<2>
過ぎる快楽は、苦痛かもしれない。
直樹は痛む咽を庇いながら寝返りをうった。想像とはまるで違った一夜。もっと痛みだけのものだと思っていた。どちらかといえば快楽の勝つ時間。大きな手が、繊細な動きで体中を這い回り、何度も追い上げられ、ドロドロにとかされた。なのに予測していた痛みはついに訪れず、気付いた時にはひとりだった。
「・・・なんで・・?」
今の状況を直樹は理解出来ない。彼はもっと直接的な誘い方をしたはずなのだ。
「ねぇ、俺のこと、どう思う?」
高野が他の客の対応にそばを離れた時、直樹は思いきって聞いてみた。
時々、視線を感じていた。その視線の主が平田だったかどうかは実の所余り自信がない。それでも、そう聞いてみたい気分にさせられた。隣に座った男の雰囲気はとても暖かく、心地よかったのだ。見ていたのが彼ならいいのにと思った。気に入られたい。無条件にそう思わせるような雰囲気。
だけど答えるためににやりと笑った男の雰囲気は一変した。彼をまとう暖かい空気は消え、からかうような、人の悪い笑みだけが残る。それでも、逃げ出したくなる程のものでもなかった。
「さぁ? どうだろうな」
からかうような物言いも、決して嫌味ではない。だけど、答えをはぐらかされたのだという事は直樹にも分った。もっと、逃げられないカタチで質問をしなければいけなかったのだろうか?
どう思う、では漠然とし過ぎているのかもしれない。判断材料がなさ過ぎるのか・・・。直樹が知りたかったのは、彼が直樹のことを好もしく思っているかどうか、ただそれだけだったのだけど。
どうしてそれが知りたいと思ったのかは分らない。だけど、直樹はただ無性に知りたいと思った。そのためになら、多少のコトはするだろうというくらいに。
「尚志さんは・・・俺みたいな子供には興味ない? 抱きたいとかって・・・思わない?」
直接的な言い方。顔から火が出る思いをしながらも、直樹はその言葉をなんでもないように紡ぐ。いかにも、遊びなれたふうに。実際にはそんな事を口にした事など無かったのだけど、そう装わなければとてもじゃないが聞く事が出来なかったのだ。
「俺が、男にも手を出す人種だと思った?」
にっと笑ってそういう男は明らかにこの状況を楽しんでいる。からかうように言う平田の言葉に直樹の頬が赤く染まることまで含め、全て。
「だって・・・尚志さん、そうだろう?」
視線をそらし、唇を少し尖らせるようにして直樹は呟く。平田はその表情すべてを逃さないように見守り、見るものが見ればやはり分るのかと思わず苦笑をもらす。
この状況はある意味嬉しかった。ずっと見続けていた少年が自分から腕の中に転がり込んでこようとしている。だけど。この少年が今現在酔っ払いである事も忘れる事が出来なかった。
「その通りだけどね。口説くなら、しらふの時にして欲しいな」
しらふならこの少年は絶対に自分に粉をかけるような事はしない。それが分っていながらそれでも平田はそう言わずにいられなかった。相手にどう取られるかは分らない。もしかしなくても、駆け引きだと思われているだろう。その部分がなかったとは正直言わない。それでも、自分を大事にして欲しいとは思っている。
「ねぇ、俺のこと、どう思う?」
また、最初の質問に戻ってしまった。平田にはため息をつく事しか出来ない。
「ナオがしらふならね。楽しい事も汚い事も、全部教えてあげるよ」
この展開は彼の予想の外だ。本当なら自分からイニシアチブを取って、ことにいたるつもりでいた。彼の場合、あまり失敗は考えていない。失敗を考えていては、本当にそうなってしまうから。前向きに生きることが人生を楽しむこつだ。
「じゃあ、教えて」
真っ黒な瞳が、平田を射抜く。驚いた事に彼の瞳は酔いを含んでいなかった。酔っていなかったはずは無い。ただこの時、教えを請うた直樹の瞳に酔いは無かった。
「教えろって・・・」
「楽しい事も、汚い事も。全部教えてよ」
思わずタバコを取り落としそうになった平田に、直樹はなおも詰め寄った。しらふとは・・・少し言いがたいかもしれない。それでもその真剣な目を拒む事など出来なくて・・・。
「・・・じゃあ、今夜うちに来る?」
からかうように平田は聞いた。相手が戸惑うのが分っていたからだ。そして少年は戸惑いはしたけど、引きはしなかった。ほんの一瞬とまった後、ただこっくりと頷く。
「まぁ、高野のストップが入らなきゃな」
大きな手で直樹の頭をくしゃりと撫で、平田は苦い笑いを漏らしたのだ。
