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「ごめん。尚志さん。金曜日、用事できちゃって。土曜日の昼からそっちに行ってもいい?」
 電話口で、柔らかな笑顔を浮かべて会話を続ける直樹を、久志はただじっと見ていた。そこにいるのは彼が知る『直樹』とはまるで別人の様で、軽い戸惑いすら感じる。
 電話の内容は、金曜の夜の予定の変更。嫌みまがいに久志が口にした通り、すでに会う約束はなされていたのだ。一夜あけた月曜の夜に断わりの電話を入れるのはどんな気分なのか。久志に直樹の心情を知ることはできない。その表情からは、何も読み取ることができないのだ。
「だから、ほんとにごめんって。うん……分かった。土曜の朝一で行くから。いいじゃない、たまにはさ。会社の人との付き合いとかどうしてるの?」
 土曜の昼から行くはずが、いつの間にか朝一に変更されている。久志はそれをなんとはなしに苦い思いで聞いていた。彼が言い出した会合が切っ掛けの電話だ。ただの約束の変更をしているだけのもののはずが、妙に甘やかな雰囲気がただよう。久志はそんな直樹を知らなかった。
「ほら、約束変更したからな。ちゃんと晩飯のリクエスト、聞いてきたんだろうな?」
 受話器を置く音がして、直樹が振り返り久志に向き直る。別に明日でもよさそうなものだが、自分ばかりがその準備をしているのがしゃくで、直樹は詰め寄るように聞いてしまう。
「なんでもいいっていってるんだよ。直樹の得意なやつ。適当でいいからさ」
 久志の言葉に直樹もただため息をついて頷く。もともと、あまり歓迎できるような気分ではなかったから食事や何かと考えてやるのが嫌だったのだけど。それならそれで、本当に適当にしてやると思い直す。そうして思うのは、ただ早くその日が過ぎればいいということだけ……。
「相手のこと、聞かないんだな」
 紅茶を片手にテレビの前に陣取った直樹に、久志はぼそりと呟いた。それを、彼はずっと気にしていたのだろう。告白した当初から、相手のことを事細かに聞かれると思っていたのだとぽつぽつと言葉を続ける。直樹には何も言えなかった。そんなことは聞きたくなかっただとか、相手のことなど知りたくなかった、会いたくはないのだとか。浮かれて、彼のことを信頼して打ち明けてくれた久志に、そんなことは言えなかったのだ。ならば黙するしかない。
「金曜に会えるんだろ? それまで楽しみにとっとくさ。それとも聞いてほしいのか? 惚気だったら受け付けないけど?」
 楽しみに、は大嘘。だけどそれ以外どんなふうに言えたというのだろう? 直樹は紅茶を入れたマグカップを両手で持ち、ふっと息を吹きかけた。
「別に。お前が選んだんなら、俺は何もいわないよ」
 それは、直樹の本心。久志が選んだのであれば、その相手がどんな人間でも直樹は何もいわないだろう。いや、言えない。その立場にはどうしたってなることのできない自分を思い知らされるだけだから。
 だが逆に。久志も平田のことを何も聞いてこない。それは最初にあんなところを見せつければしばらくは何も聞いてはくるまいと直樹も思っていた。だけどすでに数カ月。週末は顔をあわせていなかったとは言え、毎夕食を共にしていた。聞く暇がなかったわけはない。ならばそれは聞きたくなかったということだろう。だけど、何故? 直樹にはそれが分からなかった。
 最初はもちろんショックだったはずだ。だけど、それをいつまでも引きずっていると言われても、信じれるものでもない。興味も、ないはずがないと思っている。それでも聞いてこない理由があるというのか? 会わせろともいってこないのはどういうことなのか。幸せな演技に当てられたとでも? 疑問は止めどなく湧いてくる。だが口にのせられることがない。
「今度、つれてこいよ……」
 しばらく黙っていて、久志はぽつりと呟く。聞こえるか、聞こえないかギリギリの大きさ。その一言を発するために彼の中にどれくらいの葛藤があったかを物語っているようだ。
「分かった。……今日はもう、寝るよ。お休み」
 直樹は簡単にそれだけで答えて部屋に引き上げる。
 ……タイムリミットが近付いたのだと胸に刻み込みながら。





