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「好きな人が出来たんだ」
 遠慮がちにそう報告する義弟の顔を、直樹は表情もなく見つめていた。大事な義弟の報告は、ふつうなら喜ぶはずのものだが、その時の直樹は思考能力が低下していく自分を感じた。
 スキナヒトガデキタ。
 それはいつか言われると分かっていた台詞。それでもその言葉が大きな衝撃として自身に降り掛かったことも直樹は自覚した。
「それでさ。直樹にもあって欲しいんだ」
 俺にあわせてもいいのか? 取るかもしれないぜ?
 偽悪的にそういった返事代わりに憮然として睨んでくる義弟に「いいよ」とちぎれそうな意識の下で直樹は微笑みをかえした。彼の義弟は彼を信用して恋人を紹介してくれると言うのだ。それは義兄としてとても有り難いことではないか。
「それで・・・驚かないで欲しいんだけど・・・」
 勿体ぶるように義弟が口籠る。それをどうしたと促した所までは直樹もまだはっきりと覚えている。
「・・・・・相手、男なんだ・・・」
 直樹の意識はそこで飛んでしまい、その後どんな対応をしたかまるで覚えていなかった。





 都内ビルの中にある、小さな、小さなバー。いまだ高校生の篁直樹はそこの常連だった。カウンター席が五つと、小さなテーブル席が一つ。十人も入ればいっぱいになってしまうバー『ナイト』、が彼の避難場所。開店時間前に滑り込んできたため、いまだ他の客は誰もいない。それをいいことに直樹はマスター相手に愚痴をこぼしていた。正確には、言葉でなく態度で。
「高野さん。俺、失恋した・・・」
 店に入るなりそう言ったきり、直樹は酒を飲むため以外に口を開こうとしない。この小さな店をほぼ一人で取り仕切る高野は、その様子を痛々しげに見つめていた。
 直樹が道ならない恋をしているのを、漏れ聞く言葉の端々で高野は知っていた。はっきりとそのことについて腹を割って話したことはない。それでも時々される相談事から、告げることも出来ない恋だったらしいことは知っている。相手も聞いてはいないが、何となく想像がついていた。
 そして直樹がここに来るのは、息を抜くため。町で偶然であい、助けてもらったのがきっかけで始まった仲。あれは三年程前のことで、直樹はその頃からその恋に悩んでいたようだ。その行き場のない思いのはけ口になればいいと店に入れてやったのは出会ってから一年程たったころ。今ではしっかり常連の座におさまり、さすがに高校生ぜんとしたそのままの姿ではまずいだろうと来る時は変装までしてくる。変装と言ってもたいしたものではない。伸ばして、いつもは首の後ろで一まとめにしている髪を下ろし、眼鏡をやめて紫のカラーコンタクトを入れている。それだけでもずいぶん印象が変わるものだ。
 高野はただ黙って酒を入れてやる。直樹が酒に強いのはすでに知っている。それに普段は自制してほとんど酒に手をつけない男が飲んでいるのだ。今日くらいは酔わせてやってもいいだろうと思う。
「久志、恋人が出来たんだって」
 腕まくらに頬を預け、くすくすと笑いながら、直樹は呟いた。その言葉に高野は自分の予感があたっていたことを知る。久志と言うのは、直樹の血のつながらない弟だ。
「俺に会ってくれって。会う約束? ちゃんとしたよ。大丈夫、最後まできっちり笑ってる。なにがあっても」
「ナオ、今日とまってくか?」
 いつもならそんなことは言わない。だが今日は幸い週末で、明日は休み。直樹がどうしても帰らなければいけない理由はない。それにここまでぼろぼろになってる直樹をその原因のもとに返すのを高野はためらった。一晩浴びる程に酒を飲んで、それで消化できるならそれもいいと思ったのだ。もちろん、未成年にすすめる方法とは思えないが。
「俺のこと慰めてくれるの? でも、駄目だよ。高野さん、恋人いるでしょ?」
 この場合の慰めが何を意味するかが分からない程高野は子供ではない。そして、さらに思う。このまま直樹を帰してはいけないと。彼はもともとこんなことを口にするような子供ではない。慰めに、誰が相手でもいいようなつき合い方はして欲しくなかった。だがこのまま放っておけば、彼はきっとそれをする。どうしたものかと途方にくれていたところで、新しい客が来た。
 高野もよく知る男だ。ここ数カ月のうちにここの常連にまでなる程通いつめた男。彼はまるでためらうことなく突っ伏したままの直樹の隣に座った。高野は形のいい眉をそっと潜める。まさか、という思いが強い。つい先日、彼はまだ早いといったばかりだ。
