その日、翔が頼まれた仕事もジャームを狩るものだった。樹木にウィルスがとりついてしまったとかで、神社の裏の森の中が大変なことになっているのだという。炎を操ることが出来る翔がいると、助かると言うことで向かったがまさか小さいとはいえ森一つを焼いてしまうわけにも行かず、結局は受身に回って、その木を切り倒す形で仕事は幕を閉じた。疲れた身体で支部に帰って報告をすませると、玲と樹はあっという間に消えてしまう。どうやら今は本当にレポートシーズンらしく、出来ることならこの仕事すら翔一人に押しつけてしまいたかったようだ。そんなことをされてはたまったものではないが。
「ご苦労様。あなたもこれから帰るの?」
時間的にはもうバスも走っていない。だが翔は篠原の事務所にバイクを止めているから、帰ろうと思えば家に帰ることが出来た。一応篠原が来てくれてはいるが翼のことが多少心配ではあったし、ここの仮眠施設よりは家の方がいくらもゆっくりと休むことが出来る。そのつもりだと翔は声をかけてきた明日菜に頷いてかえした。
「そう。少しだけ話をしたかったのだけど、構わないかしら?」
聞きながらも明日菜はすでに話をする気満々らしく、ふたり分のコーヒーを持って来ている。一つは自分の分だとしても、もう一つを飲むことになりそうな人は、今のところこのあたりにはいない。翔をのぞいては。
「無理って言っても話す気満々じゃないですか? 大丈夫ですよ。今日は戻れないかも知れないって言って来ていますから」
こちらの仕事が入ったときは何時、どんな風に終わる事が出来るかが分からないから、いつもそんな風に言って出てくる。篠原も仕事の性質を理解しているから、そこで変な疑問を差し挟んでくることもない。そうして翼のどうしてこんなに遅くなることが多いのかという疑問を絶妙にはぐらかし、うまく渡ってきてくれている。
「そんなに長話にするつもりはないわよ。すこしだけ、お願いしたいことがあったの」
笑って明日菜はコーヒーを勧める。これは眠気覚ましのつもりなのだろうか? あるいは脅し? 話をしている最中に寝てはただではおかないという。
「とても個人的なお願いなのよ。仕事と全く関係ないわけではないけど、すぐに直接関係があるわけでもない」
言って明日菜はコーヒーを飲む。どうぞと進められて翔もコーヒーに手を伸ばすが、口を付けるだけでなんだか喉を通らない。軽い調子で話し始めた割に明日菜の表情と声が余りにも真剣で、それだけで緊張を強いられたのだ。
「お願いしたいのは、篠原のこと」
言って明日菜は自分を落ち着けようとでもしているかのようにまたコーヒーに口を付ける。「篠原に私のことは聞いた?」
彼女にその質問をぶつけてからすでに一月半。最初の事件のすぐ後に篠原から話は聞いていた。だが翔はそれを明日菜に確認することはしていない。篠原があれだけ言い渋り、明日菜本人も口にしないと誓うような事柄が、そう軽々しく話題に乗せてよいものであるはずがない。どこがどう重要なのかが翔には分からなかったが、知らないことが多い世界では相手の見解に合わせることも大事だと十分分かっている。
「一応は」
言葉少なにうなずく翔の様子に満足したか、明日菜は小さくうなずいた。何を聞いたかとわざわざ確認することはしない。間違ったことを聞いているはずがないと信じているようだ。
「事の真偽はこの際置いておきましょう。ただね。それは私の弱みになりかねないの」
UGN支部長の弟。血を分けた兄弟。しかも、オーヴァードではない。そんなものがいると知れれば、それだけで狙われると明日菜は言う。そこまで言われて初めて翔もその意味を理解した。そう、こんな危険な仕事をしていながら、その事実が公になることで彼の身は危険にさらされるのだ。しかも、本人にはまるで対抗のできないほどの危険に。
「真偽は置いておくって……」
意味は十分理解できたが、その物言いは少しカチンと来た。翔は篠原がどれだけ明日菜のことを大事にしているのかをこのところ思い知らされている。それなのにその彼女は、たとえ篠原の身の安全にかかわるからといってこんな言い方を……。
「私の身内を探して狙うような相手なら、それがうそでも本当でもかまわないからよ。私の身内を捕まえたと、そういうだけで十分なの。実際篠原はここでも十分以上に働いてくれているから、人質としての価値はとても高い」
だからね、と。明日菜は激高する翔を落ち着けるように笑う。その顔を見ると一人怒っている自分がなんだか恥ずかしくなって、翔はすみませんと黙って頭を下げた。
「お願いだから、篠原の身の回りには気をつけて欲しいの。わかっているとは思うけど、これは篠原だけではなくて翼君もそう」
