<3>


 朝食は終始無言のまま行われた。気まずい、といって差し支えないだろう、雰囲気。直樹は喋る言葉を持たず、平田もあえて食事中に話をすすめようとは思わなかった。それ以前に、彼には不機嫌の理由があった。直樹は、自分のシャツを着ていた。つまり、すぐに帰るつもりでいたということ。
「コーヒーでいい?」
 御飯に味噌汁、卵に魚。典型的な日本の朝御飯。そういった形の朝食を終えて、平田はいきなりそう聞いた。あわてて直樹は頷いた。だが、その後がもたない。
 食事をしている間はまだ良かった。目の前のものを食べると言う行為があるから。だけどこうして食事を終えてしまって。取り合えず言われるままに居間に移動したがそれ以上にすることがなくなってしまった。ただ豆からひいててくれているらしいコーヒーが出てくるのをまっている間と言うのは、どうにもすることがない。じっと机の下で手を組み、所在なげに部屋の中を見回す。それも、失礼に思われないように平田の視線が直樹に向いていない間に。
 断れば良かった、と思う。コーヒーなんて飲まずに、さっさと帰れば良かったのだと。そうすればこんなに居心地の悪い思いをする必要はなかったのだから。だが、帰ると言っても帰る場所がある訳ではない。直樹は義弟に今日も外泊するのだと言い切ってしまった。意地でもどこかに泊まって行かなければとおもっている。手段として思い浮かんでいるのは、高野の所に転がり込むことだった。この場合、友人の家と言う選択肢はない。夜までは図書館にでも行くか、映画でも見て・・・。そんなことを思っていた直樹の前に、コーヒーカップが置かれる。
「何をそう思いつめたような顔をしてる? ほら、うまいから飲めよ」
 そうして平田は自分の分のコーヒーを持って直樹の隣に座る。
ゆっくりとカップを口に持ってきて、隣に座る男の体温が妙に心地良いことに直樹は気付いた。あんなことがあった次の朝だと言うのに、妙に落ち着く。先ほどまで心に突き刺さっていた居心地の悪さが、氷のようにとけてなくなってしまった。
「さっきは、ありがとう」
 カップを持って一口口に含み、その味に感嘆を覚えながら直樹はぽつりと呟いた。時間がたって落ち着いて、やっとそれを口にすることが出来た。
「電話、弟だったんでしょう? 俺の嘘につきあってくれて、ありがとう」
 神妙にそう言った直樹に平田は嘘だったのか? とおかしそうに笑う。
「いっただろう? 楽しいことも汚いことも、全部教えてやりたいって」
 そういえばそんなことを言われた気もする。あれはその場限りの言葉だと直樹は思っていたけど、そうではなかったと言うのか? だけど、それならば昨夜は何故あれで終わってしまっていたのだと直樹は首を傾ける。あれが、平田の言う楽しいこと汚いことの全てだとはとても思えない。
「・・・失恋、したんだ」
 ぽつり。カップを両手で支えたまま、直樹は顔もあげずに呟いた。
「相手は俺のことを・・・信用してくれてて、恋人にあってくれなんて言う。それに、自分が恋人が出来て幸せになったら、きっと俺にもそれをすすめる」
 こんなことをあったばかりの人に言うとこになるとは思っても見なかったけど。あるいはあったばかりの人間だからだろうか。直樹は気付けばぼろぼろと自分の事情をはなしている。こんなことは高野にすら言っていない。もちろん、彼はある程度察しているだろうが。
「だから。・・・あいつに疑われることのない恋人が欲しくて・・・。だけど俺はまだ誰かを好きになんてなれないし・・・」
「さっき俺がしたみたいに?」
 静かに聞かれた言葉に、直樹は素直に頷く。そう、欲しいのは恋人『役』をしてくれる誰か。だけどそれを誰かに頼むことすら直樹にはおっくうで、状況を説明するのは苦痛だった。昨日の夜はショックで、それ所ではなかったと言っても言い。
「恋人役、してやろうか?」