「高野さん。俺にもギムレット、くれる?」
 するりと直樹の隣に座った男は、少年にはちらりとも視線を向けず、目の前の高野に視線を送る。黙っていろと、無言の圧力をかける。
 そのまま、男は黙って飲み続けた。直樹にしても、隣に知らないものが来れば愚痴をいい続けるのにもはばかられる。自然、黙ってグラスを傾けるようになっていく。
 そうして。直樹の飲むスピードが上がっていく。隣の男はまるで自分の方なんて見もしないのに、どういう訳か意識させられた。このままでは沈黙に飲まれてしまう。そして、酒にも。そうすれば誰に迷惑がかかるか分っていた直樹は、快活に隣に座る男に声をかけた。
「ねぇ、あんたこの頃よく来てるよね? 名前、聞いていい? 俺はナオだよ」
 振り向いて男の顔をよく見て、見覚えのある顔だということに気付いた。いつもはカウンター以外の席で、静かに飲んでいる男だ。
「平田、だよ。君こそよく来てるだろう? 俺が来はじめた頃には、すでに常連だったじゃないか」
 平田と名乗った男は、愛想よく笑いかけて来る。軽いその態度が、今の直樹には有り難かった。
「ふぅん。平田さん? そう呼んでいい? それとも、他にいい呼び方、ある?」
 頬杖をついてなつっこく笑うその姿が本来のものかどうか。それは平田にも判断は出来ない。それでも、まぁ、いいかと思う。ずっとその少年を見てきて、やっと今、彼の方から声をかけさせることに成功したのだ。
「平田尚志っていうんだけどね。好きに呼んでくれていいよ」
 その名前を横から聞いていて焦ったのは高野。直樹は軽く目を見張っただけだった。平田には先ほどの会話は聞こえていない。直樹の失恋のことも、失恋相手の名前も。
 彼に分っているのは、今日の直樹がいつもにもまして、落ち込んでいるということだけだ。
「じゃあ、尚志さん、かな。いいよね?」
 甘えるような笑みにはなんの作為も感じない。平田はただ頷くだけでそれに応えた。そうして、軽く首をかしげる。
「ナオ・・・フルネームは教えてくれないのか?」
 平田がそういって迫ってみても、直樹は軽く笑ってかわしてしまう。しばらく二人して飲んでいたのだけど、彼は決してナオという愛称以上を口にしようとはしなかった。







「潰れたな」
 平田は隣で軽い寝息をたてる少年を目に入れて小さく肩を竦めた。高野がカウンターから離れたしばらくの間、彼は少年と話をした。酔っ払いのたわごとかもしれない。だが、それは平田の意志をぐらぐらと揺すぶるくらいに強烈な言葉の羅列だった。そうしてその話の間に直樹は杯を重ね続けた。決して弱い訳ではないだろうが、急に常以上のスピードで飲めば、どうしたって酔いが回る。結果潰れることになったとしても仕方がないだろう。
「あなたが飲ませたんでしょう? ちゃんと責任をとって下さいよ?」
 飲ませたと言うよりはかってに飲んだ・・・平田はそう言いたい状態だったがなんとかそれを我慢する。止めなかったのも事実だから、責任があると言われても仕方ないだろう。
 だが、高野はどうやって責任を取れと言うのか。平田にはそちらの方が気になった。
「・・・つれて帰っちゃっていい?」
 まるで保護者のように直樹を可愛がっている高野だから、きっと許さないんじゃないだろうかと思っていた。平田は正直にそう告げる。彼は平田の下心を充分に知っているはずだからだ。
「あなたの理性を信じることにしますよ。それとも、下心の方かな?」
 戯けたようにいいながら、高野はグラスを下ろした。ナプキンをしまい、磨かれたグラスに冷たい水を注ぐ。
「俺の下心を信じる? そりゃまたどうして?」
「下心があるからこそ、嫌われるような真似はしないでしょう? まさか無理矢理、たった一度奪うのが望みとは言わせませんよ?」
 酔いを覚ませとばかりに冷たい水を差し出し、高野はにっこりと微笑んだ。確かに彼の言う通りなので平田は肩を竦め、取りあえず素直にその水を飲んでおく。この程度で酔いが冷めてしまうかどうかははなはだ疑問だったけど。
「まぁ、ムリヤリは趣味じゃないよ。取りあえず、連絡先を残しておこうか? 何かの時の用心のために」
「いりませんんよ。後は二人の問題です」
 失恋の痛みは、簡単に癒えることはない。そのことは高野自身もよく知っていることだ。新しい恋が癒してくれることもあるだろうし、あるいは騒々しさが癒してくれるかもしれない。平田ならそのどちらも提供できる可能性がある。だから、高野は平田に直樹を預けることにした。本人をまったく無視した考えだが。