そうだ。もし翼に何かがあったらと思うと、翔も平常心ではいられない。もちろんそれは篠原にしても同じなのだが、彼なら何とか切り抜けるのではないかとうっかり思ってしまう。
「……と言うことでね。で、ここからが本題なんだけど。あなたたちどうしていまだに同居をしていないの?」
「……ぶっ……」
いきなりの言葉に、翔はコーヒーを吹きかけた。何とかこらえて飲み下すが、ごほごほと咳き込んでしまって言葉が出ない。
「あら。何をそんなに驚いているの? あなたたちがつきあっているって、私が知っていたこと?」
あまりにはっきりきっぱりと言い切られて翔はまた咳き込んだ。
「そんなに驚くことはないと思うんだけど。別にあなたたちのベッドの中の事情まで知っているわけじゃないんだから」
そんなところまで知られていては困る。翔は何とか平静を取り戻そうとするのだが、そのたびごとに明日菜からとんでもない言葉が飛び出してきて、なかなか気を休めることができない。
「どう考えてもそのほうが都合がいいでしょうに。なにか問題でもあるの?」
やっといくらかましな質問を投げかけられて、翔はようよう落ち着くことができた。咳き込んで痛むのどを落ち着けるように一度コーヒーを飲んで、息をつく。
「翼が……いえ、それは言い訳ですね。覚悟ができないだけですよ。でも、確かにそのほうがいいようですし」
そろそろ覚悟を決めるべきなんでしょうねと。翔は苦笑を浮かべる。翼が引越しを嫌がっていると言い訳に使っていたけども、彼が今の学校を卒業することにこだわっているだけだということぐらいすぐにわかった。だから、わざと誤解を生みそうな聞き方をして、誤解を受ける答えを引き出した。すべては、自分の心の平穏のため。
「覚悟ができていない? そんな適当な思いでのお付き合いだったの?」
少し意外そうに明日菜は問いかける。彼女はここ数ヶ月の付き合いで翔の性格をある程度知った。彼が、そんな適当な付き合いができる人間でないことは十分に理解している、と思っている。それに、篠原からも聞いていた。真剣に付き合っている相手がいるのだと。彼女のことを自分の姉だと思っている篠原は、時折頼んでもないどうでもいいような日常のことなども報告してくれたりしている。その中にある翔は、そんないい加減な人間ではない。
「そういうんじゃないんです。ただ、僕はオーヴァードですから。そんな風に普通の人と同じように自分の幸せを追ってもいいなんて思っても見なかったんですよ」
翼以外のすべてをある意味切り捨ててきた。篠原ともいつかはきっと別れなければいけないのだと思っていた。望む、望まざるにかかわらず。篠原からきっと離れていくと思っていた。万が一自分のこの超常を知られたとしたら。
だけど実際には篠原はその超常を知っていて、嫌悪してはいなかった。翔の悩みに気づいてやれず、申し訳なかったとまで言ってくれたこともある。そんな篠原だから、もし離れることになったとすればそのときはきっとすべて翔のせいなのだ。もう、能力のせいにすることはできない。
「大丈夫よ。篠原はとても執念深いの」
何が大丈夫なのかわからないが、明日菜は自信満々にそんな風に言う。
「一度決めたこととか、大切だと思ったものは絶対に譲らないの。その指輪をくれたのが篠原なら、あなたは地獄の果てまで追いかけられるわよ」
笑いながら、明日菜は翔の右手、人差し指にはめられている指輪をさす。それは確かに篠原に渡されたものだった。本人は渡すときにお守り、と言っていたけど。
「不安もあるとは思うけど、あまり逃げないであげてくれるとうれしいわ」
笑って、話はそれだけよと。実際問題として何を言いたかったのかはわからなかったが、彼女が遠まわしに自分たちのことを応援してくれていること、篠原が言った、彼の姉だということを認めてくれているのだとはわかった。それだけでも収穫かもしれない。
「引越しがすんだら連絡を忘れないでね」
その連絡はすぐに来るだろうと。明日菜は当たり前のように翔を送り出した。
支部を出ると翔は篠原の事務所のほうへと歩いていく。夜中の寒い中、ぽつぽつと。歩きながら考えるのは、明日菜のなぞめいた言葉と、篠原のこと、翼のこと。それでもバイクにまたがるころにはそんなことをとりあえず棚上げにして、ただ家に帰ることだけを考えた。風が身を切るように冷たかった。
家までは十分程度。バイクを止めてアパートの階段を上がって家の前まで来てみれば、やはり明かりは消えているようだ。当たり前だ。深夜を過ぎたこんな時間に翼がおきているわけがない。篠原が泊まっていればおきていることもありえる時間だったが、明かりが消えていることを考えると、眠っているのだろう。
「まぁ、遅いし」
起きて出迎えてくれたら、と思わなくはない。家に帰ると明かりがついていて、お帰りといってくれる誰かがいるのはとてもうれしい。思えば翼にはずっとそんな思いをさせてあげていないのだと少し申し訳なくなった。翔はいつも、翼に出迎えてもらっているというのに。