 金曜日。久志の恋人だと言ってあらわれたのは直樹も見たことのある顔だった。名前までは彼も覚えていない。だけど、幾度となく見かけた顔。久志と同じクラブの少年。かわいらしい顔、細い体。そして、挑戦的な瞳。
 滝野翔(たきのしょう)と名乗った少年は、久志の腕にその腕をからめ、これは自分のものなのだとその瞳で直樹を威嚇し続けた。直樹が、思わず視線を逸らせたくなる程に。
「はじめまして。直樹先輩って呼んでいいですか?」
 名字は同じだから、と笑う少年に、直樹はうなずくことしかできず、ちょうど夕食時にきてくれたこともあって、さっさと食事の用意をするために台所に逃げた。午後まで授業がある日で良かったとおおう。仲良く談笑……なんてことになっていたら、何を口走ることになったか分かったものではない。
 リクエストのなかった食事のメニューは、手抜きが見て取れないように適当に済ませた。手を抜いているとは思われたくない、だけど直樹の心情は決して手の込んだモノを作りたくなかった。歓迎などしていないのだと、声に出すことはできなくても。
「凄く、美味しいです」
 褒め言葉にも笑顔をかえす。直樹が何も喋らなくても、他の二人が勝手に話をすすめてくれた。直樹はただあいづちだけをうっていればいい。そうして平田と過ごしていた自分が、結局は逃げているだけであり、まるで前にすすめていなかったことに気付いてしまった。ただ少し、気になることがあるけども。
「いいよ、その方が俺も楽できるし。こっちから頼みたいくらいだよ」
 食後にお茶を入れている時に滝野は久志の弁当を作る役を譲って欲しいと言ってきた。特権と言う程のものでもないそれを欲しがる滝野の気持ちは、直樹にも分かる。だから譲るしかなかった。別に固持する程のものではない。相変わらず夕食の準備はしなきゃいけないのだし、洗濯やなにやかや、そういった家事は依然直樹の手にのこるのだ。しだいに、減っていくのかも知れないけど。
「良かった。直樹先輩の料理、美味しいからくらべられるの辛いけど。でも、久志先輩、僕のお弁当も美味しいって言ってくれたし」
 滝野の言葉に、久志は相好を崩してうなずいている。わけてもらうかなにかしたのだろうと簡単に想像がつく。
 ここにいてはいけない、と直樹は思った。一刻も早くここを立ち去りどこかに行きたい、と。この二人がいないところ、まるで作ったような甘やかな雰囲気が流れていないところ。落ち着けるところ。……平田のところに。だけど、平田との約束は翌日に変更されている。きっと会社の人との付き合いがあるだろう平田の携帯に連絡をして迷惑がられるのは嫌だった。かといって、目の前の二人を見ているのは直樹にとって拷問に近い。
「尚志さんのところ、行ってくる」
 二人のいちゃつきがますます過熱した頃、直樹はぽそりと呟いて立ち上がった。久志が慌てたような視線を向けるが、それも気にせずに部屋に下がる。次に二人の前に戻ってきた時には、すっかり外出の準備が整えられていた。
「行ってくるって……約束、明日の朝になってるんだろう?」
「そうだけど。大丈夫。携帯しってるし、部屋のカギももらってるしね」
 心配げに言葉を重ねる久志に、直樹はただにっと笑ってカギ束の中から一本のカギを見せる。深い付き合いを示すその仕種は、なぜか久志の神経を逆なでた。
「ということだから、明日の朝食は滝野君に任せるよ。よろしくね」
 にこやかに笑って家を出れたことを、直樹はひたすらに願っていた。どんな顔をしていたかなんて、自分では分からなかったから。





 久しぶりに一人で訪れたバー『ナイト』はやはり懐かしい、あたたかな雰囲気の場所だった。それなのに今の直樹にはそれでも冷たい。何かが足りないと思わせられる。店の中が変わったわけではない。かわったのは自分なのだと彼自身分かっていた。
「こんばんは、高野さん。久しぶり」
 いつもの髪を解いて、カラーコンタクトを入れた格好。平田とここを訪れる時、直樹はコンタクトまではしていなかった。今日そこまでしたのは特に意味があるわけでなく、きっと習慣だろう。日本人とは違うその瞳はそれでも彼の疲れを隠してはくれなかった。
「ひさしぶり。今日は待ち合わせ? 珍しいね」
 からかうような高野の口調に、直樹は少し唇を尖らせた。珍しい。確かにその通りかも知れない。平田とつき合うようになって、最初の数回はここで待ち合わせていたけど、それもしだいになくなった。二人で時折訪れてはいたけど、めっきり回数は減っていたのも事実だ。だけど、今日は……。
