樹は、止めることも出来ない。
「楽しみだしね」
くつくつと笑いながら、平田はゆるりと直樹を抱き締める。そこは涙が出そうな程に暖かい場所だった。
「楽しみ……どうして?」
どこをどうやっても、楽しみに繋がるようなことはないように思う。あるいは久志と言い合うことでも期待しているのだろうかと考えてみる。だけど久志も男を恋人にしたなどと言うくらいだから、そのことに関しての不平がでるなんて直樹も思っていない。言われたところで一蹴すればすむことのはずだ。
「いろいろとね。確かめたいこともあるし」
謎めいたことを言いながらも、平田は決してそれ以上説明をしない。
「夕食作るよ。何が食べたい?」
こうなるとどうやっても聞き出すことはできない。直樹は息をつくと追求を諦め、目の前の穏やかな休みを満喫することにした。
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