そうして。直樹は平田の部屋にいた。逃げ道を用意されたけど、自分から平田のベッドに向かった。「抱きたいか」と聞かれて、平田は「いろいろ教えたい」と応えた。直樹で無くてもそれをどう言う意味に取るかは決まっているだろう。だが、現実に起こった事はと言えば・・・。
直樹は見なれない天井をぼんやりと見上げた。体を起して部屋の中を見て回りたい気はするけど、鉛をつめたように重い体ではそれもままならない。先程うった寝返りですらおっくうだったのだ。
何度も快楽の海に捕われた事は直樹も覚えている。追い上げられ、追い詰められ。だが意識がもうろうとする程の悦楽の中で、何が起こったのかを実の所直樹はあまりはっきりとは覚えていない。ただ漠然と分る事は、直接的な意味で抱かれはしなかったと言う事。不様に泣きわめいた覚えも嫌がって暴れた覚えも無いけど、決定的な事はされなかった。
覚えている訳では無いけど、体がそう言っている。
「尚志さんも・・・・」
結局、平田もその気になれなかったと言う事だろうと直樹は諦めとともに思いを飲み込んだ。義弟の久志が直樹を恋愛対象としなかったように・・・。
そうしていったん思考が暗い方向に走れば、あとは楽なものだ。坂を転げ落ちるように、どん底へと導かれて行く。
「ナオ、起きたか? もう朝だけど、起き上がれるか?」
今だベッドの中に丸まったままの直樹に部屋の外から声がかかる。暫く返事をせずにいると、人陰は部屋の中にまで入って来て、布団に丸まったままの直樹の枕元がしずむ。それが平田の重みだと直樹が気付いたのは、優しい手が髪を撫ではじめてからだった。
「朝飯、食えるだろう? ほら、起きろ」
髪を撫でる手はそのまま直樹の背中に回り、優しく少年を抱き起こす。見上げた顔は呆れる程イイ男で、シャワーでも浴びてきたのか肌はしっとりと濡れ、髪からは雫が滴りそうだ。
「朝・・・何時?」
ぼんやりと視線をあげ、部屋の中をぐるりと見回す。時計が見当たらない。直樹は問うように平田の目を見る。
「今か? 9時を少し廻った所だな。もうちょっと寝てるか?」
直樹が眠いのだと思った平田は笑いながら彼をもう一度ベッドに戻そうとする。だが直樹は小さく首をふってそれを遮った。
「電話、かして。家に連絡する」
昨日は連絡などいらないと首をふってしまったが、良く考えてみれば「帰らないかも」とはいってきたが、実際に帰らないとは言っていなかった。現実問題として、直樹に家の行き来をするような友達はほとんどおらず、彼の弟もそれを知っている。無断で帰らなければ、多少の心配をしているかも知れない。そう思えば、昨日のうちに「泊まる」とだけでも連絡をしておくべきだったのだ。自分のことだけでそこまで思いいたらなかったが。
何となく事情を察したのか、平田は小さく笑って電話の位置を教えるにとどめた。詳しいことは、何も聞かない。その態度が直樹には有り難かった。
「隣の部屋に有るから、好きに使え。その間にメシの準備をしておく」
そうしてバスタオルと下ろしたばかりらしい新しいシャツと下着をいやじゃなければ使えと言いおいて部屋を出て行った。その背中を見送りながら、直樹は軽く首をかしげる。
彼には朝起きてシャワーを浴びると言うような習慣はなかった。真夏に大量に汗をかいたと言うなら別だが、今はそんな時期ではない。そんなふうに考えながらやっと裸の身体をベッドから起し、ふと思う。昨夜、あのあとどうしたのだろう、と。
昨夜、汗やそれ以外のものでかなりドロドロになっていたはずだ。だけど今はシャワーの必要を感じない程にさっぱりしている。それはつまり・・・。
今さらながらに恥ずかしくなった。水でも浴びて、目をさまして電話をして。食事なんて必要無かったが用意してくれているのなら有り難くちょうだいして。そうして今日のことは終わりにしてしまおうと直樹はシャワーに向かった。
平田がベッドルームを抜け、台所に移動してしばらくするとシャワーの水音が響き出した。それでやっと直樹が移動をしたのだと平田は知る。
彼自身、この後をどうしようかと真剣に悩んでいた。直樹が今日限りのことのつもりなのだろうことは最初から覚悟している。高野に彼が失恋したのだと聞いた時にはその可能性が上がった気がした。もしかしたら失恋のショックをやわらげるために誰かとつきあいたいのかとも考えたが、どうもそうではない気がした。もしそうなら、幾らでも付け込むだろうが・・・。
それともその気がなくてもそう思うようにしむけるべきだろうか? なんにしても彼が平田とのことをこれで終わらせないように考えなければいけない。最初は逃げ場でかまわない。徐々に気持ちを奪ってゆけばいいのだ。そのためにはこの朝が大事なのだと平田は小さく息をつく。