「今日は待ち合わせじゃないよ。約束してないから。飲みに来ただけ」
 息をついて、高野から目を背けるようにして直樹は酒を注文する。何かあったのは一目瞭然なのに、決して口を割ろうとしない。それが分かっているだけに高野は放っておくしかなかった。
 この時、高野は痛い程後悔したのだ。なぜ平田が連絡先を置いていくと言った時、それを受け取っておかなかったのか。こんな時こそそれが必要だというのに……。
 直樹が飲みたいと言うのなら飲ませておくしかないだろうと息をつき、なるべく強くない酒を少年の前に出して、高野はいつもの作業に戻ろうとした。
「……久志の、恋人にあったんだ……」
 特に聞かせるつもりがないのか、高野が前を辞した時も、直樹ははなし続ける。
「もちろん、笑ってたけど。凄いヤな奴。俺が久志のこと好きだって知ってるみたいだった……。知ってて、久志はもう自分のものなんだって見せつけるんだ。あいつ、人を見る目、なさ過ぎだよ……」
 言いながらも直樹はつい先ほどのことを思い出す。食事をしながら、久志の弁当を作りたいと言い出す少年。笑って了承するしかなかった自分。久志の腕にからまる少年の腕を、それを嬉し気に受ける久志を、ただ黙ってみているしかなかった直樹は、自分の心情に愕然としていた。
 ショックでたち上がれないとか、何をいうことも出来なかったとか、妙なことを口走ってしまったとか。そういった取り返しのつかないような失敗をしてしまったわけではない。
 我が物顔で久志の腕をとる少年を見て腹が立った。だけど、それだけなのだ。焼け付くような嫉妬を感じたけど、それ以上には思わなかった。直樹自身、もっとショックを受けるものだと思っていたのに。
「……尚志さんが、いるから……かな?」
 グラスの中で揺れる液体を見ながら、ぽつりと自分なりの結論を呟いてみる。それを自覚するのが恐かったからあの二人の前から逃げてきたのだ。なのに、平田との接点であるこの店にくることしか思い付かなかった。もしかしたら会えるかも知れない。そんな思いが働いてしまったのだ。
「尚志さん、今日くるかな?」
 目の前に追加のグラスを持ってきてくれた高野に、直樹は知らず聞いていた。それがどれ程哀れっぽく見えてもかまわないと言うくらい、その時の直樹はすでに酔っぱらっていた。
「家を知ってるんだろう? 会いに行けばいい。平田さんも、喜ぶんじゃないか?」
「だから、今日は約束してないんだって。会社の人と飲みにでも行ってるかも知れないのに。行けないよ。疲れてるだろうし」
 出てきたグラスの中身が水だったことに少し頬を膨らませながら、直樹は自分に言い訳するように答える。そう、言い訳。自分からは行くことができないのだと言い聞かせていた。行って、迷惑がられたらと思うと泣くこともできない。よりどころをなくしてしまう。無意識にそれを避けていたのだ。
「それでも、ナオがきたら喜ぶと思うけど?」
「ほんとに? 喜んでくれるかな?」
 高野の何気ない一言に、直樹は縋るように視線をあげる。毎週末付きまとって迷惑をかけている自覚が彼にはある。少しでも今の状態を長引かせたいと思えば、これ以上の迷惑をかけるわけにはいかないと思っていた。
「大丈夫だと思うよ。もう少しここにいて、家に帰らずに、平田さんのところに帰るといい」
 二杯目の水とともに差し出された高野の優し気な言葉に、今度は直樹も素直にうなずいた。明日の昼には会う約束をしているのだから、それを少し速めても笑って許してくれるだろう。平田はそんなことで怒るような小さな男ではない。無理にもそう思って、直樹は一旦席を立った。





 平田がナイトに来たのは、完全な暇つぶしからだった。直樹とつきあうようになって−−直樹がなんと思っていようと、平田はつきあっているつもりでいた−−週末は全て直樹の為にあけてあった。いや、週末だけではない。平日の夜も、あいた時間は全て偶然にでも直樹に会うことを思ってあけている。別に無理をしているわけではない。そうしたかったのだ。ここまで誰かに惚れ込んだことはなかったかも知れない。それでも、今彼はそれで幸せだった。
