<4>


 うまくやり果せた。直樹はそう確信している。
 久志はこれで直樹の思いに気付いたりはしないだろう、と。いったいどこであの男にあったのか。昨日、今日と二人で何をしていたのか。そんなことが頭の中を巡っているのが直樹にはありありと分った。
 呆然としている久志を外に残して、直樹は家の中に入り、自室にこもる。ほどなく平田の車が走り去る音。数瞬おいて、乱暴に玄関の扉が閉じられる音と、廊下を駆ける音。
「直樹! さっきのあれ、なんだよっ」
 直樹が閉めた扉は乱暴に開かれ、息も荒く声の主が乗り込んでくる。
「何って……昨日電話で言っただろう? 俺の恋人。送ってくれたんだよ。挨拶ぐらいしたのか?」
 さらりと。直樹はことさらさらりと返す。それはある意味作った自然さであったが、息巻いた久志がそれに気付くべくもない。言葉にただ絶句し、信じられないと言うように直樹を見つめる。
 だけど。久志ははたと思い直す。彼が自分の恋人が男だと言った時、直樹はそれに関しては何の感想も述べなかった。それは、そういうことなのだろうかと。自分の恋人も男だから、何も言わなかったのかと。驚いたのはただ兄弟揃ってと言うことにで。
 すこし疲れたようにベッドに腰掛け、胸元をあける。直樹が着替えたいのだと言う仕種を見せると、久志は慌てて部屋を出て行こうとした。だが、その視線が開いた胸元で止まる。赤い鬱血。それが何かなんて尋ねるまでもないだろう。そんなものがつくようなつき合い方をあの男としているのだと認識するに至って、久志は言い様もない独占欲にかられた。そんなものを感じること自体おかしいと分っているのに、これは自分の物だと主張したいような感覚。
「なに?」
 その一点に集中していた視線に気付いた直樹が訝しげな視線を送る。そこに何があるのかまるで気付いていないその様子に、久志は切れた。ずっと、いつまでも自分だけの兄であると思っていたものが他の男のものになった証。
「なにって、直樹、それ。キスマークっ」
 つかみかからんばかりの勢いで側によって、開いた胸元の一点をさす。ゆっくりと首を巡らせて指摘されたそれを見た直樹は、しかしそれでも態度を変えたりはしなかった。それがどうしたと言うように小さく首をかしげる。
「だって、お前、そんな……」
 直樹と、平田の間に何が行われているのかを想像して、久志は絶句する。キスマークがついているといっても、平然としていられる関係。それが、当たり前の関係。それは確かに恋人だと言われた。だけど、だからといって……。自らがそこまで到達していないせいもあって、久志の考えはただぐるぐるとまわる。
「恋人だって、言っただろ? ……お前、まさか……」
 呆れたような直樹の声も、久志にはきちんと届いていないかもしれない。直樹の目がすっと細められる。義弟の、その反応をみていて察してしまったのだ。そして、ここからさっさと追い出す方法も、これから口を挟む元気をなくす方法も。
「まさか、まだなんにもしてない? やり方分からないなら、教えてやろうか? 実地で」
 にっと笑って、直樹は呆然と立ち尽くす久志の腕をとる。そのまま引き寄せ、距離をつめる。あと数センチで唇が重なる、そこでぴたりととめて笑みを向けてやる。久志は、大慌てで退いた。真っ赤になって、唇に手を当て、保護して。
「たかがキスで逃げるなよ」
 いかにもおかしそうに笑いながら、直樹は内心で深く傷付いていた。たかが、キス。冗談にも、キスをしかけることすら出来ない。唇を保護して、逃げる程嫌がられる。自分の恋は絶対にかなう訳がないのだと思い知らされる。
「そんなんでちゃんとできるのか? あんまり焦らすと、愛想つかされるんじゃないか?」
 楽しげにからかって、直樹は久志を部屋から追い出した。手に入れることが出来ないものを、部屋から投げ捨てるように。