「タクシーを呼びましょう」
 かついで帰るのは無理でしょう、と首をかたむけられれば、その通りだと答えるしかない。平田は素直に高野の好意に甘え、直樹のものらしい荷物の所在だけ確認しながら、最後の一杯を飲み干した。
 それから直樹を肩にかつぐようにして、手伝ってくれる高野とともに店をでる。
「無茶は止めましょうね。彼は・・・失恋したそうですよ」
 車の扉を閉める間際、高野は平田にそっと告げた。





 マンションンの7階。一人暮らしにはぜいたくなくらい広い部屋に平田は直樹をつれて帰った。さすがに一人で運ぶのには骨が折れたが、幸いタクシーの運転手が彼を背負わせてくれたから、何とかぶざまに引きずるはめにはならずにすんだ。
 部屋に入って、広いリビングのソファに完全に眠ってしまっている直樹を転がし、平田は自らの着衣を緩めた。少年にはそばにあった大きめのバスタオルをかけておく。暖房も入れたことだから、これで取りあえず風邪を引いたりはしないだろう。このまま寝かせるなら、もう少し考えた方がいいのだろうが。
 そのまま頭を冷やすついでにシャワーを浴びてしまう。浴びる程に飲んで、それでも酔うことが出来なかった酒をシャワーで流してしまう。
 汗と酒を落としてさっぱりとして、きっちり夜着を着込んで居間に戻ると、直樹は先ほどと同じ体勢で眠っていた。一度も目を覚ますことはなかったらしい。それならこのまま寝かせてしまえばいいだろうと平田は寝室から薄いかけ布をとってきて自分はベッドに引き上げようとした。その時、少年が身じろいだ。
「・・・・・ここ・・・?」
 緩く体を起して、辺りを見回す。そうして平田の顔を見て、その夜着姿を見て、直樹はこくんと咽を鳴らした。
「・・・・俺・・?」
「まだ、何もしてないよ」
 苦しいだろうと空けられた胸元をかきあわせ、不安げにたずねてくる。自分がどこにいるのかすら分らず、目の前にはあったばかりで、ある約束をした男。
「ここ、尚志さんの部屋? 見たことないけど・・・?」
 改めて部屋の中を見回し、直樹は首を傾けた。表情が固いのは、自分の状況を回らない頭で考えているせいだろう。それでも広い室内は片付いていて居心地がよく、その表情も少しずつほぐれていく。
「そう、俺の部屋。一応約束通りつれてきたよ。高野さんのオッケーも出たしね」
 約束。その言葉に直樹の頬が赤くなる。それでも彼は何も聞かなかったかのように必死で平静を装った。平田はそれを見抜いて、知らぬ振りをする。そして何事もなかったかのように取りあえずのことを口にした。
「まだ日付けは変わっていないけど、家に連絡は?」
 すでに泊まることが決まっている。直樹がそう仕向け、平田がそれに同意した。高野のいない間の会話だ。
 冷たい水をもらいながら、直樹はただ首をふるだけで応えた。家に電話をする必要はない。今日は帰らないかもしれないことは最初から言いおいてきているし、心配する家族がいる訳でもない。家族が冷たい訳ではなく、直樹のことを信用しているのだ。そのうえ両親はながく留守にしているし、義弟は恋人を連れ込んで楽しんでいるはず。わざわざ連絡をするだけ馬鹿らしかった。
「そう?」
 平田はただ軽く頷くだけだった。たいした感慨も見せず、体にかけていたタオルにあわせてもういちまい、新しいタオルを直樹にわたしてやる。そのまま、家の中を案内するように寝室の場所を口伝える。
「取りあえず、シャワーでも浴びておいで。目は冷めちゃっただろう?」
 ほとんど唇が重なるかと思う程近くで囁かれて、直樹は身を固くした。だが平田の体はそれ以上直樹に重なることなく、呆気無い程に素早く離れてしまう。直樹が反応を示したのが恥ずかしくなる程、平田は涼しい顔をしていた。
「風呂から上がって、気が変わってなければ向こうの部屋においで。熱が冷めたんなら、ここで寝ればいい。毛布はだしておいてあげるよ」
 平田はそのまま寝室に消えていく。後でそこから毛布を用意するのだろうか? 残された直樹はただ呆然とタオルを抱え、彼を見送る。ほんの数時間前の自分の言動を思い起こすだけで顔が熱くなったが、自分が何を言ったかを忘れてしまった訳ではない。今の所その時の発言を撤回するつもりもなかった。この部屋に用意された毛布は、無駄にするつもりでいる。
 少なくとも、今の所は。
「・・・シャワー・・・」
 直樹はのろのろと立ち上がり、浴室に向かった。





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