朝食の準備がほとんど整った頃、直樹がシャワーを終えたらしい物音がする。彼はいったい、自分の用意したシャツを着るだろうかと平田は考える。すぐ帰る気なら、自分の服を着ているだろう。だが、そうでなければ・・・。
「・・・・・・・・・・」
ぼそぼそと聞き取れない声が届く。食事の準備は終わっている。あとはコーヒーをサーバーから注ぐだけだ。立ち聞きなどするべきではないと分っている。だが、平田は好奇心にまけた。そっと部屋の中を移動し、電話の有るリビングに一番近い壁際に立つ。もちろん、向こうから姿など見えないように、慎重に位置取りすることも忘れない。
「・・・失礼なやつだな。俺にだってとめてくれる人ぐらいいる」
直樹は電話相手と少し言い合っているようだった。やり取りをする直樹の声だけで、平田は慎重に内容を判断しようと耳をすます。
「お前の知らない人だって。いいだろう、別に。大丈夫だって。向こうも一人暮らしなんだから」
言い争いの元はどうやら直樹の身内らしい。言い合っている相手は口調からすると親ではなく兄弟というところか。迷惑をかけたとか、そういう話をしているのだろうかとさらに耳を向ける。
「だから、友だちだよ。お前が恋人連れてくるって言うから、遠慮したんだって」
快活にはなす直樹の声を、平田は首をかしげて聞いていた。少し、違う。そう、何か印象が。平田などそう直樹の言を知っている訳ではないが、何か無理に明るくふるまっているように感じた。
「しつこいな。分った、言うよ。恋人。お前が連れてくるなんて言うから、会いたくなったんだよ。いいだろう、もう」
それを聞いて平田はますます首をかしげる。何故、そこまで言い訳をしなければいけないのかと。確かに一晩の相手を得ていたとなれば問題だろうが、恋人だなどと言う言い訳もかなり問題が有ると思う。学校の友人にでも口裏をあわせてもらう方がはるかにふつうだ。
「もう、いいかげんにしろよ。お前は知らない人だって言ってるだろう? そうだよ。良く分ったな。社会人の、いい男だよ。土曜だし、今日もこっちに泊まる。じゃぁな」
がちゃっ、と音がした。直樹がかなり乱暴に電話器を叩き付けたらしい。平田は今聞いた事実を胸にしまい、いったん部屋の中央に戻ってからリビングを覗いた。
「電話、終わったか? だったらこっちに来て・・・」
言いかけたところで電話がなった。すぐ前にいる直樹がびくりとすくむ。平田はその直樹の横を通って、受話器をあげた。
『直樹の恋人、ですか?』
もしもし、と平田が答えると若い男の声がそう聞いてくる。直樹と言うのが目の前の少年の名前であることはすぐに理解した。そうして、彼がきっと最初に出されたナンバーディスプレイの番号を覚えてここにかけてきたであろうことも。
「・・・君は?」
どう応えてやろうか、と悩みはしたが、平田は即座に決めていた。売り言葉に買い言葉であったことは確実だが、直樹が恋人役を欲しがっているのなら彼にはチャンスだ。その役におさまってしまえばいい。男の恋人を必要とする理由は分からないが、直樹はかなり大きな声で恋人の家にいると言っていた。台所にいた平田が聞いていたとしてもおかしくはないだろう。
『すみません。直樹の弟です。さっき、昨日そちらに泊まったって電話があって・・・』
冷たく返してやれば、慌てたような言い訳が帰ってくる。そうして、そのまま言葉につまってしまった。きっと驚いて、何をはなすかも考えずにダイヤルをしていたのだろうと考えて、平田は相手に聞こえないように小さく笑う。
直樹が、電話の相手を察したのだろう、どうしていいのか分からないような表情で立ち尽くしている。この状況では平田に何を頼むことも、口裏をあわせさせる時間もない。そんな彼に大丈夫だと笑いかけ軽く手をふって、平田は電話に向かった。
「直樹は今もそこにいますが。彼に用事なら代わりますが、手短に願います。これから朝食なんで・・・」
『いえ、いいです。すみません。直樹をお願いします』
電話を代わろうと言うとまたさらにどうしていいか分からなくなったのだろう。直樹の弟と名乗った少年はいきなりの電話に丁寧に謝り電話を切った。案外礼儀正しいのだなと平田は妙な所で感心する。きっと兄の恋人が男だと知ってショックだったのだろう。ののしり言葉が出てこなかっただけましだろうと勝手に納得することにした。
「尚志さん・・・・」
「食事にしよう。準備、出来てるよ」
不安そうにしている直樹を伴って、平田は直樹を朝食の席に誘った。
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