 直樹はそれからの週末を、久志から逃れるように平田のもとで過ごしていた。彼が文句をいわないのをいいことに、毎週そこを訪れる。最初に言い合ったように高野の店で待ち合わせることもあれば、直樹が直接自転車で訪ねることもあった。そこは直樹にとって始めてできた泊まり掛けで出かけることができる場所であり、心を隠す必要のない場所だった。
「こんばんは、尚志さん」
 金曜の夜、夕食を済ませてから直樹は家を出る。平田の帰宅時間は大抵9時だとか10時だとかだから、直樹が食事をして、家のことを片付けて向かうのがちょうどよいのだ。しかも、その時間も平田はまだ夕食前ときている。訪れた2週目には、直樹は平田に食べさせる夕食を持ってきていた。でないとこの男、平気な顔をして夕食を抜くのだ。
「こんばんは、ナオ」
 時間をあわせて家を出たおかげで、その日はちょうど平田が玄関の鍵をあけているところに直樹はエレベーターであがってきた。手にはスーパーで買い物をするとくれる防水の紙袋。それは重そうに揺れていた。
「また食べてないだろう?」
 笑って紙袋を視線の高さにあげて揺らしながら、直樹は平田の後について部屋に入る。
 平田がスーツを脱ぎ、楽な服装に着替える間に、直樹は持ち込んだ料理を皿に並べ、あたためなおすのが常だった。ほんの数回来ただけで、結局直樹はこの家の中で、一番台所に馴染んでしいた。
「うまそうだな。相変わらず、器用」
「だめだよ。ちゃんと座ってから」
 着替え終わった平田が後ろから近寄り、笑って皿の中の空揚げに手をのばした。直樹はそれをぱちんとたたいて、つまみ食い禁止を言い渡し、さっさとテーブルに運んでしまう。そうして早く座れと言うように彼の席に視線を向けるのだ。
 穏やかな週末。食事を済ませてコーヒーと一緒に話をして。それ以上何をするでもなく風呂を使い、同じベッドで眠る。甘えているのは分かっていた。それでも直樹はそれをとめることができない。それに……数週間の内に、それはただ逃げるためだけではなくなっていた。
 平田に会いたい、と思う。久志から逃れるためにだけでなく、平田と会っていると、とても楽しい。自分を飾る必要がないからだろう、素直に言葉を発することができるし、平田はそれらをうまく受け止めてくれる。
「ナオ? いつまでシャワーを浴びてる? のぼせるぞ?」
 気付くと風呂に入ったままいろんなことを考えていた。平田が浴室のドアをどんどんとたたく音が直樹の耳に入る。ハッとして浴槽を飛び出し、ぼけた頭を冷やすために水に近い湯を頭からかぶる。そのまま浴室を出ると……そこに平田がいた。
「……っ尚志、さんっ?」
 直樹は慌てて前を隠す。そんなところにいるなんて思っていない、素っ裸のまま、タオルすら持っていない。左手で前を隠したまま右手をさまよわせてタオルを探る。だがそれは平田の手の中にあって、取りかえそうとしてもひらひらと逃げていく。
「尚志さんっ」
 よこせ、と言うように睨み付けて、やっと肩にタオルがかかって直樹はホッと息をつく。だがそれもつかの間、平田は肩にかけた手をそのままに直樹を引き寄せると、その唇を己のそれでふさいだ。触れるだけでないそれは、友人どうしの悪ふざけと言うには余りにも官能的なもの。驚いて、目を見開いた。だがそれは与えられた時と同様、唐突に奪われる。直樹がそれが何かに気付いてすぐに。どう対処したらよいかと考えている間に。
「早く服を着ておいで。湯冷めをするよ」
 頬に軽いくちづけを残して、平田はその後すぐに浴室を後にした。