 思い掛けない言葉に、直樹はハッと顔をあげる。そうして、次の瞬間には計算をはじめていた。この男なら十分だと。仕事も、収入もまるで知らないが、見てくれは充分。外見だけで、相手を騙せるかも知れない。
 そうして自分がそんなことを計算していることに気付いて直樹は吐き気すら覚える。つくづく自分が何を中心に廻っているのか思い知らされた気がした。
「どうして?」 
 それでも本当はすぐにでもお願いしたいくらいだったのに、直樹はそう尋ねずにはいられなかった。彼の言葉の裏にあるものが分からない。
「そんなの、尚志さんにはなにもいいことないじゃない」
 それとも何か交換条件でもあるのだろうか? 何か、とんでもない無理難題が。
「そうか? こう言っちゃ何だけど、面白そうだと思ったんでね。まぁ、恋人役が男でもいいなら、だけど」
 その辺りに言及するのを忘れていた事を、直樹は迂闊にも言われてから気付く。普通、恋人と言えば異性だろう。だが・・・。
「俺が探してた恋人役は、男だよ」
 直樹自身、彼と同じように好きになることができる相手がいるかどうかは分っていなかった。だけど、いるとすればそれが異性ではないことは分っていた。随分昔に気付いてしまったこと。彼が、異性に恋情を持てないと言うこと。だがそれはわざわざ平田に言う必要のあることではない。例え昨夜、誘いをかけた時点で想像されていたとしても。
「なら、問題ないな。それで、ナオはどうしたい? 俺という恋人といて幸せそうにしてる所を相手に見せる? それとも、なにか他に?」
 相変わらずナオと呼びながら、平田は快活に話をすすめようとする。自分で計画していたと言うのに直樹の方が気後れしてしまうくらいに。
「・・・・いいの?」
「いいよ。たまにはキスぐらいさせてくれるだろう?」
 うかがえばからかうような言葉とともに唇が軽く触れて行く。その辺りで、直樹の心も決まった。悩んだ所で仕方ない。本当に身体を差し出してもいいと思っていたのだ。キス程度で済むなら安いと思わなければならないと直樹は自身に言い聞かせる。それに・・・。
 それに、彼とのキスは、イヤではなかった。
「直樹」
「え?」
 ぽつり、と直樹が口にしたのは、電話の男が言った名前。それがナオと言う相性しか教えなかった少年の名前。
「篁直樹。恋人が名前知らないっておかしいでしょう? 呼ぶのはどっちでもいいけど・・・」
「そうだな」
 少年の歩み寄りが嬉しくて、平田は頬を緩める。そうしてゆったりと立ち上がる。
「じゃあ、少し話をしようか。今日も泊まって行くだろう?」
 優しげな笑顔に、直樹は考えることもなく頷いていた。




 平田は、必要だと思うこと以上は聞いてこなかった。その必要だと思われることも、直樹が言い出すに任せている。それが、失恋したと言う相手のことだからだ。
 それでも平田も気がついていない訳ではない。直樹の好きだったと言う相手が、あの電話の男であろうことに。
「ずっと、会った時から好きだったんだ。でも、駄目だと思ってたから・・・。今でも駄目なんだろうけど。男の恋人が出来たって聞いた時は、さすがに吃驚した」
 平田の視線は直樹には心地いいものだった。会ったばかりだと言うのに、何故か落ち着く。話している間にいつの間にかあやすように身体に触れられていたことにも、随分あとになってから気付いた。
「言うつもりはない?」
 抱き込まれ、心地よい温もりに包まれた状態で直樹はただ頷いた。それは、恋とは言えどうにかしたい思いではなかったのかも知れない。あるいは憧れに近かったのかも知れないとも思う。
「俺はすぐに会いに行った方がいい? それとも、しばらく時間をおいて恋人らしく振る舞えるようにお互いのことをしってからにしようか?」
 本当はすぐで良かったはずだ。だけど。と直樹は言い訳する。ここは何故か居心地が良かった。しばらく手放したくはないと思うくらいに。それに彼の想い人であった久志は、付け焼き刃など見抜いてしまいそうな所もある。そのためにも時間はあった方がいいのだと自分を納得させる。