 だから彼に今日連れがいたのもほんの偶然だった。会社を出たとたんに捕まってしまったのだ。その連れが必要以上に彼に懐いているのもいつものことだったから、それが周りにどう見えるかを失念していたと言ってもいい。あるいはそれを見て顔色を変える人間がいる可能性を、完全に失念していた。彼自身の認識不足から。
 ナイトの扉をあけてぐるりと中を見回すのは、彼の習慣だった。この店はそれ程大きくはない。入り口からぐるりと見回せば、店内が全て見て取れる。そうしていつも、直樹がいるかどうかを確認してから腰を落ち着ける場所を決めていたのだ。
「ああ、なんでもない」
 その動作をいぶかしんで顔をあげた後輩に適当にあいづちをうちながらも、平田はカウンターの中の高野の様子が気になった。入ってきた平田に気付いて一瞬目を細め、隣にいる連れを見て困ったように笑った。そして、その連れが平田の腕にもたれ掛かるような仕種をすると処置無し、と言うようにこめかみに指を当て、軽く首をふった……ように見えた。
「高野さん? 何かあった?」
 いつも座るカウンターではなく入り口に程近い席に連れを座らせて、注文をかねて平田は高野のもとに向かう。先ほどの思わせぶりな態度の説明を聞かなければならない。詰め寄る平田に、高野はただ黙ってカウンター席に置き去りにされているリュックサックを指し示した。それが誰のものはか、平田も知っている。ファスナーにつけられたキーホルダーに見覚えがあった。
「……きてるのか? 今日は用事があるって断られてたんだが……」
 そうでなければ別の人間と飲みになど来ない。言外にそういう平田に、それでも高野は冷たかった。
「後であなたのところに行くつもりだったようですけど。今日はお忙しそうですね」
 言って注文もされていないのに二杯のカクテルをわたす。平田にはいつものギムレットを。連れには高野の見立てでパラダイス。見立ては見事とほめかけた平田も、高野の含みある言葉に眉をしかめた。
「……何かあったのか?」
「本人に聞いて下さい」
 取りつく島もない。その本人はと言うと、少し外の空気を吸いに行くと出たのだという。いつ戻るかは分からないらしい。
 平田は高野からの聞き込みを諦め、出されたグラスを持って連れのところに戻った。悪いが彼にはこの一杯で帰ってもらう。もともと連れてきてやると言うような約束をしていたわけではないのだから、どれほど罵られようが堪えはしない。
 案の定、急用ができたから先に帰れと言えば一頻りごねはしたが、ひとにらみで大人しくうなずいた。わび代わりに下まで送れと言ってくる。なんのわびだと思いながらも、それぐらいは言うことを聞かなければうるさそうだと平田も下までは送った。最後に抱きついてきたのには閉口したが、それよりも気になることがある。そんなことは二秒後には頭から消し去られていた。
「お待たせ。それで? 何があったのさ?」
 急の連れを追い出して店に戻って、いつも座るカウンター席に陣取るようにして、平田は高野に詰め寄った。隣にはもちろん直樹の鞄がある。ここは、いつも彼等が座っていた席だ。
「だから、本人に聞いて下さいと言っているでしょう?」
 いくらなんでももう戻ってきますよと高野は平田の前に2杯目のグラスを置く。どうあっても彼から聞くことはできないらしい。平田は諦めるとグラスに手をかけ、隣の席に座るはずの少年が戻ってくるのを待つことにした。
 だが出されたグラスをあけ、そのあと3杯のグラスを干しても直樹は戻ってこない。いくら何でも遅すぎないかと平田が高野に視線を向けると、視線の先の男も表情を曇らせている。
「遅いですね……もう1時間にはなる」
 酔いをさますと言って外に出て一時間。確かに少し長過ぎる。外を歩いていて風邪をを引くような季節ではないが、未成年がうろうろしていていいような時間でもない。
「鞄を置いたままで帰るなんてことはないだろうし・・・うちに来るって言ってたんだよな?」
 鞄を置いたままでまさかとは思ったが、すでに移動している可能性を平田は考えてみる。だが、どうしてもその答えに納得することができない。直樹の性格からは遠く離れている。
 そうしてその夜、直樹はナイトに戻ってはこなかった。







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