 いつの間にか直樹の着替えもひとそろえ揃うようになっていた。寝室の箪笥の一番下の段が彼の為にあけられ、そこには下着から寝間着まですべて置いてある。数日のお泊まりにはたえられるように。今まで、予定外に泊まったことはとくになかったのだけど。その着替えは当然風呂を使う時に自分で出してきて、それまで着ていたものはそのまま洗濯機に吸い込まれる。
 のろのろと着替えながら、直樹の頭は混乱していた。
 平田が直樹に触れることはほとんどない。キスぐらいさせてくれるだろう、と言った癖に、平田はこれまでそんなことはしてこなかった。それこそ据え膳と言えるような、同じベッドで眠っている時でさえ、腕まくらをして優しく抱き寄せる。時折頬や額、まぶたに唇が当てられる。平田の接触はその程度だったのだ。それが……。
 さっきのくちづけは、それまでと比べ物にならなかった。それこそあの最初の時のとかわらない、官能的な……。思わず体があつくなるようなくちづけ。
 いったいどういった心境の変化か? ただの気紛れか、それとも何か意味があるのか。だけどいくら考えたところで直樹には平田の真意を知ることなどできはしない。考える材料が少なすぎる。それほど平田のことを知っているわけではないのだ。そう思うとなぜかそれが無性に腹立たしかった。
「尚志さん、コーヒー飲みたい」
 気を取り直して、頭にかぶったタオルで落ちてくる水滴を拭いながら、何ごともなかったかのようにソファに座る男に頼む。コーヒーに妙にこだわる男は、その役割だけは直樹に譲らなかった。そしてそうしてこだわるだけあって、彼のいれるコーヒーはずいぶんと美味しい。平田はその声に大人しくコーヒーを入れに立ち上がる。その間に直樹は空いたソファに座り、髪から滴る雫を拭いながら美味しいコーヒーを待つ。それは彼にとってこの家にいる時間の中でも特にすきなものに数えられた。たとえその時だけでも、誰かが自分を一番にしてくれる時間と言うのは暖かい。最初はそう思っていた。だけど、それが少しずつ変化していることを直樹も自覚している。
 誰かじゃない。平田が、だ。彼が直樹を一番にしてくれる時間。この週末。それがずっとつづけばいいと思いはじめている。先程気紛れに与えられたキスは、それを自覚し、確定させるに十分だった。誰か他の人間がこのキスを得ることを許したくないと強く思ったのだ。
 だけど、この思いは伝えられない。伝える資格も直樹は持ち合わせていないと思っている。平田は暇つぶしに、恋人ごっこにつきあってくれているだけ。もちろん直樹のことを全く気に入っていなければこんなことはしないだろうけど、それでもそれは純然な好意からではないと直樹は信じて疑わない。久志に恋人の存在を納得させるまで。それがこのゲームの期間なのだ。それが終われば、ただのバーの常連に戻るだけだ。その常連、顔見知りと言う地位を失いたくなければ、告白などできないだろう。
「ほら、お待たせ、王子様。ミルク入れたよ」
 コーヒーカップが手渡され、それを受け取った直樹は隣に座る平田の肩にそっともたれ掛かっる。この位置を、いつまで保っていられるだろうかと訝しみながら。




 日曜の夜、あたたかな平田の腕の中を抜けて家に帰るのは、直樹にとってある意味苦痛になってきていた。何の気兼ねもなくのんびりと、ゆったりと生活できるところから、幾重にも殻をかぶって武装しなければいけない場所に帰るのだ。平田の前では奔放で甘えたところを見せる直樹も、家に帰れば絵に書いたような優等生だ。息を抜くこともなかった頃ならばともかく、今の状態ではハッキリと息がつまる。
 勉強を真面目にして、不在の両親の代わりに家を切り盛りして。直樹がそれをいとうていると言うわけではない。ただ時々自分がそれだけではないのだと叫び出したくなることがあるというだけ。そして自分を解放する場所を得てから、きっとその思いが強くなっている。
「直樹。来週末、家にいろよ」
 夕食も平田と済ませてきていた。風呂も家に戻ってから済ませ、あとはもう寝てしまえば終わりと言う直樹は、リビングで紅茶を飲んでいた。平田の入れる美味しいコーヒーを飲んでから、自分で入れる気になれない。いつの間にか紅茶を飲む日が続いている。
 そんな直樹につきあうようにリビングで紅茶を啜っていた久志は、ぼそりとそう呟いた。この数カ月、例の告白の日からずっと週末家にいることのなかった直樹に不満気な表情を見せても何も言わなかった久志は、ついにそれを口にのせた。彼はずっと言おうとしていた。直樹もそれは分かっていたけど、相手がぐずぐずしているのをいいことに知らぬ振りを通した。だけどもうそうも行かない。
「俺の恋人つれてくるからさ。会ってくれよ。あの人と会う時間なくなるのは悪いけどさ」
「……分かった。そういや約束してたよな。金曜でいいだろう? 食事のリクエスト、聞いてこいよ」
 胸が痛むのを堪えて直樹は快活に答える。ちゃんと笑えてるか? 妙な表情になってはいないか? そんなことを自問しながら。だけど、直樹のそんな心配は杞憂だと分かる。久志はなんの屈託もなく笑みを浮かべ、分かったとうなずいているのだから。
「あいつ、ずっとお前に会いたがってたんだ。喜ぶよ。あの人にも悪いって、いっといて」
 あまり悪いとも思っていないような口調でそれだけ言って、久志は笑顔のみを残してリビングを後にした。笑顔でそれを見送った直樹の顔が次第に表情を失い、うつろな瞳がカレンダーに向けられる。あと、5日。それだけの猶予。
 しばらく呆然とカレンダーを見つめていた直樹も、時計が10時半を告げる音に我に帰り、慌てて立ち上がって部屋に引き取った。
 こんな……ほうけた姿を久志に見られないように………。












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