「尚志さんのそばってなんだか安心する。俺、週末に来てもいい? そうすればあいつに見せつける事も出来るし・・・」
 言ってから思い付く。平田にももしかしたら恋人がいるかも知れないと言う事。こんな頼みを了承するくらいだから恋人などいないとは思うが、万一いた場合、毎週末を拘束するのは、迷惑以外の何ものでもないし、たとえ恋人がいなくても仕事での疲れを落とす週末を拘束し続ける訳にも行かない。だから直樹は言葉を取り消そうとした。だけど。
「いいよ。毎週おいで。まってるから。なんなら高野さんの所で待ち合わせをしてもいいしね」 
 偶然とは言え、直樹は安息の地を手に入れた。
 そのまま取り留めのない話をして、趣味だとか普段の生活だとかを話して、気付くと随分打ち解けていた。冗談を言い合う、年は離れているが仲の良い友人。直樹に取ってはきっと誰よりも素直な自分でいられる相手だった。家の中よりも学校よりも。
 食事を作ってふたりで食べ、話をしてベッドに入る。そうして翌日同じベッドで目を覚まし、散歩に出るなどして時間を過ごす。久し振りに家事から解放された直樹はもちろん、喜ばせたい人間がすぐそばにいる平田に取っても楽しい休日だった。





「・・・いいって言ったのに・・・」
 車の中。隣で運転をする平田の表情を伺いながら直樹は呟いた。日曜の夕刻、そろそろ帰ると言う直樹を平田が送ると言い出した。初めは家を知られるのを嫌って断っていたが、最後には本当に悪くて遠慮していた。それに、家にはあの男がいる。もしかしたら、恋人と・・・。そう思うと直樹の意地は挫けた。しぶしぶという風を装って、結局助手席におさまっている。
「気にする事ないよ。俺がそうしたかっただけだから。見ておきたかったしね」
 何を、とは言わない。だけど見たかったものが何かなんて明白だった。
「・・・俺、甘えるからね?」
「なに?」
 ぼそり、と呟いた直樹に平田は小さく聞き返す。
「車、ちょっとはでに止めて。中にいるやつに分かるように。きっと・・・出て来るから」
「了解」
 くすりと笑みを漏らし、平田はハンドルをかえす。直樹に指示される通りに道を辿り、どんどん家に近付いていく。平田の部屋から車で十五分。お互いの家は思いのほか近かった。歩いてでは苦しいが、自転車でもつかえば楽に通える。
 家の前の車道に車を止めて数十秒。二人が車から降りて肩を組みながら家の前に来た頃にバタバタと廊下を走る足音が聞こえた。どちらから言い出した訳でも行動しはじめた訳でもなく身体が引き寄せられ、唇が重なる。玄関のドアが開いたのは二人がより一層濃密なつながりを求めて互いをしっかりと抱き寄せ会った頃だった。扉の向こうの顔が、見る間に硬直していくのを二人とも肌で感じ取る。
「送ってくれて、ありがと」
 耳もとに唇を寄せ直樹は囁くように呟く。確実に、見物客へのアピールだった。もっとも、見ている方にはそんなコト、わかりはしないだろうが。
「気にする事ない。一人で帰したくなかったからね」
 笑って平田はそう言って直樹の頬を撫でた。年下の恋人が、心底かわいい、と言うように。そうしてはじめて玄関の方に目をむけ、人がいる事に気付く振りをする。直樹の視線を促して、さり気なく誰何する。弟だと言う答えを聞いて、納得したように頷いた。
「昨日はどうも」
 にっこりと笑って挨拶をして直樹を玄関に送り届ける。落ち着いたその声と態度に、少年は何も言い返せなかった。ただ固まったまま、直樹が玄関を通り過ぎていくのを見る。そうして直樹が中に入ってしまってから、ハッと気付いたように振り向いた。
「直樹っ!」
 慌ててあとをおおうとして目の前の男の存在を思い出す。少年は一つ小さな、形だけの礼をして、直樹のあとをおった。
 平田はその閉じられた扉をしばらく見守って、車を出した。







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