家の鍵をあけていると、奥の部屋から篠原が出てきた。明かりが、リビングから漏れている。
「お帰り、お疲れさん」
玄関の扉を開けて中に入ると、ちょうど部屋から出てきた篠原が出迎えてくれた。驚いて思わず時計を確認する。二時。ぎりぎり起きていてもおかしくない時間ではあるけど……。
「ただいま……起きてたんだ」
「ああ」
と。家の中に入ってきた翔の背中をぽんぽんとたたいて篠原は中へと誘う。部屋に入ると、まだ室内は暖かかった。
「そろそろ寝ようかって思ってたところだったんだよ。なんか飲むか? それともすぐに寝る?」
部屋の暖房を戻しながら篠原が聞いてくる。確かに疲れているから、すぐに眠ってしまいたいような気もするけど、同じだけ気分も高ぶっていていて眠れそうもない。
「少し休んでから寝るつもりだけど……。翼は?」
「十時過ぎに寝たよ。じゃあ、コーヒー入れててやるから、顔みてこいや」
翔の答えに篠原は玄関近くの、翼の部屋の方を指差す。
「でも、もう寝るところだったんだろう? いいよ、自分でするから寝てて」
翔は言って部屋を出たのだが、眠る翼の様子を確認してリビングに戻ってくると、篠原がコーヒーの用意をして待っていた。言っては見たが、自分の分まで用意しているのが見える。こうなるととりあえず一緒に一休みするまで布団には入らないだろう事が容易に想像できた。
「いや、眠かったわけじゃないから。することもないし寝るかってだけでな。話もあるし」
話、と切り出されて翔も小さくうなずく。こちらからも話があった。同居の話を、切り出さないといけない。いやその前に問題がないだろうとは言え翼の同意を得ておかなければいけないだろうか。
「なんだ、そっちも何かあるのか?」
なんだ、と。問いかけてくるのに翔は小さく首を振ってそちらから、と促す。話は確かにしなければと思っていたけど、やっぱり翼に先に話をしておかなければいけないような、そんな気もしたから。
「ああ、じゃあ。引越しの話だけどな」
ごふ。
まったく同じところに話が来て、翔は咳き込んだ。相手は大丈夫かと心配をしながらも、話を続けてくれる。まさか同居は取りやめにしようとか、そういった話なのだろうか。
「翼に聞いてみたんだけどな。別に引越しかまわないって言っているぞ」
お前どんな聞き方をしたんだ、と。重ねられる言葉に翔は苦笑しかもれない。どんな聞き方、といわれても、もちろん翔の望む返事が返ってくる聞き方をしただけだ。
「うん、まぁそうだろうね。卒業したらかまわないって言ってただろう?」
翼に聞いたんだ、と。その上で翼が言うだろう言葉を言えば、相手は少し困惑したような顔をしている。
「つまり、同居したくなかったのはお前だったってことか?」
「そういうわけじゃないんだ」
翔は翼が嫌がっているのではないとわかっていて、翼を理由にその話を遠ざけていた。つ、まり、遠まわしに断ってきていたということだ。それが何を意味するのか理解できないほど篠原も馬鹿ではない。
「違う。ただ……その、怖かっただけで。翼になんて言えばいいだろうとか、毎日どんな顔して会ったらいいだろうとかそんなわけのわかんない事ばっかり浮かんできて……」
翔だって、思う相手と一緒に暮らせるという考えがうれしくないわけがない。ただそれでも怖いという思いは消せなかった。のめりこんだ先を考えるのが怖かったといってもいい。
「まぁ、嫌だってんじゃなきゃ、いいけどな。翼の卒業後、越してくる。……それでいいな?」
うなずく。その様子に篠原は明らかに安堵したようにも見えた。
「嫌だったわけじゃないんだ、本当に。本当はもっと早く……だけど、ほら、あのこともあったし……」
飲み終えたコーヒーのカップをテーブルに置き、篠原の方へと移動する。座ったままの相手の後ろから腕を回し、抱きつくような形でもたれかかる。微妙に甘えるようなそのしぐさに、篠原は小さく笑って翔の頭をなでた。
「寝なくていいのか?」
「うん」
眠くないといえば嘘になるが、実際あちらの仕事の後は気が高ぶっていてなかなか眠ることができないのも事実。それよりも、昼に中途半端に放り出されたのをいまさらになって思い出してしまった。やわらかく触れてくる手が心地いい。
「でも、あんたが寝るなら……」
「ばーか」
時間を思い出し、相手の明日の仕事に思いを移した翔が暖かな背中から離れようとすると、こつん、と頭を小突かれる。
「この状況で寝れるかよ」
言って立ち上がった篠原は翔の手を引いて、寝室に連れて行った。
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